愛し君
 心地よい温もりに包まれながら、もぞりと小さく身じろぎを一つ。寝ぼけ眼で今ひとつはっきりしない意識の中、ここがどこで今現在どんな状況であるかを理解するまでに数秒を要した。
 暗闇の中、ぱちぱちと瞬きを繰り返すうちに次第に目が慣れていく。見慣れない景色に馴染みのない毛布。そして微かに聞こえてくる、自分のものではない誰かの寝息。それに気付いて寝返りを打つと、目の前にはすやすやと眠る奥村がいた。
 ブロンドの髪の毛、固く閉じた瞼、時折揺れる長い睫毛。出会った当初から日本人離れした風貌であると思ってはいたが、こうして至近距離で眺めてみれば腹が立つほど整った寝顔だと思った。

「……ほんと綺麗な顔してるよなぁ」

 なんて馬鹿みたいな感想を呟きながら、重力に負けて流れる彼の前髪を指ですくってみる。サラリと逃げていくそれを見つめていると、ふいに昨晩の出来事が脳裏をかすめた。

「好きです」

 これ以上ない、素直でまっすぐな愛の告白。率直な感想としては驚きが大半を占めていたが、それにときめかなかったと言えば嘘になる。身近な人物に愛されるということは意外にも喜ばしい出来事らしい。かつては鬼と呼ばれていた自分にも乙女な一面があったんだなぁ。なんて感心してしまうほど、昨日のセリフは見事にわたしの胸へと刺さったのだ。

 その後は場の雰囲気に呑まれ流され、アレコレ考えることを放棄したわたしは身も心も全て彼に委ねることにした。だけど先日の乱暴なそれとは打って変わって、昨夜の奥村は信じられないくらいに穏やかで。触れる指先も柔らかな唇も、耳元で囁かれる低くて甘い声も。わたしに向けられる、その何もかもが優しかった。優しすぎて怖いとすら思った。そしてそんな奥村に、わたしは何度も丁寧に愛された。それはそれは恥ずかしいほどに。
 昨晩の出来事を思い出そうとすると自然と顔に熱が集まってしまう。それほどまでに甘すぎる夜だった。奥村の首に腕を回しながら口から漏れたのは、わたしの知らないわたしの声だったから。

 求められれば求められるだけ必死に応え、気付いた時には時刻が0時を迎えようとしていたと思う。迫る眠気に抗えず奥村の隣でうつらうつらと瞼を上下させていると、それに気付いた彼がわたしの手を握った。それから不安そうな顔で「俺のものになってくれますか」と再度尋ねてきたものだから、わたしは「いいよ」と笑うしかなかったのだ。
 まさかあの奥村がそんなこと言うなんて思ってもみなかったし、わたしがそれに頷くなんて考えもしなかった。昨晩のやりとりを思い出しながら、寝息を立てる奥村をまじまじと眺めてみる。つい数ヶ月前までは憎くて仕方なくて顔も見たくない相手だったはずなのに、たった一晩で「可愛いな」なんて思えてしまうなんて。高校生の自分に教えてあげたら、一体どんな顔をするだろう。

「ふふ……」

 思わず溢れた笑い声。無防備な寝顔はいくらでも眺めていられるな、そう思っていた矢先のこと。固く閉じられていたはずの瞼が、音もなくパチリと開いたのだった。

「人の寝顔がそんなに面白いですか」
「ヒィ!」

 開口一番、耳に届いたのは不機嫌な呟き。心臓を鷲掴みにされるような不穏な空気に思わず悲鳴をあげると、暗闇の中スモークブルーの瞳と視線がぶつかった。
 ちょっと待て、いつから起きてた?どこから聞かれてた?コレはまずい、逃げなければ。本能がそう悟り、ベッドから飛び降りようとするも腕を掴まれて敵わない。「逃しません」と僅かに怒りを孕んだ声と共にベッドの中へ引きずり戻され、予想もつかない仕打ちを恐れてパニックになったわたしは「笑ってゴメンなさい!」とひたすら謝罪するしかなかった。

「寝顔見られたくらいで怒りませんよ」
「え、そ、そう……?」
「俺の方がいい経験させてもらいましたから」

 奥村はそう言いながらわたしの背中に抱きつき当然のように胸元に腕を回してくる。あれ、怒ってないんだ。ていうか、いい経験って何。そんな疑問を頭に浮かべていると「先輩が眠った後、隅から隅までじっくり堪能させてもらったので」と、まるで挑発するように耳元でそう囁かれた。

「……どういうこと」
「何されたか詳しく聞きたいですか?」
「いいです、遠慮します」

 何やら含みのある発言に血の気が引く。わたしは一体何をされたというのだろうか。それを推理しようとするも、残念ながら嫌な予感しかしない。きっと知らない方がいいことだ。うん、このまま何も聞かなかったことにしよう、そうしよう。脳内で自分にそう言い聞かせながら、胸元の布団にしがみついた。
 ふぅ、と小さく溜息をひとつ。軽く呼吸を整えた後、頭を持ち上げ窓辺に視線を移すとカーテンの隙間から街灯がうっすらと差し込んでいるのが分かった。外はまだ暗いらしい。恐らく夜明け前だろう。

「ねぇ、いま何時?」
「……4時半ですね」
「どうする、二度寝する?」
「目が覚めたのでこのまま起きてます」
「ん、そっか」

 枕元に置いていたらしいスマホ画面で時刻を確認した奥村は、それを伏せると再びわたしに抱きついた。それから首元に顔を埋めると、スンスンと鼻を鳴らしながら匂いを嗅ぎ始めたではないか。そんなことをして一体何になるんだ。謎の行動に呆れて言葉を失うも、よくよく考えれてみればただの愛情表現かと、そう合点がいった。

「奥村って、ほんとにわたしのこと好きなんだね……」
「まだ疑ってるんですか?いい加減しつこいですよ」
「いや、だって、考えれば考えるほど不思議だなって思って」

 懐かしの高校時代を思い返せば自然と頭に浮かぶのは些細なことで言い争っていた日々。いつ、どこでわたしに好意を寄せる場面があったのか。昨晩からいくら考えてみても、明確な答えは見つからなかったのだ。

「そんなの俺が知りたいくらいですよ」
「え?」
「態度がデカくて口が悪い、おまけに肝心なところは超鈍感。ハァ、なんでこんな人好きになったのか……」
「オイ!」
「……それでも、好きになったんだからしょうがないじゃないですか」

 今にも消えそうな声が鼓膜をくすぐり、胸の奥がじわりと熱くなった。想いを寄せられていることが嫌というほど身に沁みる。あぁ、本当に好かれてるんだなぁ。それを実感して少しだけ照れ臭くなっていると、彼の腕に力が込められて奥村の胸元とわたしの背中が密着した。そして次の瞬間「恋は理屈じゃないんですよ」と、まるで詩人のようなセリフを囁かれたものだから、予想外の展開に思わず吹き出してしまった。

「……何がおかしいんですか」
「いや、だって、まさかアンタの口からそんな言葉を聞く日が来るとは思わなかった……!」
「俺が何年拗らせたと思ってるんですか」
「そうだね、ふふっ、ご、ごめん」

 どうやら笑われたことが不服だったらしい。不貞腐れたような返事にまたしても笑いが込み上げてしまい、体を小刻みに震わせていると背後から小さな舌打ちが聞こえた。
 あぁ、ダメだ、笑っちゃダメ。恐らく仏頂面でわたしを睨みつけているだろう奥村の顔を想像しながら必死に冷静を取り戻そうとしていると──ふと、自分の腰背部に当たる硬いモノに気が付いた。

「……ねぇ、当たってるんだけど」
「当ててるんですよ」
「昨日いっぱいしたじゃん」
「足りないですね」
「え、誘ってんの?」
「どうでしょう」

 そう言うや否や、奥村は自分の腰をぐっとわたしに押し付けた。更に右手は胸元へ、そして左手は内腿へ。いつの間にか服の隙間から侵入していたそれは、素肌をなぞるようにしてわたしの身体を弄んでいた。

「んっ、ちょっと、やだ……!」
「その声……本当に俺を煽るの得意ですよね」
「アンタが変なところ触るからでしょ!」

 声を荒げながら腕を掴み、必死に抵抗していると「今更何なんですか?」なんて呆れられた。何なんですか?じゃないよ。昨日の今日で朝っぱらから何なんだ。そりゃこっちのセリフだよ!
 触られて、剥がして、もう一度触られて、それを叩く。触りたい奥村と触られたくないわたし。まるでいたちごっこだ。これも一種のイチャイチャになるのだろうか。早朝から勘弁してくれ。体力を無駄に消費しながら繰り広げられる攻防戦、それに終止符を打ったのは奥村の意外な一言だった。

「ナマエさん」
「!」
「……と、呼んでもいいですか」

 初めて耳にした、わたしの名を呼ぶ声。それに少しだけ胸が跳ねた。意表を突かれて思わず硬直してしまったが、わたしの口から紡がれたのは「うん、いいよ」という素直な返事。
 単なる思いつき?それとも、もっと前から名前を呼びたかった?奥村が今、どんな顔をしてるのか気になって仕方ない。布団の中でぐるりと身体を反転させ、頭を持ち上げると目が合った。何も言わず、ただ見つめられるだけの時間が数秒経過。これは期待されてるんだろうな、そう思った。そこにあるはずのない尻尾が、待ち遠しそうに動いているのが見えた気がしたから。

「光舟」

 じっと瞳を見つめてその名を呼ぶ。暗闇の中、少しだけ目を見開いたのが分かった。

「……って、呼んで欲しい?」
「分かってるならイチイチ聞かないでください」
「照れてる……かわいい、ふふっ」
「本当にムカつきますね」

 滅多に見れない姿が嬉しくて、つい意地の悪いことを言ってしまう。それに悪態をつかれてしまったが、思わず緩んでしまう口元は最早どうにもならなかった。

「……光舟」
「なんですか」
「ん、呼んでみただけ」

 そう言いながら瞼を閉じて彼の胸に顔を埋めた。腕を回して抱きつけば、奥村の匂いで胸が満たされる。落ち着くなぁ、愛しいなぁ。それから、幸せだな。
 今度こそ逃げなくて良かった。向き合えて良かった。肌から伝わる温もりを感じて、そう思わずにはいられなかった。

 わたしはこれから、彼のことを今よりもっと好きになる。予感が確信に変わった瞬間だった。


(20211129)
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