未練がましくてごめんね
 奥村に会ったら、まずは何から話そうか。

 陽が落ちてすっかり暗くなった街中を駆け抜けながら、ただそれだけを考えていた。要件は恐らく肉じゃがの催促だろう、掌の中では未だにスマホが震え続けている。
 いつまで経っても届かないソレに我慢の限界を迎えているのだろうか、それとも折り返しの連絡がない事に腹を立てているのだろうか。どちらにせよ、今は足を止めて電話に出る時間すら惜しいと思った。1秒でも早く、面と向かって顔を見て話がしたかった。

「ご、ごめ、遅くなった……!」
「自分から言い出したクセにスルーしようなんていい度胸ですね」
「だ、からっ……ハァ、ごめん、ってば!」

 部屋のインターホンを押した直後に現れた奥村は不機嫌以外の何者でもない。だけど、それも一瞬のこと。「なんでそんなに息切れしてるんですか」なんて言いながら眉根を寄せる奥村は、酸欠気味でまともに喋ることが出来ないわたしの様子に拍子抜けしているみたいだった。

「ちょっと、外で、せ、セトタクに、会ってて」
「は……?なんで拓と?」

 約束をすっぽかした挙句、わたしが他の奴と会っていたことが気に食わないのだろう。その名を聞いた途端彼の態度は再び不機嫌モードへ。いつにも増してイライラが見て取れるなぁ……呑気にそんな事を考えていると、奥村の視線がわたしの手元に落ちた。

「それで、肉じゃがは?」
「……あ、ごめん、忘れた」
「ハァ、何しに来たんですか」

 盛大な溜息と共に吐き出されたツッコミを聞いて、そんなにわたしの肉じゃがが食べたかったのだろうか。なんて思ってみたりするわけだが、正直今のわたしの頭には肉じゃがの肉の字もない。
 寒空の下、全力疾走したせいで顔が火照る。油断してると垂れそうになる鼻水を啜りながら、ただ真っ直ぐに目を見つめて口を開いた。

「セトタクに、昔の奥村のこと聞いたから……今度こそちゃんと話しようと思って」

 今更だけど、有耶無耶にしたままだった2年前の夏のケリを着けよう。全てを語らずともわたしが言わんとすることを察したらしい。音もなく見開かれた奥村のスモークブルーのそれを見て、そう悟った。

「拓から何聞いたんですか」
「奥村がわたしのことどう思ってるか、とか……色々」

 濁しながらそう告げるとバツの悪そうな顔で視線を逸らされた。どうやら心当たりがあるらしい。じゃあ何だ、セトタクが言ってたことはやっぱり本当だったのか?信じられないけど信じるべきなのかもしれない、今更ながらにそんなことを考えていると「じゃあ、昔話でもしますか」と奥村はわたしを部屋に招き入れた。
 鬼が出るか蛇が出るか。ごくりと音を鳴らして唾を飲み込み、無言で彼の背中を追った。


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 見覚えのある1K特有の狭いキッチンを抜けて奥へ進むと8畳一間の洋室に辿り着いた。紺色のラグに腰を下ろしながら、部屋をぐるりと見渡してみる。同じマンションで同じ間取り、だけどわたしの部屋と比べて随分とシンプルな部屋は奥村らしいと思った。そういえばわたしが奥村の部屋に上がるのはこれが初めてだったよなぁ。なんて考えていると、マグカップに入った暖かいお茶が目の前のローテーブルに2つ並べられていた。
 あの奥村が、わたしをもてなしている……!その事実に少しだけ驚きつつも、素直に「ありがとう」と謝礼を述べる。奥村はわたしの隣に腰を下ろしながら「高校時代の話ですけど」と早速本題について切り出した。

「苗字先輩、沢村先輩のこと好きでしたよね」
「は……はぁ?」

 てっきり衝突の原因を打ち明けられるものだとばかり思っていたのに、彼の口から飛び出したのは思いもよらない男の名前。なんでここで沢村?予想外もいいところ。その上わたしが沢村を好きって。何だ、それ。
 訳が分からず呆然としていると「2年前の夏大初戦の日、抱き合ってたじゃないですか」と彼は続ける。2年前の夏大初戦といえば、わたしと奥村が衝突した日。それはまさにわたしが向き合いたかった過去……なのだが。正直なところ、あの日の出来事は奥村に罵られたことしか印象に残っていない。

「抱き合ってた……?わたしが?沢村と!?」

 何言ってんの?なんて笑い飛ばしたかったけれど、この状況で奥村がそんな冗談を言うとは思えなかった。だったら何だ、記憶にないだけで本当に抱き合ってたのか?そんなまさか、恋人同士じゃあるまいし。ますます混乱して頭を抱えていると、見かねた奥村が事の詳細を説明してくれた。
 夏大初戦、試合直前の球場。ダッグアウト奥のスペースにいた、わたしと沢村。その一つ一つの言葉に手繰り寄せられるように『まだまだこれから、夏は始まったばっかだよ』そう唱えながら、強張っていた沢村の背中を叩く懐かしの記憶が蘇った。そういえば、そんなこともあったっけ。

「あれは、おまじないっていうか……別に深い意味があった訳じゃないよ」
「深い意味がなくてもああいうことするんですか?俺の手は振り払ったくせに」
「振りはら……え、え?」
「覚えてないならもういいです」

 ふい、と視線を逸らした奥村は機嫌を損ねたのかそれきり口を閉ざしてしまう。その様子に少しだけ腹が立った。記憶にないわたしが悪いんだろうけど、覚えてないんだからしょうがないじゃないか。そうやって不機嫌になるんだったら有耶無耶にせずちゃんと説明してよ。ふつふつと湧き上がる不満が思わず口から溢れそうになるが、マグカップから立ち上る湯気が揺れる様子を見ていると少しだけ苛立ちが落ち着く気がした。

「〜〜っ、だから、あれは子供をあやす感じだったの!親戚の子にやってたことの真似事っていうか、1年の時にもやってたことだったし……」
「へぇ、1年の時にも同じことしてたんですか」
「悪い!?アンタ知らないと思うけど、1年の夏大のあと色々と大変だったんだからな!それに沢村はなんていうか……危なっかしくて放っておけないところがあったから、つい世話焼きしちゃってたんだよ。好きとか、そういうのじゃないから」

 バカでうるさくてどこまでも真っ直ぐ。チームにおける存在感は勿論のこと、声のデカいこの男がマウンドに上がればどんなピンチも乗り越えてくれるのではないかと、高校時代チームメイトの誰もがそんな期待を寄せていたはずだ。
 わたしが沢村に抱いていたのは恋愛感情なんかじゃない。憧れや尊敬に近い、何とも言い難い不思議な感情なのだ。

「沢村って天然人タラシでしょ?三高の天久さんとか西邦の明石さんとか……アイツに一目置く人なんて今までに沢山いたじゃん、それと同じだよ」

 ていうかアンタだって沢村に執着してたうちの一人でしょ!追い討ちをかけるようにそう続けてやれば、心当たりがあるらしい奥村は気まずそうな顔で再びわたしから視線を逸らした。

「ていうか、何、もしかしてそれが原因でブチ切れてたわけ!?」
「……悪いですか」
「だったらもっと早く言ってよ!」

 色ボケだとか浮ついてるだとか、散々罵られた理由は沢村との仲を誤解してたからだったのか?そこに深い意味はなかったとしても、確かにアレは試合前の行動として少し軽率だったかもしれない。だけどもっと早く誤解を解いていればこんなことにはならなかったはずだ。どうしてあの時、もっとちゃんと向き合わなかったんだろう。
 深い溜息を吐きながら項垂れると「確かめるのが怖かったんですよ」と弱々しい声が耳に届いた。それは、つまり。言葉の意味するところを考えながら顔を上げて奥村に目をやるも、未だ視線は逸らされたまま。先程聞いたセトタクの言葉と2年前の激怒の理由、それから奥村のこの態度。それら全てが繋がっていく。だから沢村の話をする時、あんなに棘があったのか。

「嘘でしょ……」

 張り詰めていたものがふつりと切れて、思わず脱力。いや、でもこれ、普通は沢村に怒るとこだよね。にも関わらず怒りの矛先はわたしだけに向けられていた。それは“真面目に仕事をしてるフリをして下心があった”そう捉えられていたからなのだろうか。
 それでも、過去の自分が傷付いたことには変わりない。いくら勘違いだったとは言え、あれだけ好き勝手に罵られれば当時を思い出すと辛いのは当然のことだ。

「……わたしだって悲しかったよ。アンタのせいで、あれから夏が嫌いになったんだからな!」

 半ば叫びながら2年分の恨み節を唱えると、驚いた表情をした奥村と視線がぶつかった。ずっとあの日を引きずっていたのはわたしも同じ。多分、お互い様だ。
 過去のわだかまりが少しずつとけていく。少しだけ温くなったマグカップを両手で包み込むと、緊張で冷えていた指先がじわりと温まるようだった。

「沢村先輩のこと、本当に何とも思ってないんですか?」
「そうだよ、何とも思ってないよ」
「同じ大学選んだのに?」
「たまたまだから!」

 この期に及んでまだ疑うのか。呆れを通り越して怒りさえ湧いてくる。どうやら彼の信頼を得ることは簡単じゃなさそうだ。それほどまでに、沢村という男の存在は大きいらしい。

「まぁ高1の頃からずっと傍で見てきたから、多少気にかけてたかもしれないけど……」
「ほら、自覚してるじゃないですか」
「親心的な意味でね!?ていうか沢村贔屓みたいな言い方してるけど、マネ時代は部員全員平等にしてきたつもりだから!それに……後輩の中では、アンタのこと一番気にかけてたつもりだよ」

 入部当初、生意気で危なっかしい発言が多かった奥村はわたしがとりわけ気にかけてきた後輩だ。これはその場凌ぎの言い訳なんかじゃない、れっきとした本心。だけど──この男は、果たしてそれを信じてくれるのだろうか。
 不安になって様子を伺うも奥村の表情は変わらない。だけど次の瞬間「知ってます」と小さな声が聞こえた。

「ちゃんと、分かってました」
「は……?」

 分かってたって、何が。そう尋ねるより早く奥村は続けた。

「沢村先輩と言い争った時も、捕手以外のポジションをやるつもりはないと監督に言った時も……陰で苗字先輩がフォローしてくれてたこと、全部、知ってましたから」
「じゃあ、なんでそんなにトゲトゲしてんの」
「ただの嫉妬ですよ。俺も、一応男なので」

 ただの嫉妬。ついに明かされたその事実に直面して思わず声を失った。認めちゃうんだ、それ。もしかしてヤケクソになってる?唖然としてると「大学で苗字先輩に再会できたら、あの日のこと謝ろうと思ってたんですよ」なんて驚きの告白をされてしまった。
 いやいや、ちょっと待ってくれ。「謝ってもらってないんだけど?」そう悪態をつくも「再会の雰囲気が最悪だったのでタイミング見計らってたんですよ」なんて反論されてしまう。「むしろ謝るどころかとんでもないことされたんだけど!?」負けじとそう言ってやれば「いつまでも俺のこと後輩扱いするばっかりで意識されてないことに腹が立ったんですよ」なんて開き直られた。

「2年前のことは謝りますけど、一昨日のことは先に苗字先輩が煽ってきたので両成敗だと思ってます」
「アレは……まぁ、わたしもやりすぎたと思ってる。でも言わせてもらうけどねぇ?アンタわたしのこと慣れてるんですか?とか何とか抜かしてたけど、どう考えても奥村の方がやり慣れてる遊び人じゃん!」

 事が終わればさっさと身支度済ませちゃってさぁ?涼しい顔しちゃってさぁ!?なんて煽ってみるも、当の本人は何言ってんるんですか?と言わんばかりの顔でわたしを睨み返すだけだった。

「俺は初めてでしたよ」
「う、嘘だぁ」
「嘘じゃないです」
「……本気で言ってんの?」

 じゃあ何、あれだけ冷静な態度でわたしのこと抱いておきながら実は童貞だったってこと?嘘でしょ。それは逆に怖すぎる。ていうかそれが本当なら、わたしが奥村の初めてを奪っちゃってたことになるじゃないか。
 血の気が引くのを感じながら絶句していると、隣に座っていた奥村がこちらに向き直しながら正座した。これは何か真面目な話をされるのだろう。それに気付いて彼を真似、同じように正座して向き合った。

「一昨日も聞きましたけど、苗字先輩は俺のことどう思ってますか」
「だからそれは、今も昔も生意気な後輩……」

 尻すぼみがちにそう答えると、面白くないと言った顔で舌打ちされた。そんなに男として見られたいのだろうか。わたしなんかに?変な男だな。そう思うと憎くて仕方なかったはずの相手が不思議と可愛く見えてくるのだから、人生って何が起こるか分からないな。なんて柄にもないことを考えてしまう。

「………だと思ってたけど、そう見えなくなってきてるので、正直困ってる」
「それは、男として意識してくれているとみなしていいんでしょうか」
「だってあんなことされたら意識しない方が無理じゃん」

 油断すると顔が赤くなりそうなのを必死に堪えながら素直にそう告げると「だったらもっと早く手を出すべきでした」なんてトンチンカンな返事が返ってきた。
 何言ってんの?犯罪だからな!そう叫んでやりたい衝動をぐっと抑えたところで、先程からずっと気になっていた疑問が頭に浮かぶ。

「ねぇ。奥村って、ほんとにわたしのこと好きなの……?」

 我ながらバカみたいな質問だ。はたから見ればとんだ自意識過剰女だな。だけど確認せずにはいられなかった。
 いつから、何がキッカケでそうなったのかは分からない。それでも、誤解してすれ違っていた時間を埋めるためにはどうしても本人の口からそれを聞きたかったのだ。

「好きですよ。それこそ、高校生の頃から。じゃないと手なんて出しません」
「ほんとに?マジで言ってんの?」
「嘘ついてどうするんですか」
「そうだけど、奥村がわたしを好きって……なんで!?」

 面と向かって本音を聞いたというのに、どうしても素直に信じられない。わたしも相当拗らせてるな、そう思った。だが、思わず発したわたしの失礼な問いに奥村は「人の告白をそこまでぞんざいに扱うなんて酷いですね」と呟きながら──ふっ、と口元を綻ばせたのだ。

「え、今、わ、笑った……!」
「悪いですか」

 恐らく無意識だったのだろう。思わず指摘してしまった希少でレアな表情に驚きを隠せないでいると、すぐにいつもの仏頂面に変わって睨まれた。
 いつか見た、笑顔の奥村の写真が脳裏をよぎる。そうだ、わたしは彼のポーカーフェイスを崩したかった訳じゃない。この顔が見たかったんだ。

「わたし、ずっと、奥村に笑って欲しかった……」
「そうなんですか」
「そうだよ!」
 
 嬉しい。そう呟きながら、ぼろぼろと溢れる涙を拭っていると手を取られた。わたしよりも大きくて骨張った掌に包み込まれ、それはゆっくりと温められていく。
 泣いてるわたしを慰めてくれているのだろうか。それともただの気まぐれだろうか。相変わらず奥村の表情は読み辛いし何を考えているのか分からない。だけど、今度こそ本当に元の関係に戻れると思ったら不思議と心が軽くなった。
 俯いていた視線の先に影が落ちる。それに気付いて顔を上げると、スモークブルーの綺麗な瞳がすぐそこに迫っていた。

「……なに、近いんだけど」
「キスしてもいいですか」
「はぁ?」

 キス?今、キスって言った……?この男、真顔でわたしにとんでもない要求をしている。それに気付くや否や手を振り払い、無言で距離を詰めてくる奥村から飛び退いた。

「なんでそうなる!?」
「俺の彼女になってくれるんじゃないんですか」
「え、え、えぇーー……」

 待て待て。告白はされたけど、そんな話してないよね?混乱する頭でこの場をどう逃げ切ろうかと考えていると再び手を捕らえられてしまった。
 何て返せばいいか分からない。だけど逃げるに逃げられない。吸い込まれそうな瞳でじっと見つめられて、ついにわたしは観念した。大人しく目を閉じてそれを受け入れてしまったということは、多分、そういうことなんだろう。

「好きです」
「知ってるよ、それさっき聞いたから」
「じゃあ、俺のものになって下さい」

 返事をする間も無くやってきたのは本日二度目のキス。だけど触れた唇が優しかったから、色んなことがどうでも良くなっていた。薄々感じてたけど、わたし押しに弱いのかもしれないなぁ……どちらからともなく指を絡めながら、呑気にそんなことを考えた。
 次に夏を迎える時、わたしは何を思うかな。奥村が隣にいてくれるなら、もう一度夏を好きになれるかもしれない。蒸し暑かったいつかの夜、アルコールの回る頭でそんな事も考えたっけ。
 差し込まれた舌に翻弄される。熱くて頭がとろけそうだ。これから自分はどうなってしまうのだろう、その先を想像すると少しだけ怖くなった。


(20210730)
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