あの日裏切ったままの純情
(夢主 中3〜高3過去→現代編)


「君は生まれつき外側半月板が大きかったんだね。テニス部だったっけ?それで膝に負担がかかって傷んだのかな。でもオペすれば治るし、数日で退院できるから。数ヶ月もすれば選手として復帰できるよ」

 部活引退目前の中学3年の夏、炎症症状が出ている左膝をさすりながら母親と共に整形外科を受診した。“外側半月板損傷” それがわたしに告げられた診断名だった。

「オペ……って、え、手術するんですか……?」

 ドクターコートを羽織った医師から伝えられた内容は当時の自分には未知の領域。ニコニコと早口で捲し立てられたソレは、蜃気楼のように揺らいでぼやけて全くと言っていいほど頭に入らなかった。重篤と捉えるべきかはたまた軽微と捉えるべきか。何をどう判断して良いか分からず、汗ばんだ手でスカートの裾を握ることしか出来なかった。

( なんか、もう、どうでもいいや )

 幼い頃から続けてきたテニスが好きだった。とはいえ、全国大会に出場出来るほど強かったわけでもなければ目を引くような才能があったわけでもない。ただ、高校へ進学しても続けようと思うくらいには夢中になっていた。
 だからこそ今回の件は寝耳に水。“選手として復帰できる” 医師にはそう言われたものの今は現実を受け入れることで精一杯。先のことなんて、何も考えられなかった。


:
:
:


『高校球児応援コーナー!本日紹介するのは××県代表の××高校です!』

 夏休みを利用して臨んだ手術が無事終わり、退院日までリハビリに明け暮れる日々を過ごしていた8月中旬。なんとなくつけっぱなしにしていたベッドサイドのテレビから流れてきたのは、朝のニュース番組内に組まれた夏の甲子園特集。その日放送されていたのは、特に高校野球ファンではないわたしでも知っている県外の有名私立校だった。
 名の知れた私立高校なんだから全国から選手をかき集めれば強くて当然。初めこそそんなふうに思っていたのだが、気付けば画面の中で奮闘する球児の姿に釘付けになっていた。

「うわ、すごい……」

 わずか15歳で実家を離れ、次に待ち受けていたのはチームメイトとの寮生活。言わずもがな、朝から晩まで野球漬けの日々。3年間の高校生活で唯一の楽しみがコンビニに寄ることだった、なんて。自分の境遇と大きくかけ離れている世界に触れた途端、何故か胸の奥がじわりと熱くなった気がしたのだ。
 高校生なんて遊びたい盛りのお年頃のはず、だけどテレビ画面の向こうの彼らには自由がない。娯楽で溢れた生活を捨て、自ら選んだのは野球のために拘束された環境だった。

 “夏といえば甲子園” そう表現しても過言ではないほど日本の夏には甲子園が浸透しているけれど、そこまで高校球児を魅了する甲子園って一体どんな場所なんだろう。何が彼らを沸き立たせるのだろう。あの夢の舞台場所には何があるんだろう。それが、何故か無性に知りたくなった。

「そういえば……」

 ふと頭に浮かんだのは自宅近くの私立高校。最近は甲子園出場機会が乏しいけれど、西東京ブロックでトップ3と噂される高校野球の強豪校。
 わたしは選手にはなれないけど、マネージャーなら選手を支えながら甲子園を目指すことができる。野球のことは詳しくないけど挑戦してみたい。あの場所に何があるのか確かめに行きたい。それは、新たな目標を見つけた瞬間だった。
 月日が流れ、日に焼けていたはずの自分の肌がすっかり白くなった頃。わたしは青道高校の合格通知を受け取った。


:
:
:


 念願の青道高校へ入学し、数日後には同じクラスの春乃と共にマネージャー希望届けを提出。そこからの高校生活は想像以上に大変だった。
 先輩マネージャーから手始めに教わったのは日々の業務。それからスコアや日誌の書き方、備品の管理、テーピングやアイシング等の処置方法、遠征時の対応、試合のデータ整理に分析、その他もろもろ。裏方作業は地味な割に何かと多忙。そして選手と同様、休みなんてほとんどない。だけど不思議と楽しかった。入学当時からエースエースと口うるさい沢村の成長を傍で見守りながら鬼マネージャーとしての頭角を現し、気付けば春を迎え、2年生になっていた。

「ナマエ、なんか変な噂流れてるの知ってる?」
「噂?何ですかソレ」

 後輩が入ってきてしばらくした頃、幸子先輩から妙な話を耳にした。どうやら野球部1年の間で「苗字先輩は後輩に言い寄られないためにわざと俺たちに厳しく接してるらしい」なんて根も葉もない噂が流れているとか。
 何だその噂は、バカバカしい。残念だったな、わたしの口の悪さは元からだ!腹の中でそう毒を吐きつつも、噂を否定するのが面倒だったわたしは敢えてそのまま泳がせることにしてみた。鬼だとか怖いだとか口が悪いだとか、陰で誰に何と言われようとこのスタイルを変えるつもりはない。部員全員が怪我や後悔なくプレーできるよう全力でサポートする、わたしが目指すところはそれだけだった。

 しかしさすがは体育会系のスポーツマン集団。数ヶ月も経てばわたしの当たりの強さにも免疫がついてきたらしく、気付けば自分を慕う後輩が自然と増えていた。
 可愛い顔して粘り強くどこまでも努力家な由井くん。放っておくとまた怪我をしそうな九鬼くん。前キャプテンよりマイペースな結城弟。何かと世話を焼きたくなる浅田。人当たりがよく気配り上手なセトタク。それから……どこか一年前の沢村を彷彿させる、精神的に幼く生意気で危なっかしい発言が多い奥村なんかは、とりわけわたしが気に掛けていた後輩かもしれない。

 だけど彼のことをより一層深く知りたいと思うようになったキッカケは──多分、あの一枚の写真。

「なんだなんだ?テスト終わったのにみんな集まって……ゲームでもしてんの?」
「あ、苗字先輩お疲れ様です」

 前期期末テスト最終日の夜。青心寮の食堂へ足を踏み入れると、セトタクを中心とした後輩の小集団がテーブルにかじりついて何やら賑わっていた。気になって傍に歩み寄り輪の中を覗き込むと、テーブルの上に広げられていたのは一冊のアルバム。「部屋の片付けしてたら懐かしいものが出てきたんで、久々に見てたんですよ」そう続けるセトタクの言葉を聞きながらアルバムに視線を移すと、見慣れないユニフォーム姿の野球少年がずらり。どうやらシニア時代の写真らしい。

「へぇ、大京シニア時代の?じゃあ奥村も写って……る……え?ちょ、何コレ!?」

 どうせ中学時代もふてぶてしい態度だったんだろう。そんなことを考えながら金髪碧目を探していると、アルバムの中に信じられないものを見つけてしまった。

「お、奥村が、笑ってる!?」

 思わずそれを奪い取り、傍にいた本物の奥村と写真を交互に見比べてみる。今現在ゴミでも見るような目付きでわたしを睨んでいる奥村は、アルバムの中でニコニコと愛嬌たっぷりに微笑んでいるではないか。それはそれは可愛らしい顔で。
 どういうことだ、何があった、コレは誰だ!?訳が分からず混乱していると機嫌を損ねた奥村に「返してください」とアルバムを奪われてしまう。この反応、過去の自分をわたしに見られるのが嫌と見た。人違いの可能性もあると思ったけれど、どうやらこの写真は本物の奥村らしい。

「何がどうなってこんな闇堕ちルートに!?」
「失礼ですよ」

 いつになく不機嫌な様子でアルバムを閉じる姿に、過去によっぽど酷い事件でもあったのかと勘繰ってしまい──そこで一つの出来事が脳裏に浮かぶ。数ヶ月前、たまたま聞いてしまったのは落合コーチの1人ボヤき。大京シニアにまつわる、金と権力の黒くて汚い大人の噂。

「もしかして、野球嫌いになった……?」

 その問いかけに奥村は目を見開き、すぐに気まずそうな表情へと変わった。じっと見つめていると居た堪れなくなったのか「別に、嫌いになんかなってないです」と答えたあとアルバムを抱えたまま背を向けてこの場から去ってしまう。あぁ、失敗した。ちょっと無神経だったな。もっと上手く聞けばよかったのに。

「ああ見えて、光舟はよく笑う奴だったんですよ?」
「……そうなんだ」

 落ち込むわたしを安心させるように語り掛けてくるセトタクの声が胸によく沁みる。『よく笑う奴だった』俄には信じがたい言葉だけど、先程の写真を見れば納得できる。それ程までに彼の心の傷は深いのだろう。

「奥村が笑ってるとこ、見たいなぁ」

 ぽつりと溢れた本音は隣にいたセトタクの耳に届いていたらしい。バチリとぶつかった視線を合図に「いつか見れるといいですね」とセトタクが笑い、わたしは小さく頷いた。それは、まだ見ぬ未来へ向けた願いが生まれた日。

 一人の人間としては好かれていないだろうけど、マネージャーとしてはそれなりに慕われ信頼されていたはず。日常茶飯事のように喧嘩をしていた高校生活だったけれど、なんだかんだでわたしと奥村は上手くやってると思っていた。
 それから季節が巡り月日は流れ、ついに迎えた「あの日」。それは、わたしの高校最後の夏。西東京大会初戦の朝のこと。

「試合前にこんなとこで何してんの?」
「おー、苗字か……」

 姿の見えない沢村が気掛かりで一人捜索していると、彼を見付けた先はダッグアウトの奥のスペース。頭にタオルを被り椅子に腰掛け、俯きながら手元に視線を落とす姿がいつかの光景と重なる。傍に歩み寄りタオルを剥ぎ取ると、少しだけ表情の固い沢村と目が合った。

「顔怖いぞ〜〜何、また一人で気負ってんの?」
「いや、なんつーか……これが最後の夏だと思うと変に力みそうになってな」

 かつての記憶が蘇る。初めての夏大、稲実との決勝戦で放った死球、そして敗北。その後の練習試合で沢村のイップスが発覚し、彼が人知れず涙を流したことは今でも鮮明に覚えている。それでもプレッシャーに押し潰されず、諦めず、ただ前を向いてひたむきに走り続けてきた。何度躓いても立ち上がってきたその姿勢に、わたしは何度感化されただろう。

「大丈夫だよ」

 呪文を唱えるように語りかけながら、正面に立って肩を引き寄せ抱き締める。突然のことに驚く沢村を気にも留めず、その柔らかい髪の毛を撫でてやった。まるで、泣いた赤子をあやすように。

「懐かしいな、2年前にもこうやってお前に慰められたっけ」
「ははっ、さすがに覚えてた?あの時は“俺は赤ちゃんじゃねーぞ!”って怒ってたよね」
「まぁ……でも、今なら安心する気持ちも分かるな」
「でしょ?」

 笑いながら2年前の夏に想いを馳せるが、今だから笑い話にできると思った。薬師との練習試合の夜、ひと気のない河川敷の階段に腰掛けている沢村を見かけた時、どうにかして支えたくて、力になりたくて。だけど安っぽい励ましの言葉なんて掛ける気にもならなくて。迷った結果実行したのは、ただ抱き締めて安心させてあげることだった。

「まだまだこれから、夏は始まったばっかだよ」

 あの日の夜と同じく、心音のリズムを伝えるように掌で背中を優しく叩くと、沢村はわたしの腕の中で小さく笑った。
 沢村という男は本当に不思議な魅力を持つ男だ。バカでうるさくてどこまでも真っ直ぐ。第一印象はただの『暑苦しい奴』だったのに、気付けばいつの間にか巻き込まれて絆されて夢中になっている。わたしも奥村も、コイツに魅了された、言わば信者の1人だな。そう思った。

「多分奥村も探してるよ、ベンチに戻ろ」
「そうだな」

 さて、生意気で無愛想で可愛げがないけれど、それ以上に頼りになる後輩捕手と共に初戦突破を目指そうか。そう思っていた矢先のこと。ベンチで待ち受けていたのは、わたしを貫く冷たい言葉だった。
 積み上げてきたものを否定された気がしてただ悲しかった。信頼されていると思っていた相手だからこそ、余計に。

「アンタにだけは、そういうこと言われたくなかった!!!」
 
 あれだけ沢山本音でぶつかってきたのに、肝心なところは何一つ伝わってなかったんだな。それが虚しくて悔しくて、気付いた時には腹の底から本気でそう叫んでいた。

「オイ!どーしたよ!?」
「知らないよ!」

 騒ぎを聞いて駆け付けた金丸に心配されるも、わたしは怒鳴り返すことで精一杯。我慢が限界を迎えて俯くと、重力に負けて落ちていく涙が床に染みを作っていく。それを見てハッとした。ダメだ。下を向くな、前を向け。日々部員へ向けて放っていた言葉がブーメランのように自分へ突き刺さる。
 手の甲で涙を拭い頭を上げると、雲一つない夏空に輝く太陽の日差しに目が眩みそうだった。わたしから遠ざかっていく白い背中を見つめながら奥歯を食いしばる。軋んで、嫌な音がした。


:
:
:

 
 あれから2年。あの時なんで奥村が怒っていたのか、その理由は未だに分からない。だけど、セトタクに会って思い出したこともあった。

「いつか見れるといいですね」

 密かに芽生えた、あの日の願い。ずっと胸の奥にしまい込んでいた想いは、彼のポーカーフェイスを崩すことじゃなかった。
 未だに続く着信、震え続けるスマホを握り締めながら、息を切らして夜道を駆け抜け考える。今度こそ全部知りたい。そして迷わない。もう、逃げたくないと思った。


(20210710)

top
- ナノ -