息をとめて愛を待て
 涙で滲む視界の端に見つけた名前をタップして、5度目のコール後に受話口から聞こえてきたのは「苗字先輩?どうしたんですか?」という穏やかで優しい声だった。それに安心したのか、ギリギリのところで耐えていた涙腺が崩壊。次から次へと溢れてくる涙はもはや自分では制御不能だったようで、気付いた時にはまるで子供みたいに声を上げながら泣いていた。それでもなんとかして必死に言葉を紡いだ結果、翌日の夕方に二人で会う約束を取り付けることに成功したのだった。

 セトタクとの待ち合わせ場所に指定したのは、お互いの家の中間地点に位置する駅付近にある緑色のロゴが世界共通レベルで有名なカフェ。大学の授業が終わり次第ダッシュで向かおう。そう意気込んでいたものの、今日に限って運悪く話の長い先輩に捕まってしまい、その上電車の乗り換えをミスしてしまう始末。やっとのことで待ち合わせ場所に着き、店の前でわたしを待っているセトタクを見付けたのは、約束の時刻から大幅に遅れた頃だった。

「ごめん!言い出しっぺのわたしが遅刻した!」
「いえいえ、俺もいま着いたところですから」

 気にしないでください、なんて言いながら笑顔を見せるセトタクは一つ年下とは思えないほどの余裕っぷりを醸し出していた。いま着いたところ、なんて嘘に決まってる。絶対待ってたよね、しかも立ったまま。
 今更ながら本当によくできた後輩だなぁ、そんなことを考えながら自動扉を抜けて店内に入る。せめてものお詫びと称して「なんでも奢るから好きなだけ選んで食べて飲んで!」とカウンターで財布を取り出すも「いくら先輩だからって女性に奢ってもらうつもりはないですよ」なんて爽やかに躱されてしまい、なんやかんやと言い争っている内に奢るつもりが奢ってもらう結果に。これでは面目丸潰れだ。

「わたしが誘ったのに……しかも遅刻までしたのに……!」
「まぁいいじゃないですか、たまには格好つけさせて下さいよ」 
「な……」
 
 なんという男前発言。眩しい、眩しすぎる。むしろ眩しすぎて逆に怖い。なんてバカみたいな感想を抱いてみるものの、考えてみればセトタクは出会った頃からこういう男だった。いつも周囲の人間──特に奥村を気遣い、先を読んで上手く立ち回っては、さりげなくサポートする。その上押し付けがましくなく、素直で謙虚。高校時代はその姿勢に感服したものだった。

「今晩からセトタクの家に足向けて寝れない……」
「ぶはっ」

 思わず溢してしまった心の声はバッチリと彼の耳に届いていたらしい。「ラテ奢っただけなのに大袈裟ですよ!」とゲラゲラ笑われてしまったが、不思議とその笑顔に救われた気がした。


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「で、先輩の相談っていうのは……」
「あぁ、うん、そう……それなんだけど──、」

 二人掛けのテーブルに対面座りするや否や口火を切ったのはセトタクの方。奥村とあんな事になってしまって今後どう接していいか分からない。だけど一体どこからどこまでどう話せばいいものか、その説明に迷った。
 冷静になって考えてみろ。あの奥村とわたしだぞ?2年もの間冷戦状態だった奴と一発やってしまいました、なんて、奥村と付き合いの長いこの男にどう説明すればいいのだろう。
 ここまで来ておいて言い出しにくい。でも、だからって、もう誤魔化せない。焦る気持ちを落ち着かせようと手元に置かれたラテを口へ運んだ瞬間、セトタクの口から飛び出したのはいきなり核心を突く内容だった。

「……光舟と何かありました?」
「ゴフッ、な、なんで分かるの!?」
「そりゃ苗字先輩が俺に相談って言ったら光舟のことしか思いつきませんよ」

 思わずむせてしまった口元を押さえながら正面を向くと苦笑するセトタクの姿が目に映る。本当にこの後輩には頭が上がらない。だけどこうして彼の方から奥村の名前を挙げてくれたのは素直にありがたいと思った。はなから奥村の話をされると踏んでいたことを知り、少しだけ緊張の糸が緩む。こうなったら瀬戸拓馬という大船に乗った気持ちで全てを打ち明け、その上でご教示頂こう。そう腹を括った自分がいた。

「お……一昨日の夜ね、色々あって奥村がウチに来たんだけど……わたしの配慮が足りなくて、奥村を怒らせちゃってさ」

 ごくりと音を鳴らして唾を飲み込み、手に持っていたラテをテーブルに置く。チラリと様子を伺うも正面に座るセトタクの表情は変わらない。

「その……怒らせた原因っていうのが、奥村がわたしに男として見られてなかったのが気に食わなかった、みたいな感じで……」

 そわそわと落ち着かない心は手先に現れる。耐熱紙カップに装着されたスリーブを無駄に回転させていると、そこに印字されたロゴモチーフであるイギリス神話の人魚・セイレーンと目が合った気がした。

「ちょっとだけからかうつもりだったのに、奥村、変なスイッチ入っちゃってさ」

 今でもハッキリと思い出せるのは、びくりと身体を震わせながら歪んでいく端正な顔立ち。その反応が新鮮で滑稽で、鼻で嗤った瞬間に火を着けてしまったんだっけ。今にしてみればアレは結構なセクハラだったな、なんて、この期に及んでそんなことを考えてみる。

「……で、ベッドに押し倒されたのがムカついたからビビらせようと思って煽ってやったんだけど、逆効果だったみたいで」

 熱くて艶っぽくて生々しい吐息、なのに相変わらず冷ややかなスモークブルーの眼差し。手首を押さえつけながらわたしの身体を好き勝手に弄ぶ指先、耳朶を這う熱い舌。荒い息遣いと汗ばんだ掌は今でも肌が覚えてる。
 あぁ、ダメだ、野獣の奥村が頭から離れない。欲のままにわたしを抱き、苦痛と快楽が混じり合った表情で果てるあの表情は多分この先も忘れられないだろう。
 リッドに刺さっていたマドラーを引き抜いてクルクルと回してみせるも動揺が隠せない。じわりと滲む手汗、自然と速まる心拍数。落ち着きたいのに、記憶の中の狼男がそれを許してくれなかった。

「その……家だし、ベッドの上だったし、奥村も男だからさ?歯止めが効かなくなったのか、アイツ、わたしのこと……!」
「あー……あの、もう大丈夫です、大体分かりました」
「えっ」

 先輩、顔真っ赤ですから。そう続けるセトタクの方こそなんだか顔が赤い。わたしの熱が伝染したのか、それとも──わたしと奥村が致してるところでも想像したのだろうか。だとしたら今すぐ辞めてくれ。
 今更だけど死ぬほど恥ずかしい。どんな公開処刑だ。だけどこうなることは目に見えていた。それでも、やっぱり気まずいことに変わりないけれど。とりあえず落ち着け。自分にそう言い聞かせながら、少し温くなった手元のラテを勢いよく喉に流し込んだ。

「……本当は色々文句言ってやりたかったけど、また、2年前みたいに気まずくなりたくなかったんだよね」

 ポツリと溢れた言葉は独り言みたいだった。変わらないといけない、同じことを繰り返しちゃいけない。今度こそちゃんと向き合おう、そう思ってた……のに。

「だから翌日バッタリ会った時普通に話しかけたのに……その時アイツ何て言ったと思う!?『呑気ですね、もしかして誰とでもああいうことするの慣れてるんですか』だよ!?わたしのこと何だと思ってんだ!」
「はは……」
「しかも怒りながらキスしてくるしさぁ」
「えっ!やるなぁ、光舟」
「そこ感心する所じゃないから!」

 詰めが甘いとか、隙だらけだとか、危機感がないだとか。頭に浮かぶのは説教じみた言葉を並べる不機嫌そうな奥村の顔。怒りながら手を出すという矛盾した行動には理解が追いつかない。もう、お手上げだった。

「わたしのこと嫌いなくせに、なんであんなことすんの?もう何考えてんのか分かんないよ……」

 深い溜息を吐きながら頭を抱えてテーブルに突っ伏すと、頭上から「誤解ですよ」と声が降ってくる。どういう意味?そう尋ねるべく頭を上げると、おしゃれメガネのレンズ越しに優しい瞳と視線がぶつかった。

「俺が言うのは筋違いですけど、光舟は苗字先輩のことずっと好きでしたよ」
「は……?」

 今、なんて?聞き間違いじゃないだろうか、そう思いながら数回瞬きを繰り返す。好き……?好きって言った?嫌いじゃなくて?目を丸くして混乱するわたしを見て、セトタクは一度噴き出してから小刻みに震えて笑い始めた。やっぱり気付いてなかったんですね、なんて言いながら。
 やっぱりって何だ。ていうか気付くとかいう以前に信じられるか!相手を誰だと思ってる?顔を合わせれば嫌味と文句しか言ってこなかったあの奥村だぞ!
 脳内では反論したい内容が次から次へと溢れて止まらないのに現実世界では上手く言葉にならない。奥村がわたしのことを好きだなんて、そんなことありえるのだろうか。

「去年の夏、苗字先輩に彼氏ができたって青心寮で噂になったとき、光舟めちゃくちゃ荒れてたんですよ?」
「ちょっと待って、その噂なんなの」

 いや〜〜あの時の光舟宥めるの大変だったな〜!なんて懐かしみながら苦笑するセトタクには申し訳ないが、わたしはそれどころじゃない。過去の話と言えど、何故引退して卒業したマネージャーのプライベートが筒抜けになっているんだ。一体情報源はどこだ。沢村か?沢村だな?沢村しかいないよな?
 だが、そんな事に今更腹を立ててもどうしようもない。そうだ、今はそんな事どうでもいい。頭を横に振りながら、沢村への怒りを一旦頭の隅に追いやって再び思考を元に戻す。セトタクは相変わらず落ち着いた表情でわたしを諭すように口を開いた。

「2年前の夏、光舟が苗字先輩に怒った原因は知らないんですけど……好きだからこそ、許したくても許せない理由があったんじゃないんですかね」
「それは……未だにわたしも分かんないけど」
「え、そうなんですか?」
「うん」

 結局、あの日奥村が激怒した理由は聞けずじまいで今に至る。このまま何事もなかったように元の関係に戻れるかもしれない、そう期待してしまった自分の甘さが嫌になる。ツケが回ってきたっていうのはこういうことだな。
 何一つ解決していないのに元に戻れるわけがない。そんなに上手い話があるわけない。考えれば考えるほど自分のポンコツ具合が露呈する気がした。鬼という二つ名が聞いて呆れるな。

「どうして光舟が明神大学に進学したか知ってます?」
「え……」

 ひとり勝手に落ち込んでいた自分に投げかけられたのは、まるでなぞなぞみたいな問いかけ。わたしの知らない空白の2年間を埋めるように、セトタクは優しい口調で説明を続けた。
 
「キッカケは大学からのスカウトでしたけど……進学を決める後押しになったのは、沢村先輩だけじゃなくて苗字先輩がいたからですよ」
「え〜〜いや、まさか……」

 そんなの、今更聞いたって信じられない。沢村を追いかけてくるのは分かるけど、わたしのことまで追いかけてくる理由なんてあるのだろうか。そこまで考えて先程聞いた言葉が脳内で再生された。『光舟は苗字先輩のことずっと好きでしたよ』もしもそれが本当なら。彼の中には確かな理由があるのかもしれない。

「まぁ、今は揉めてるみたいですけど……あの飲み会から随分打ち解けたみたいだし、今回の件が解決したら近いうちに苗字先輩の願いも叶いそうですかね?」
「願い?何それ」
「苗字先輩、高校の頃言ってたじゃないですか。いつか光舟の──、」

 その続きを聞いた瞬間。ザァ、と見えない風が吹き抜け、靄のかかっていた視界が晴れたような気がした。
 鮮やかに蘇る記憶は3年前の夏。青心寮の食堂、アルバムの中の一枚の写真。確かに覚えてる。わたしが初めて、奥村の心を開きたいと思った瞬間だ。そうか、そうだった。今までどうして忘れてたんだろう。

「……い、先輩、苗字先輩!大丈夫ですか?」
「あ……ごめん、ぼーっとしてた」
「まぁ、そういうことなんで。一度じっくり光舟と話してみたらどうですか?」
「うん、そうだね」

 ありがとう。笑顔でそう続けるも、何故かセトタクは浮かない顔をしていた。どうしたんだろう、そう思いながら彼の視線の先を辿ってみる。先程から妙に気にしているのは、どうやらわたしの右隣に置かれたカバンのよう。耳をすませば聞こえてくるのは、唸りを上げて震えているわたしのスマホだった。

「それ、さっきからすごい鳴ってますけど大丈夫ですか?」
「あぁ、そういえばさっきからうるさいよね、誰だろ……ヒィッ!」

 腕を伸ばしてスマホを取り出し画面をタップ。ロック画面に表示されたのは不在着信履歴が10件。ずらりと並んだ『奥村光舟』という名前に、思わず背筋が凍りついた。


(20210627)
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