(奥村視点 高1〜高3過去編)
3年前の夏、蝉が鳴き始める7月初旬。それを言われたのは突然のことだった。
「奥村は幸せ者だね」
「……は?」
ガコンと音を鳴らした自販機の受け取り口に手を伸ばしながら、苗字ナマエはそう呟く。いきなり投げかけられた言葉に困惑した結果、俺の口から漏れたのは間抜けな感嘆詞だった。
こちらへ振り向いた苗字先輩の右手には先程購入したばかりのサイダー。太陽の光を集めたペットボトルの中身がキラキラと光り、そのまばゆさに思わず目を細めた。
「青道の捕手のお手本として御幸先輩、三枚看板の投手には川上先輩、沢村、降谷。同級生には最大のライバルの由井くん、それにシニア時代からの良き理解者セトタクもいるでしょ?こんな環境で野球が出来るなんて最高じゃん、成長しかできないよね」
何を思ったのか、苗字先輩は俺の野球人生について考察を述べているらしい。どういう風の吹き回しだ。なんて、何か裏があるのかと勘繰ってしまうあたり俺は相当な捻くれ者だな。
だが、そんな俺のことなど気にも留めず、彼女は冷えたペットボトルを首筋にあてながら「あ〜〜冷たい」と心地良さそうに笑っていた。呑気な人だ。
「……そうですね、ついでに口が悪くて態度のデカい鬼マネージャーもいますし」
「一応聞くけど誰のこと言ってる……?」
「自覚がないなら末期ですよ」
「この炭酸頭からぶっかけるぞ」
笑顔から一転、鬼の形相に変わった苗字先輩はしばらく俺を睨みつけると何かを諦めたように溜息を吐いた。それから当然のように俺の隣に腰掛けると、俯きながら長い髪を耳にかけた。なんて事のない仕草に目を奪われているとシャンプーの匂いがふわりと香る。それに少しだけ心臓が跳ねた。
「言っとくけど、わたしだって中学まではテニス一筋のスポーツマンだったんだからね」
「なんでまた、野球部のマネージャーなんかやってるんですか」
「中3の夏に左膝故障したの。手術して完治してるから選手として復帰もできたんだけど………まぁ、色々あって」
膝の故障、それは初耳だった。彼女が身の上を語るのもまた珍しい。そういえば、あれだけ噂が飛び交っているというのに苗字先輩の過去の話は聞いたことがなかったな、そう思った。
チラリと様子を伺うも彼女の表情に翳りは見えない。だが、詳細を濁そうとする口調からそれ以上は踏み込まない方が得策だと考え、過去の話はこれきりにしようと思った。誰にだって触れられたくない過去がある、それは俺も同じ事だ。
「……楽しいですか?マネージャー」
「ん〜〜楽しくないわけじゃないけど、正直予想してたより大変だった」
「でしょうね」
「でも、やりがいはあるよ?」
スポーツは選手としての経験しかなかったけど、裏方の仕事も結構面白いなって知れたから。そう続ける彼女の声は明るいながらも穏やかで、その言葉に偽りはないのだろうと思った。
喉を鳴らしてサイダーを飲み込む姿をそっと横目に見る。白かったはずの肌が少しだけ日に焼けていた。
「……だから尚更、みんなには怪我も故障もしてほしくないんだよね」
ほんの僅か、憂いを帯びた声で呟いた言葉は胸に溶けて深く染み込んでいくようだった。夏合宿中に苗字先輩が言っていた言葉『身体作りをナメてると痛い目見るぞ 』それが脳内で再生され、この時初めて彼女が俺たちに厳しくする理由が分かった気がした。去年の秋、彼女とぶつかった際に俺の身体を過剰に心配していた理由もまた、そうなのだろう。
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それから数ヶ月後、夏を終えて御幸先輩たちの引退後に迎えた冬。その頃になると、俺たちは遠慮なく何でも本音で喋れる仲になっていた。
傷の手当てが雑だと言えば「細かいこと言うな」とキレられたり、テーピングの固定がイマイチだと言えば「アンタが動くからだ」と難癖をつけられたり、トスバッティングのボール出しが下手だと言えば「どんな球にも反応できなきゃダメじゃん」なんて屁理屈を言われたり。
今にして思えば頑固な俺たちは似た者同士だったのだろう。数を挙げればキリがないほど当時は些細なことでぶつかっていた。そんな言い争いも日常と化し、先輩たちには喧嘩するほど何とやらだな、なんてからかわれることもしばしばだった。
けれど、どれだけ彼女と同じ目線で対等に物を言い合えるようになったとしても、俺が男として意識されることはなかった。
あくまでも選手とマネージャー、それ以下でもそれ以上でもない。特別な関係になるつもりはないと心のどこかで線を引かれ、距離を取られていたことは常日頃から肌で感じていた。
それをハッキリと示されたのは、冬合宿中のこと。
「まだ残ってたんですか、もうすぐ22時ですよ」
「あー、うん、もう少し日誌書いたら帰るから」
地獄の冬合宿3日目。練習後に行われたクリスマスパーティーの余韻がわずかに残る食堂に足を踏み入れると、見慣れた顔が一人テーブルにかじりついていた。
練習時間が長くメニューも多い合宿では部員に対する気付きも多いのだろう。テーブルに開かれた日誌にチラリと目をやれば、イラスト混じりのメモがページいっぱいに記されていた。
よくやるな、そう思いながら目の前の椅子を引いて当然のようにそこに腰掛ける。ひと気のなくなった食堂は肌寒いらしく、苗字先輩は制服にグラウンドコートを羽織りスカートの下にはジャージを履いて、色気のカケラもない格好で時折手を擦り合わせていた。
「世間はクリスマスだっていうのに、夜遅くまで一人居残りなんて寂しいですね」
「うるさいなぁ、好きで残ってんだからほっといて!」
「彼氏とかいないんですか?」
何気なく呟いた言葉は静かな食堂によく響く。しまった、何を言ってるんだ自分。常々抱いていた疑問を思わず漏らしてしまったことに少しだけ取り乱すも、返ってきたのは「何、どしたの、疲れでとうとう頭やられた?」という、本気で俺を心配する返答だった。
「ていうか何、え、彼氏?今のわたしにそんな暇ないから。それに高校生活は全部野球部に捧げるって決めてるから寂しくたっていいんです〜〜」
本気なのか強がりなのか、結局のところは分からないが、軽妙に紡がれた言葉に何故か安堵してしまう。少なくとも苗字先輩がマネージャーであるうちは誰のものにもならない、自然とそう考えてしまう自分に驚いた。クリスマスだからって浮かれているのだろうか。どうかしてるな。
邪念を振り払うように頭を数回横に振り、溜息を吐きながら再び日誌に視線を落とす。『合宿3日目。去年と同様にみんなの疲労が目に見え始めた。だけど本当の地獄はここからなんだよなぁ……負けるな!』と記されていた。本当の地獄、それはどういう意味なのだろうか。得体の知れない4日目以降の未来に少しだけ寒気がした。
「……今度は何?」
「意外と綺麗な字書くんですね、ほんの少し見直しました」
「それ褒めてないよね?貶してんだろ!!!」
今のはどう考えても地雷を踏んでしまった自分が悪い。そうは思いながらもガタンと椅子を鳴らして立ち上がる苗字先輩に「さっさと続き書いて下さいよ」と煽るように言い返すと、いつもの不毛な争いだと悟ったのか彼女は不服そうな顔で椅子に着座した。
こんな調子じゃ色恋になんて発展するはずもないな。そう自虐的になりながら、再び走り出すボールペンの先を見つめた。
「そんなにじっと見られたら書きにくいんだけど」
「へぇ、俺なんかの視線でも気になるんですか」
「そりゃそうだよ、アンタ黙ってるとき何考えてんのか分かんないし怖いんだから」
失礼だな。というか、この人にだけは怖いなんて言われたくない。テーブルに肘を着いて2度目の溜息を吐くと、何を思ったのか苗字先輩は身を乗り出して俺に近付いた。
「ねぇ、もうちょっと髪切った方がいいんじゃない?」
目に悪そうだなーって前から思ってたんだよね。そう言いながら俺の前髪を掻き分け、じっと覗き込んでくる様子に少しだけ驚いた。
普段は距離を置こうとしているくせに、不意にこうして距離を縮めてくる。そういうところが詰めが甘いと思っていた。
線引きするなら、距離を置くなら、徹底的にやらないと意味がない。選手に対する観察力は鋭いくせに、こういうことに関しては本当に疎いんだな。
鈍感な彼女にも、それに動揺してしまう自分にも腹が立つ。ふつふつと湧き上がる怒りを抑え切れない結果、少しだけ意地悪してやりたくなった。
俺の前髪に触れている彼女の手に腕を伸ばして手首を握る。突然のことに驚く彼女に目もくれず、そのまま撫でるように指先に触れてやった。隙だらけだな。
「な、なに」
「手荒れが酷いですね」
「え?あぁ……」
口から出まかせとはまさにこの事。咄嗟に口にした適当な言い訳は、意外にも彼女の胸にストンと落ちたらしい。
「この時期は仕方ないよ、寒いからってお湯使うと油がなくなって逆に乾燥するし」
「へぇ……」
所々皮が剥けてかさつく指先。それを慈しむように、愛でるように触れながら見つめると、ようやくこの雰囲気に気付いたらしい。彼女の表情が「まずい」と言わんばかりに固まった瞬間、逃すものかと指を絡めて捕らえてやった。だから、もう遅いんですよ。
「あれ、苗字先輩まだ残ってたんですか?」
「!」
食堂のドアが開くのと浅田の声が聞こえたのはほぼ同時のこと。それに気付いた瞬間、反射的に手を振り払ったのは彼女の方だった。
「うん、もう帰るよ」
誤魔化すように笑いながら発した返事と咄嗟に離れた手、その態度で全てを悟った。それは誤解されたくないという拒絶そのもの。特別な相手を作る気がないという事実をハッキリと見せつけられた瞬間だった。
──だとしたら、どうして彼女はあんな行動を取ったのだろう。
それから数ヶ月後に迎えた沢村先輩たちの最後の夏。西東京大会、初戦。その日、球場のダッグアウトの奥で偶然目にしたのは、椅子に座る沢村先輩を抱きしめている苗字先輩だった。
試合前だぞ、こんな所で何をしているんだ。あの言葉は嘘だったのか?俺の手は振り払ったくせに。
様々な感情が渦巻く中、じわじわと込み上げる怒り。信頼していた人に裏切られた、かつての記憶が蘇った瞬間だった。
「……っ!」
居てもたってもいられなくなり、堪らず踵を返してベンチへ戻る。今日は快晴、確か朝のニュースでそう言っていた。握りしめた拳を震わせながら空を仰ぐと、太陽の日差しに眩暈がした。暑さで頭がおかしくなりそうだ。
「……村、奥村、ねぇ聞いてる?もしかして体調悪い?大丈夫?」
聞き慣れたソプラノの声が聞こえたのと同時に掴まれた左腕。ハッとして振り向くと、いつの間にか隣に立っていた彼女が心配した様子で俺の顔色を伺っていた。相変わらずこういうところは鋭いんだな。
だが、先程までこの手が他の男を抱きしめていたのかと思うと我慢ならなかった。
「触らないでください」
ついカッとなり、気付いた時には彼女の手を振り払っていた。そこから先は感情に任せて罵詈雑言を吐き出すのみ。その時の俺は、混乱している苗字先輩を痛め付けることしか考えられなかった。
「え……何、怒ってんの?」
「色ボケしてるマネージャーに心配されたくありません」
「……はぁ?何の話?ワケ分かんないんだけど」
「自覚がないなら尚更タチが悪いですね」
──あぁ、ダメだ止まらない
「ハッキリ言って幻滅しました」
──違う、こんな事が言いたいわけじゃない
「浮ついた気持ちで仕事されても迷惑なんですが」
──やめろ、試合前に何を言ってるんだ……!
頭ではそう分かっているのに、口から漏れる誹謗は止まらない。次から次へと捲し立てる俺に圧倒されたのか、彼女は腰を抜かしたようにして背後のベンチに腰掛けた。
「それ、本気で言ってんの……?」
今にも泣き出しそうな顔で俺を見上げてくる姿が酷く小さく見えて無様だと思った。いつも態度がデカいくせに、こうしてみるとやっぱり彼女もひ弱な女なんだな。ドロドロとした黒い感情が渦巻き、これ以上の失言を恐れた俺は固く唇を結んだ。無言の中、視線がぶつかる。絶望に染まる彼女の栗色の瞳は、ただまっくすぐに俺だけを見つめていた。
「アンタにだけは、そういうこと言われたくなかった!!!」
空気を震わせ、胸を突き刺すようなあの叫び声は今でも耳に残って離れない。真相を知る事が怖くて、向き合う事から逃げて。結局その日は彼女に背を向けたまま過ごし、ぎくしゃくしながらもなんとか初戦を勝ち抜いた。
それから俺たちは試合に支障が出ないよう必要最低限の会話をするのみとなり、その関係は引退時まで続いた。しばらくすれば元に戻れるとたかを括っていたのだが、引退後の彼女は俺から逃げるようにして野球部から離れてしまい、それ以来部活に顔を出すことはなかった。
こんなことになってしまうくらいなら、こんな感情知らなければよかった。俺の方がとんだ色ボケ野郎だな。そうやって言葉のブーメランに自嘲しながらも時は進んでいく。立ち止まっている暇はない。
新チームで迎えた秋大、もちろんスタンドに苗字先輩の姿はなかった。
更に時が過ぎ、苗字先輩が沢村先輩と同じ大学に進学すると聞いた時には久々に腹が立った。そして数ヶ月後の夏、苗字先輩に彼氏ができたという噂が流れてきた時にはついに怒りが爆発した。しかも相手は沢村先輩ではないらしい。じゃあ、あの日の事は何だったんだ?
「落ち着け光舟!」と必死に俺を宥める拓には、当時随分迷惑をかけた気がする。
彼女の連絡先を知っていても連絡する気になんて到底なれず、気付けば時間ばかりが過ぎていった。そのうち自分も高校野球の引退を迎え、季節は秋になろうとしていた。明神大学から声が掛かったのは、その頃だった。
これでまた沢村先輩と一緒に野球ができる。そしてまた、苗字先輩に会えるかもしれない。これは運命だろうか、それとも神様の気まぐれな悪戯か。何にせよ、チャンスだと思った。
もしも彼女に再会できるなら、今度こそ腹を割って話をしよう。あの日のことを謝って、そして素直になりたい。そう、思っていた。
(20210605)