女王様の愛犬
僕と敦の関係は、傍から見たら女王様と従者なのだそうだ。もしくはお姫様と騎士。そう評した人が誰なのか、僕は知らないけれど、ものすごく間違っているというわけではないと思う。僕は敦を従えたつもりはないし、これから先もずっと対等なまま、従えたりなんかしないって言いきれるけれど、敦にとても大事に優遇されているのは知っている。
…というか、最近になって気づいた。黄瀬に指摘されたからだ。
『赤司っちは紫原っちのお姫様っスねー』
そう言われてあらためていろいろ思い出してみれば、毎日髪を編んでもらい、自転車の後ろは常に自分のために空けてあり、夜にコンビニに行くときは必ず一緒に来てくれる…なるほど、これは確かにお姫様待遇かもしれない。
誤解されがちだが、僕は別に敦をパシリにしたいわけではない。というかむしろ、僕を慕って寄ってくる大きなわんこがかわいくて愛おしくて、ずっと傍において愛でていたいとすら思っている。
敦は犬。僕の犬。
もう10年も前からずっと僕の傍にいてくれる、可愛くて心優しい僕の自慢の愛犬なのだ。
女王様の愛犬
敦はかなりマイペースでつかみどころがなく、初対面の人とはあまり会話が続かない。さらに身長も規格外に大きく、そのせいか、敦のことをよく知らない女の子たちは皆彼を恐れて近寄らない。けれど一度本当の彼を知ってしまえば、彼女たちはあっと言う間に彼に惹かれていってしまう。実際にそういう場面を何度か見たことがある。
中学生の女子の恋なんて、そんなものだ。怖いと思っていた相手の小さなギャップひとつでころりと態度を入れ替えてしまうくらいに、彼女たちの恋は幼く拙い。
敦にはそういう隠れファンのような女の子が結構いる。というのも、敦は女の子の扱い方がうまい。それは決して女のあしらい方がうまいというわけではなく、まあ女の子扱いをするのがうまい、といったところか。たとえば重たい荷物は何も言わなくても代わって持ってくれたりだとか、歩調を合わせてくれたりだとか、車道側を歩いてくれたりだとか。そういう、あると嬉しいけど中学生男子になんてまず望めないような紳士的な行動を、敦はさらりとやってのけるのだった。
敦曰く、これは僕の10年間のしつけの賜物らしい。
「赤ちんにいつもやってることをそのまましてるだけー」
そう言ってふにゃふにゃ笑った敦に何とも言えない微妙な気持ちを抱いたのは、いつだったか。
彼の根底には絶対に自分の存在があるのだという喜びと、自分にだけしてくれたらいいのにという醜い嫉妬に似た感情が混ざって何も言葉を紡げなくなった。
あの子はどこまでも無邪気に僕の心を侵食して、きっといつか、僕の中には敦しかいなくなる。そうしたらその時はどうか、他の女の子なんかにふりまいている小さな優しさも、全部僕に注ぎ込んで欲しいと思った。
今思うととても恥ずかしい。なんとも親ばかで独占欲丸出しな飼い主である。
ある日僕は誰もいない教室で、敦が迎えに来るのをひたすら待っていた。いつもHRが終わると僕のクラスまで飛んでくるというのに、どうしてか今日はいつまでたっても敦が来ない。敦のクラスメイト達はさきほど廊下を騒がしく通り過ぎて行ったから、HRはとっくに終わっているはずなのに。
こんなに遅いと、何かあったのかと心配になる。学校なんて限りなく安全な場所なのだから、何をそんなに心配しているのかと笑われてしまいそうだけど、僕はどうも敦のことになるといつものように冷静に行動できない節があった。自覚はある。治す気はないが。
「迎えに行くか」
そう決めたのは間違いだったのか正しかったのか。
敦の教室へ向かおうと廊下へ一歩踏み出した時、ちょうどこちらに向かって廊下を歩いてくる敦を見つけた。腕にたくさんのノートの束を抱えて。隣には手ぶらの女の子。何度も気遣うように敦を見やる女の子の様子に、きっとあれは彼女が先生に頼まれたものだったのだろうと推測する。推測したら途端に面白くなくなった。機嫌が急激に下降していくのが、自分でもわかる。
「あ!赤ちんだー」
なんにも気づいていない敦は、僕を見つけるとことりと首を傾け、いつものようにふゆんと柔らかく笑った。
……その瞬間、なにかがブチッと切れた気がした。
「……あつし、」
静かに名前を呼んだら、敦は不思議そうにぱちりと瞬きをした。けれど何かを読み取ったらしく、女の子に合わせていた歩調が速くなり、やがてノートを持ったまま女の子を置き去りにして小走りに寄ってくる。どうしたのー?とあの柔らかい声で尋ねながらこちらへやってくる忠実な犬に、また、なんと称したらいいのかわからない不思議な感覚がじわじわ満ちた。
「敦、…足が、痛い」
吐き出すように掠れた僕の言葉を、忠犬は「正しく聞き取り正しく理解」した。
次の瞬間、敦が抱えていたノートは乱暴に廊下に置かれ、なにも束縛するものがなくなった彼が全力で駆けてくる。
「ノート、もう一人で平気でしょーっ?」
走りながら放たれた言葉は、僕に宛てたものではなく。ほんの数秒で傍に来た敦に、僕はあっという間に攫われた。
お姫様みたいに抱き上げられて、ああこれでは本当に黄瀬が言った通り、お姫様待遇じゃないかとくだらないことを考えた。敦の吐息がすぐ傍にある。バスケで鍛えてるだけあって、人を一人抱えて走っても息を切らさないのがすごいと思った。流石に階段では少し息が上がっていたけれど。
不安定にぶれる視界がうっとうしくて目を閉じる。ひとつ上の階に上がると、敦はゆっくりスピードを落とし、立ち止まった。それを合図に彼の首に腕を巻き付け、抱かれたままより近くまで密着する。ふふふ、っと小さく、敦が笑った。
「どうしたのー?今日の赤ちん甘えんぼー」
「なんでもない…」
「なんでもないの?」
「ん…いいからもう、黙れ」
「はぁい」
首筋にすり寄ったら、くすぐったいと笑う、敦は僕のものだ。僕のだけの犬。
だから他の人になんて優しくしなくていいのに。僕のことだけ考えて行動していればいいのに。
「赤ちん、あのね…俺は、赤ちんの犬だから」
「……」
「大丈夫だよ。赤ちんが何を怖がってんのかわかんないけど、そんなの全部俺がひねりつぶしてあげるから」
「……」
「だから赤ちんはこうやってずっと、俺に抱っこされてたらいいよ」
僕が怖いのはお前だよ、敦。お前が他の女の子にやさしくするたび、こわくなるんだよ。
黄瀬に言われるまで自覚していなかった、注がれ過ぎた愛情に、今更ながら怯えている。だってずっとそうやって生きてきた。もう思い出せないくらい昔から敦は隣にいて、いつだって僕を全力で大切にしてくれていた。それはいわば基礎代謝のようなもの。敦に手を離されたら、きっともう僕は生きていけない。それくらいに甘くとろかされていたことに、今更怯えているのだ。
「大丈夫だよ、赤ちん」
僕をぎゅうっと抱きしめる男は、やらかい声音でまた残酷に甘やかす。僕が怖いと怯えるその手で、抱きしめて閉じ込めて離してくれない。それが恐ろしくて、けれどやっぱり愛おしくて、よくわからないどろりとした感情がまた心の中に落ちてくる。
「…お前は僕の犬だ、敦」
「うん、だからずっと赤ちんの傍にいるよ」
誓いのようなその言葉は、またひとつ呪縛となって僕たちを縛る。
本当の飼い主はどっちだったか。
今はもう、曖昧、あいまい。
* * *
赤司さんの魔法の言葉「足が痛い」は「抱っこして」って意味です。
そして10年かけて緩やかに自分の存在を赤司さんに教え込み、自分なしでは生きられないと思わせるまでに至った紫原くんの狡猾さ、さて本当の飼い主はどちらでしょうか。