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緑間くんと高尾ちゃんが家族になるまでのはなし。1


告げられた言葉は、ドラマでよく見る映像の一部のように、どこか他人事に思えた。けれどその言葉を受け止めた瞬間、異常なくらいに冷静になっていく自分がいた。

「おめでとうございます」

最初に湧いてきた感情は、たぶん純粋な喜びだった。けれどその後を追うように緩やかに身体を侵食していったのは、まぎれもない恐怖。

自分と彼との現状を思い浮かべると、「それ何て無理ゲー?」と問いただしてやりたくなるくらいに、私達の目の前には問題が山積みだった。

けれど私にはどうしても、「それ」を諦めるという選択肢は選べなかった。






真ちゃんは大学合格と同時に一人暮らしを始めた。曰く、親の過干渉から逃げ出したかったとのことだが、それにしても男の一人暮らしで「1LDK風呂トイレ別」というのは割と豪勢な暮らしじゃないかと思う。

右手にはエコバッグ、左手には団扇。ぱたぱた仰ぎながらふと見やったエコバッグの隙間から覗く箱アイスに、早くも水滴がついている。どろどろになる前に冷凍庫に突っ込まなきゃ、と歩調を早めた。通い慣れた道は私と真ちゃんを繋ぐ。

一人暮らしをする前からある程度予想はついていたことだけれど、真ちゃんは基本的に家事ができない。アイロンや掃除くらいならできるのだが、洗濯は無理だし自炊なんてもってのほかだ。おかげで私が気づくまでの最初の一週間、彼は家に洗濯機があるにも関わらずコインランドリーに通い(洗濯機の操作が分からなかったらしい。かわいい)、食事は全て外食かコンビニ弁当だった。まあ高校の合宿なんかで普段の生活能力が底辺に等しいことを見ていた私からすれば想定の範囲内なのだが、諦めて実家に戻ればいいものを、彼は意地になったのか絶対に帰ろうとはしなかった。そこで見かねた私が手を出したのである。

『もう、しょうがないなあ真ちゃんは。私が家事手伝ってあげるから、真ちゃん家行こ?』

そう言った時の。真ちゃんの顔ったらもう可愛かった。あの気難しそうな顔をきょとんと崩して、何を言われたのかわからない、というような顔をして。数秒後、彼の口から出たのは強い否定の言葉だった。

『だめだ』
『なんで』
『女が一人暮らしの男の家に簡単にあがり込むものではない』
『私と真ちゃんだよ?そんなの今更じゃん』
『だめなものはだめなのだよ』
『じゃあ私を真ちゃんの彼女にしてよ。それならいいんだろ?』

あんまりにも真ちゃんが頑固過ぎて、イライラしてつい口から出た言葉に自分でびっくりした。真ちゃんもまた、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。じわりじわりと頬を染めていく様子が、可愛いと思った。なにこの男、ずるい。

『…高尾はその、俺が好きなのか?』
『なにそれ、それこそ今更じゃん』
『…そうか』

むむっと考え込むように眉を寄せた真ちゃんは、けれどすぐにこくりと一つ頷いた。

『…高尾、合鍵を造りに行くのだよ』
『は?え、ちょ、真ちゃん待ってよー!』

これが私たちの始まり。不器用で下手くそな恋人の始まり。




「懐かしいなあ…」

思い出したら青臭くって笑えてきた。あの日真ちゃんに貰った真新しい合鍵は、使い込むうちに少しずつ変色していっている。それが付き合った年月を如実に示しているようで、私はとても好きだった。

「おじゃまー!…ってまだ帰ってないのか」

七月の終わり、とっくに梅雨も明けて夏真っ盛りの晴れの日。ドアを開けたらクーラーなんてこれっぽっちも稼働していない、灼熱の部屋とご対面。とりあえずスーパーで買った食材やらなんやらを冷蔵庫にぶっ込んで、クーラーの設定温度を少し下げる。省エネは30分後から始めます、だから許して神様。

そうして少しだけ室内が涼しくなった頃、仕上げに汗の引いた身体を濡れタオルで拭ってから、私は今晩の夕食作りに取り掛かったのだった。



あれだけバスケで活躍しておきながら、真ちゃんはどの大学のスポーツ推薦も蹴って、都内の某有名大学医学部にストレートで合格した。現在は6回生、年明けにある医師試験のために今から猛勉強中である。ちなみに先週まで定期試験だったらしく、珍しく死にそうな顔をしていた。学生さんは大変だ。私はと言えば、頭は悪い方ではなかったが有能と言うほどでもなかったので、適当な大学に進学し、これまた適当な会社の事務に就職した。現在は勤めて2年目、後輩も入って下っ端気分も抜けつつある。

学生時代、私は実家暮らしだった。けれど就職を機に念願の一人暮らしを始め、現在は真ちゃんの家の近くにワンルームマンションを借りている。一人暮らしを始める前、一度彼に同棲を持ちかけたことがあった。けれど彼は「結婚前に同居など…」と持ち前のお堅さをフルに発揮した。おかげで私の小さな夢は潰え、もうこうして6年も通い妻のようなことをしているのである。



じゅわり、と揚がった天ぷらを掬いながら、大なべに入っている麺の硬さを確かめる。今夜は素麺だ。具は千切りにしたキュウリにハム、それから薄焼き卵。ついでに鱚とカボチャ、茄子の天ぷらもつけて。今日は少しだけ手抜き。でも美味しいから許してくれるだろう。カチリ、とガスコンロを止めたら、ちょうどいいタイミングで真ちゃんが帰宅した。

「おかえりー」
「高尾!?なぜいるのだ、まだ定時にもなっていないぞ」
「んー、ちょっとな」
「…答えになっていない」

いつもは会社の関係で7時以降にしか顔を出さない私が、今日に限って5時台にいるものだから、彼的にはかなり驚いたようだ。呆れた顔でこちらを見る、真ちゃんの額にうっすら汗が浮かんでいて、ああ外暑かったもんなあ…と関係のないことを思う。何を聞いてもそれ以上出てこないと長い付き合いで知っているからだろう、真ちゃんは溜息をひとつ吐いたけれど、もう何も言わなかった。



早めの夕食を終え、少しだけ寛いで。いつもここに来るくらいの時間― つまり7時過ぎなわけだ― に私は帰り支度を始めた。

「今日は泊まっていかないのか?」
「うん、まあね。ああ、そうだ、私真ちゃんに大事な話があんだけど」
「なんだ?」

隣りに座って静かに本のページを捲っていた、真ちゃんの指が止まる。

「私仕事辞めたから」
「…は、」

ぽかん、と真ちゃんの口が開いた。酷いマヌケ面だ。思わず笑いだしたくなるけれど、この先に更に衝撃的なことを告げねばならないことを思い出し、私はきゅっと気を引き締めた。

「あともうひとつ、こっちが本題ね。私、妊娠しました。じゃ、そゆことで」
「はあ?!」

ばさり、と真ちゃんの持っていた文庫本が床に落ちた。動揺を隠せない様子のまま、真ちゃんの目線が私の腹部に移動する。その目線を振り切るように立ち上がると、私は真ちゃんを置いて玄関に向かった。

「ちょ、待つのだよ高尾っ!!!」

真ちゃんが慌てて追いかけてくる。玄関の扉の前で私に追いついた真ちゃんは、相変わらず頭の上に?マークをぴよぴよ浮かべたまま私を引き留めようとする。伸ばされた手を振り払って、大丈夫だよ、と私は言った。

「真ちゃんはなにも心配しなくていいから、私に任せておけば全部大丈夫だから。ごめん」

真ちゃんは唖然と立ち尽くす。伸ばされた手がゆっくりと力を失くしていく。驚愕に染まる顔はやっぱり愛おしくて、私はこの人が好きだった。だけど、好きだからって理由だけで傍に入れるほど、世の中って甘くないんだよなあ。

「ごめんね、真ちゃん」

背を向けて、ドアを閉めて。駆けだした。一刻も早くここから逃げ出したくて。突発的なことではない、今日のことは少し前から計画していたことだったのに、いざ行動に移すとどうしてこんなに胸が痛むのだろう。

実家も自宅も真ちゃんにばれているから、帰ることはできない。さてどうしようかと電車に飛び乗ってから思い浮かんだのは、たった一人の女の子の存在。




最寄駅まで歩く道すがら、真ちゃんが私を追いかけてくることはなかった。






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