Short story

おねだり戦争

「いってらっしゃい」
「うん」

 本当は、送り出す時はキスをしたいのに。口じゃなくてもいいの。頬にチュッとさせてくれるだけだって構わないのに、恭弥くんはなかなか甘い戯れはしてくれない。
 それって必要?と眉を顰めてしまうような些細なことでも、特別な人とすると特別な朝のルーティンになると思うの。だからわたしは『いってらっしゃいのチュー』をふたりの特別な決まり事にしたかったのに。

「うん。じゃなくてさ!」
「なに? いってきます。これでいい?」
「よくない! チューもして!」

 とんでもなく人を馬鹿にした顔をした恭弥くんは、たびたび起こる、この『いってきますのチュー論争』を適当に交わすつもりだ。
 突き出したわたしの唇に彼の視線が落ちる。それだけでわたしの頬はポッと熱くなってしまう。恭弥くんが触れたとき、いつでも柔らかくあるために頭のてっぺんから足の爪先まで丁寧にケアをするのは、わたしの学生時代からの日課。唇だってもちろん、いつでも柔らかく食べ心地良くして待っているのに。

「いひゃい、きょーやぐん」
「不細工な顔」

 伸びてきた骨張った手のひらに合わせて両目を閉じて背伸びをする。恭弥くんとの身長差に合わせてどのくらい背伸びをすればいいのかは身体が覚えている。そんなだいすきな手は、わたしの頬を優しく包み込むことなく、鼻を詰まんだ。
 そのまま、彼はしばらく帰ってこなかった。


「…、帰っ、てたの?」
「ただいま」

 しばらくぶりに見た恭弥くんは少し痩せたように思った。やつれている。また、何かに熱中して休むことなく動き回ってきたのだろう。昔は目を離すとすぐにお昼寝をする人だったのに、最近の恭弥くんは寝る間も惜しんで熱中する何かがある。その分、家にいる時の彼はぽやっとしていて眠そうだ。わたしが帰ってくるのを辛うじて待っていられただけで、褒めてあげた方がいいのかな。

「ねぇお腹すいてる? 簡単なものなら作れるよ」
「すいてるけど、いらない」
「お素麺食べる?」

 ソファの左端にちょこんと座っている恭弥くんは、素麺をチラつかせるわたしを見て、子供のようにムスッとする。

「こっち」

 来てとは言われないけれど、これは来いという意味だ。動きやすい部屋着を身に纏っている恭弥くんの髪が濡れていたのがわかる。お風呂に入ったのだろう。一方、職場から帰ってきたばかりのわたしはまだ着替えすらもできていない。いつかの朝と全くの逆。

「ただいま」
「? うん…」
「うん、じゃない」

 腕を引かれてしまったせいでスリッパが片方、脱げてしまった。恭弥くんのいるソファへと体重を預ける。

「何か言うことあるでしょ」
「すきだよ恭弥くん?」
「そんなこと知ってる」

 骨張った手が今度こそわたしの頬を包み込む。親指が二度、頬骨をなぞればそれが合図。ゆっくりと目を瞑り、今度こそ恭弥くんをお迎えできる。
 唇が触れる間際、「"おかえり"は?」と喋る息がかかる。どうやら彼は、いってきますのチューではなく、おかえりのチュー派のようだ。

「おかえり」
「ん」

 満足そうにしてからわたしに齧り付く恭弥くん。ずるいよ、自分はしっかりしたいときにするくせに、わたしはお預けなんて。

今度は絶対、出ていくときにもキスをしよう。
あなたの帰りがより一層待ち遠しくなるように。



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