Short story
擦り切り一杯の愛着
どこにでもいる普通のOLななし。
彼女が務める会社は35階建のビルの23階フロアの一角にあった。
ビルの1階はレストラン街となっており、社員食堂やコンビニの他に喫煙所と簡易なカフェスペースが用意されていた。お昼時になると1階へ降りる人間でエレベーターの中はいっぱいになった。
カフェスペースの空いていた席を見つけ腰掛ける。持参した弁当を広げ、心の中で「いただきます」と唱えたななしは練習中の卵焼きを箸でつまんで一口食べた。砂糖を多めに入れた真っ黄色の卵焼きも好きだけれど、砂糖を控えめにしてめんつゆを少し加えた今日の卵焼きの方が自分の好みに合っている。見た目は、黄色が霞んでなんとも古臭い見た目の卵焼きだが、彼女は大満足だった。
「隣、いっすか?」
誰でも使える共有のスペースで、席に着くのに断りを入れる人は珍しい。まさか自分へ向けた言葉だとは思わずとも弁当から顔を上げてしまった。思いもよらない近さに見知らぬ男性が立っていて、いつまでも隣の空いている席へと腰掛けないのを見届けてようやく彼の言葉が自分に向けて発せられた言葉だと知る。
「あ、ど、どうぞ!」
隣は別にななしが確保していたわけでもなく、これから顔なじみがやってくることもない。私の席ではないけれど…などと思いながらもワンテンポ遅れて返事を返した。「あーっす」と、短めな"ありがとうございます"を受け取りながら、彼が隣の席へと座るのを見届けて、止まっていた箸を再び動かした。
隣の席に腰掛けた男性の手にはコンビニで購入したのであろう、安いのに美味しいと評判のアイスコーヒー。食後のコーヒーか、タバコのお供だろうか。どちらにしても昼食はすでに食べ終わっている雰囲気を察した。だからといって、話しかけたりするわけではないけれど、なんとなく背筋を伸ばして箸を進める。
「いつも弁当すか?」
「えっ!?…あ、はい」
まさか話しかけられるとは思っていなかったななしの驚いた声は、見知らぬ人が多くいる共有スペースのざわつきを突き抜けて響く。慌てて肩をすぼめてみたが、ななしの声にその場が静まり返るようなことはなかった。
テーブルに頬杖を付きながら、ストローでアイスコーヒーの氷をカシャカシャとかき混ぜる彼の体の向きが完全にななしへと向いていて、今度こそカチリとかち合った視線。そこでようやく彼女はきちんと男性の顔を見た。
山本武 28歳
このビルの32階にオフィスを構える企業の営業マンだ。
山本は昼食を食べ終えて、食後の一服を味わう同僚を待つ間にアイスコーヒーで一息ついているところである。
山本が彼女の隣に腰掛けたのは偶然を装った必然だった。もちろん、今日同じような時間帯に昼食をとっていたのは偶然。それから彼女の隣の席が空席だったのも偶然。
ただ、この広い共有スペースの中で山本が彼女を見つけ出したのは偶然ではないし、小さなお弁当箱に控えめに両手を合わせる姿を見て思わず隣に腰掛けてしまったのはもはや必然だった。
今日でなかったとしても、いつかそうしていただろう。山本はその隙を狙っていて、今日たくさんの偶然が重なったこの日に実行したにすぎなかった。
「自分で作ってるんすか?」
「一応…? でも前の日の残りとかで手の込んだものじゃないんですよ」
「でも美味そうっすよ、その卵焼きとか」
「あ、卵焼きは…自信作です!」
褒められたことが嬉しいのか、卵焼きの味付けに成功したことが嬉しかったのか。幸せそうに笑った彼女に崩れ落ちそうな気持ちになりながらそれを必死にアイスコーヒーで飲み込んだ山本は、顔の熱を誤魔化すように喫煙所を振り返った。
吸い溜めだとばかりに2本目に火をつけた同僚の顔が浮かぶ。早くきてくれと思いながら、まだ来るなよなんて思っていて、ちぐはぐな心に純粋に浮かれていた。
「俺、山本っていいます。お姉さんは?」
「小林と申します」
ぺこりと頭を下げたななしの律儀なところが可愛いと思った。山本がななしの存在を認識するようになったきっかけも、お弁当に小さく合わせた"いただきます"の手が可愛いと思ったからだった。
「待たせたな」
「お、獄寺もういーのか?」
「なんだよ、邪魔したかよ」
「そーじゃねーだろ! あ、同僚の獄寺。タバコくさいから近づかないほうがいいぜ」
ななしは立ったままの獄寺にもう一度ぺこりと頭を下げた。なんと答えたら良いか戸惑っていたが、そのうちに獄寺自身が「これだから馬鹿は」とバッサリ切り捨てたおかげでこの話は広がることなく終わりを迎えた。
オフィスに戻るために立ち上がった山本はとても高身長だった。座っているななしからしてみればそれはそれは大きく見えたが、実際に二人が並んでみても相当な身長差が生まれる。
その事実にのちに山本が悶えることになるのは、もう少し先の話。
「今度、連絡先教えてくださいね」
ジャケットの内ポケットから紺色のハンカチを取り出しテーブルに残るアイスコーヒーの水滴をさっと拭き取った山本が去り際にそう告げた。一連の山本の動作に目を奪われていたななしは、「はい」と二つ返事で了承してしまい、「じゃ」と振られた手に控えめに振り返したところで我に返る。
「私、なにしてんだろ」
急いで口に運んだめんつゆベースの卵焼きがさっきよりも甘く感じた。
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