Short story

ふたりの虹な関係性

 これは梅雨のある日の出来事。

 「なんだっけ、あの花──」目を閉じてこめかみ辺りに人差し指を添えながらうんうんと唸り声を上げる山本を見上げた。
 目を閉じているのに器用に真っ直ぐ歩くところはさすがだなと思うし、その顔がまったく物事を考えているようには見えない顔だったものだからひっそりと笑う。わざとらしく寄せられた眉の間に皺が寄っている。

 本日の湿度は100%ですと堂々と告げた天気予報士さんの言う通り、浴室の中のようなムワッとした湿気にやられ、気持ちまでどんよりと曇る。梅雨に加えて台風も接近しているらしく、向こう1週間の天気予報は見事に雨マークが並んだ。
 雨の守護者とやらを担っている山本にうってつけの天気予報だが、本人は別に実際の天候が雨だから嬉しいとは思わないらしい。それどころか、野球ができないだとか伸ばし始めた襟足がうねるだとかで人並みに梅雨にうんざりしているようだった。

 私たちがこうして一緒に帰宅しているのは今がテスト前の期間だからで、ツナは補修、獄寺はその付き添い。珍しく補修を免れた山本は、自分が補修を受けなくてもいいと分かると「ななし帰ろーぜ!」と意気揚々とスクールバッグを肩に担いだのだった。あの時のツナの「オレを置いていくの…?」という絶望した顔と獄寺の邪魔者がいなくなって清々したと言わんばかりの笑顔。申し訳ないけど笑ってしまった。


「あー、あー、アサガオ!?」
「いや分かんないけどそれ夏の花じゃない?」
「じゃ違うよな〜今の時期咲いてる丸くて可愛い感じの紫とかのやつ」
「あぁ、紫陽花?」
「それ! アジサイ!」



 胸の突っかかりが取れたようでスッキリとした顔の山本は、「アジサイか〜」と、今度こそ忘れないように小さく呟いていた。

 山本たちが中学生の頃から何か危ないことをしているのを知っている。マフィアとか守護者とかそういう単語も聞いたことがあるし、ツナがボスで獄寺が右腕で、山本が雨の男で、何度か死にかけてて。この夏に野球部を引退してしまったら、野球を辞める予定だということを知っている。
 山本は野球が大好きだ。普段は物事をあっけらかんとテキトーにやり過ごす山本が、こと野球に対してだけはやり過ごすこともテキトーにすることもできない。昔は命よりも野球が大切だった。
 今はきっと野球と同じくらい大切なものができた。私は山本がそのどちらも自分の命より大切にしているんじゃないかと思うと悲しくなる。


「紫陽花って土とか水の中の成分によってピンクだったり青だったりするらしいよ」
「へ〜オレ紫っぽいのしか見たことねーな」
「私も。ピンクの紫陽花、可愛いだろうな」
「な! 見つけたら教えるな!」
「アハハ、ありがと」


 あんまり信用していないけど本人はいたって真面目だ。山本ならランニング中に本当に見つけてしまったりしそう。どうしてだか山本だったらなんとかしてくれそうな気がしてしまうのだ。そういう周りからの期待が山本を苦しめているんだとしても。きっとそうやって周りの期待を一身に背負って山本はこれからも駆け足で走っていく。周りからの期待に苦しみながら、いざそれがなくなってしまったら膝をついてしまうだろうから。


 「あ、雨だ」ポタッとブラウス越しに濡れた感覚がしたかと思えば次から次へと大きめの雨粒が身体を濡らしていった。いつ降り出してもおかしくなかった空がついに泣き出したのだ。空を見上げて雨を顔に浴びる私につられて、山本もしばらくそうしていたようだったけれど、「走るぞ!」と急に我に返って走り出した。
 置いてけぼりをくらった私を振り返り、もう一度、今度は「走れ!」と叫ぶ。ようやく動き出した私を確認して山本は前を向いて走っていった。山本が私に合わせてのんびり走っているのは後ろから見ていたらよくわかった。しかし、私がどんなに頑張ってみても山本に追いつくことはない。走ったら走った分だけ、山本も前に進んでいって私たちの距離が埋まることはない。


 先を行く山本が立ち止まって私を振り返った。「こっち」やっと追いついた私の手を引いて足は神社の石段を登っていく。どうやら雨宿りの選択をしたらしい。
 さっきまで紫陽花の名前を必死に思い出そうとしていた山本は、今私たちが小走りで駆け抜けている横に紫陽花が咲いているのには気づいていないのだろう。ただ前を向き、屋根のある場所を探し求めていた。


「山本、あそこ」
「お! 良さそうじゃん」
「雨宿りしても意味なさそうだけどね」


 雨はいつ降り出してもおかしくなかったはずなのに放課後まで耐えてしまったのだ。堪え切れなくなって溢れた雨はそう簡単には止まらない。雨足が強くなり、あたり一面が雨の音だけになる。
 ふと、山本はちゃんと隣にいるのか不安になって。濡れない場所に腰を下ろしたタイミングで離れてしまった手を動かす。トン、と触れたのは胡座をかいて座る山本の膝のあたりだった。


「あ、ごめん…」
「………止まねーな、雨」
「うん。そうだね」


 雨樋からぽたりぽたりと雫が落ちる。それを体育座りをしながら数えていって、64あたりになった頃。
 手を伸ばせば触れられる距離にいる私たち。確かに此処に私はいて、私の隣に山本がいる。でもこれはずっと続くものではない。梅雨がいつか明けてしまうように、季節が移り変わるように。今は今しかなくて、来年の今頃きっと、山本は──


「泣いてんのか?」
「なんで?」
「そんな気がしたから」


 こちらも見ずに、そんな気がしたんだと答えた山本の勘の鋭さには恐れ入る。私の瞳はたしかに膜を張りつつあって、もういくばくかで涙が零れ落ちていただろう。それに気付いて必死に息を殺していたというのに、震えた"なんで"は、泣いてしまいそうな自分自身への言葉だった。

 この時期毎日のように雨が降る。濡れた地面と水たまりが雨の存在を忘れさせてはくれないし、空はいつでも泣き出しそうな分厚い雲で覆われていた。太陽を隠してしまうほどの雨雲と山本は似ているような気がした。


「早く夏にならないかな」
「意外。ななしって暑いの嫌いなイメージなのにな」
「暑いのは好きじゃないけど、早く梅雨を忘れちゃいたいから」


 今頃気づいた恋心。ぶつける相手がいなくなってしまう前に、忘れて、何もなかった頃に戻ろう。必ず訪れる別れを前に自分の心を守るために出した答えは独りよがりなものだった。梅雨と山本、雨と山本。全部を忘れるのに今からちょうど一年かけよう。もう一度梅雨がやってくる頃には、新しい気持ちで梅雨を迎える。それが、来年一人で梅雨を迎える私には丁度いい。


「なぁ、梅雨は嫌いか?」
「今は好きじゃない。忘れたらきっと好きも嫌いもなくなると思う」
「忘れられない梅雨にしてやろっか?」


 いつのまにかしっかりとこちらを向いていた山本と目があった。なんだかこれから良からぬことが起こりそうな予感。拳一つ分程しか空いていない私たちの距離を開こうと床に手を置いた。蛇に睨まれた蛙──そんなことわざが頭の片隅に思い浮かび、捕食されるんじゃないかなどと怖い想像をした。
 山本の顔はいたって真顔、と言ってしまうとムードもへったくれもないけれど、照れている様子でもなければ意を決して…そんな雰囲気でもなく。まるで「ジョーダンだぜ」っていつでも言える、コロッと表情を変えることができるそんな顔だった。

 甘い空気を望んでいたわけではないけれど、もうちょっと、どうせなら。いいムードがよかったなぁなんて、これから起こることを思い浮かべ苦い笑いをひとつ。私の"受容"をその目で確認した山本はそっと二人の距離を詰めて私の頬に手を添えた。
 雨に濡らされた身体には山本の暖かすぎる体温は刺激的だった。ピリピリとするような感覚、触れられた部分だけが熱く、焼け落ちてしまいそう。
 山本の親指が頬骨のあたりを行ったり来たりするのに耐えきれず私の視線は下に逃げる。そんな、まるで。愛おしいものを愛でるような手付きで、私に触るのはやめてほしい。だってきっと顔だけは無表情なんでしょう? 来年にはもういないんでしょう? 遠い遠い世界の人になってしまうのに、今、こんなに誰よりも近い場所にいるなんてずるい。誰よりも深いところにやってこようとするなんて…ずるい。


 チュッなんて、可愛い音は鳴らなかった。しっとりと合わさった唇。同じ雨に打たれた者同士だというのに山本の唇は熱くて、私の冷えた身体にスーッと溶け込んでいく。合わせるだけの稚拙なキスが今の私たちには精一杯だった。

 一度離れ、名残惜しくてもう一度。うまく息ができなくて空気を求めて離れるがそれをまた山本が追ってくる。押し退けようと伸ばした腕も捕まって、手を絡め取られてしまえばもう降参。
 諦めて山本の好きなようにしてもらおう。私の口元が弧を描いたのを唇越しに感じた山本が拗ねたように唇を尖らせ押し付けてくる。堪えきれずに笑ってしまった私はとうとう声を我慢できなくなって山本から離れた。


「アハッ、山本ッ、苦しい!」
「笑うなって」
「ごめんって。でもね、梅雨が好きになりそうだよ」
「オレも。」


 今度は二人で笑い合い、お互いの瞳をしっかり見つめあった後に、同じ距離だけ近づいて、呼吸を合わせてキスをした。


 忘れられるはずもない、梅雨のある日の出来事だった。







『見ろよ! ピンクのアジサイ! こっちはこればっかりだぜ』


 文章とともに添付されていたのは鮮やかなピンク色をした紫陽花だった。
 イタリアの紫陽花といえば濃いピンク色なのだという。それも日本と違う土壌の影響だ。


「綺麗だね」


 素っ気ない私の返事に対して山本が何か言ってきたことはない。不定期にこうやって独り言のような文章と写真が送られてくるのにも慣れた。カラフルなジェラートとかいい天気の空とか、街並みに溶け込んだ野良猫とか。一方的に送られてくるそれらに対して、綺麗だとか可愛いだとか美味しそうだとか、私は形容詞でしか返事を書けなかった。


『ななしみたいだろ。今度は本物見せてやるよ。泣かずに待ってろな』


 一体、なん年前の話をしているのだろう。山本が遠くに行ったら消えてしまいそうだと思っていた高校生の頃の私。彼はたしかに遠い場所へ行ってしまったけれど、いなくなったりはしていない。まるで"オレは生きている"ということを伝えるかのように連絡をしてくるのだ。送られてくる写真に山本の姿は写っていないけれど、山本の目を通して見られている風景を一緒に見れている気がして私はちょっと嬉しかった。


『待ってるね』


 今年も彼がより恋しくなる季節がやってきた。





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