Short story

冷めてからが本番です

 ぴちゃ、くちゅ、チュッ

「ッはぁ、もっと」
「ん」


 心臓のある位置が何かに鷲掴みにされているような感覚がした。たぶんそこに私の心臓はあるんだろうなって部分が鈍い痛みを訴えて、息が浅くなっていくような気がした。知らぬ間に顔に集まった熱とピクリとも動かなくなってしまった足。耳だけはしっかりと役割を果たしていた。

 屋上に続く階段の踊り場から聞こえてくる淫らな声。そして今まさにそこに行こうとしていた私。片手に持っていた箒の柄を両手でぎゅっと握りしめた。


「もう終わり」
「え〜」
「これ以上したらオレの唇ふやけちまうかも」
「いいじゃんいいじゃん! ふやふやにしてあげるよ?」


 とても楽しそうにじゃれる女性の笑い声に混ざって「先輩、怒るぜ」と聞こえた声。どこかで聞いたことのあるようなその声に、また、私は息の根を止める。

 チュッと、先程までとは桁違いに可愛らしいリップ音の後、人が動き出す気配がした。彼の唇はふやけずに済んだようだった。
 ここにいては見つかってしまう。私はきっと何も知らないフリができるほど達者ではないし、なんとも思っていないフリもできない。"恥ずかしい"と思った。それと同時に興味もあって、でもそんなの興味ありませんって顔を作る自分が恥ずかしい。

 彼女の楽しそうな声がだんだんと近付いてくる。軽い足音からもわかる。今にも宙に浮いて踊り出しそうなほど浮ついた、幸せそうな彼女。
 踵を返し登ってきた階段を音を立てないように降りて、ひとまず廊下の影にしゃがみ込んだ。そのまま階段を下っていってくれたなら、私は見つからずに済む。


「武、次はいつ会える?」


 聞こえてきた名前にひゅッと息を呑んだ。慌てて自分の口元を押さえる。その問いかけにタケシくんは「わかんね、じゃーな先輩」と随分と冷たく答えてこちらに歩いてくるようだった。
 下の階へ向かう彼女の足取りはペタンペタンと名残惜しそうで、重く重く、無理やりに動かしているように聞こえた。


「おわッ!」
「わッ! びっくりした!」
「びっくりしたのはこっちだぜ!? しゃがみこんでどうしたんだよ!? 具合でも悪いのか?」
「あっえっと、なんでもない。大丈夫だよ、ありがとう」


 箒を抱え込みしゃがんでいた私に驚きながらも心配までしてくれたのは同じクラスの山本くん。山本武くん。つまり、先程階段の上で(恐らく)濃厚なキスをしていたのは彼ということである。
 クラスの中にいる時の山本くんからは想像もできない大人なやりとり。それを聞かれていたなんて知らない彼は、しゃがみこんでいる私を心配してわざわざ自分までしゃがんでくれた。近くなった距離、私の顔色を伺うように覗き込んでくる人懐っこい顔。ふやけてしまうと言っていた唇はふっくらハリがあり血色がよく潤っている。唇を凝視していたことに気づいて慌てて彼の唇から目をそらした。


「ちょっと…立ちくらみがして! もう大丈夫だし掃除しなくちゃいけないから行くね」
「大丈夫なのか? 掃除ならオレが代わるぜ。何処だ?」


 さっきまで山本くんがいた階段の掃除だなんて言えない。見てもいないのに漏れる吐息に勝手に顔を赤くした。さっきの、聞いてたよって言ったら山本くんはどんな反応をするだろう。照れるかな? それとも「なんのこと?」って誤魔化すだろうか。
 キスも知らないお子ちゃまな私が挑んでもいい相手ではないことは確実だった。







「3組の子、山本くんに告白して振られたらしいよ」
「よく挑むよね〜」
「彼女いるのにすごいね〜」
「え?」
「え?」


 頭にハテナを浮かべた私たちは顔を付き合わせて内緒話を始めた。
 山本くんには彼女がいる。そんな話は聞いたことはなかったけれど、あの日、ひっそりと会っていた先輩がいるのは確かだった。キスの話は伝えずに先輩らしき女の人といたのを見たことを伝えると友人は首を傾げたのだ。「山本くんって"今は彼女作る気ない"って断るって有名じゃん?」と。それが本当ならどう言うことなのだろう。

 大人のキスをしていた山本くん。彼女を作る気がない山本くん。つまりあの人は彼女じゃないの? それって、そういうのっていいのかな? よくわからないけど、なんだかいけない気がするな。

 教室の一角に沢田くんや獄寺くんと固まって笑い合う山本くんがいる。衣替えの済んだワイシャツ一枚の上にジャージを羽織っている。歯を見せて笑う山本くんは普通の何処にでもいる高校生に見えるけど、私なんかとは比べ物にならないくらいきっと大人なんだ。


 そんな風に山本くんを見つめていると自然と視線は唇に引き寄せられてしまう。ふやけてしまうくらい熱いキスをその唇でするんだな〜って思ったら、私がされるわけではないのに眩暈がしたような気がする。おかしいおかしい。この間から山本くんやキスのことばっかり。こんなこと毎日考えて私ってば変態なのかも…。
 「………?」輪の中で楽しそうに笑っていた山本くんが不思議そうにこちらを見て、コテンと首を倒した。目がキョトンとしている。かわいい。そして、漸く私たちが目が合っていることに気づく。グリンッと音が鳴りそうな勢いで首を回した私に友人達は驚いていたけれど、私越しに山本くんと目が合ったようでなんとなく察してくれた。

 態度が悪かったかな? 悪かったよね。でも山本くんのキスを想像していますだなんて言えないじゃない。変態だなって思われる。
 見かけによらず大人の恋をしている山本くんには近寄らないでおこうと決めた。だって、こんなお子ちゃまな私が相手にされるわけがないから。







「お、また掃除?」
「うん。山本くんは?」
「んー? オレは…ヒミツ」


 掃除中によく会うな〜。そもそも掃除ってクラス全員が毎週場所を交換しながら行うものだから、掃除がない人なんていないはずなのだ。つまり、こうやって掃除の時間に掃除をしていなさそうな山本くんに出会うこと自体がおかしいこと。山本くんはきっと掃除をサボって、この間のようなことをしたり、告白されたりしているのだろう。
 今日の山本くんは一人みたいで少し安心する。校舎裏の掃き掃除を任された私は、昨日の雨で湿ったコンクリートを掃き始める。落ち葉もない。ゴミも見たところ落ちていなくて、もう掃除をする必要もないんじゃないのかと思うくらいだった。


「小林さ、この前オレと目合った時凄い勢いで逸らしただろ?」
「ナンノコトデショウ?」
「あからさま過ぎんだろ〜」


 山本くんは、しゃがみ込んで自身の太ももに頬杖をつきながら掃除をする私を見つめて笑った。あまり気にしていなさそうだけれど、わざわざ話題に出してくるということは気になったんだろうか。「ごめんね」と謝ったら「ヤダ」と断られてまた笑われる。何がそんなに楽しいんだろう。


「山本くんってよく笑うよね」
「そーか? まぁ獄寺よりは笑うかもな!」
「本当に楽しくて笑ってるの?」


 しまった、と思った時にはもう手遅れだった。それまで笑っていた山本くんはその笑顔をピシリと貼り付けたまま固まった。爽やかな笑顔のはずなのに、そんな笑顔が素敵だと先輩から後輩まで人気だったはずなのに。どうにも静止画のように貼り付けられた笑顔が怖くて二歩ほど後退りした。
 失礼なことを言ってしまった自覚はある。だけど気になってしまったんだ。人は楽しいから笑うのだと思っていたけれど、楽しくなくたって笑うことはできるし、悲しい時こそ笑おうとする人だっている。今まで、山本くんの笑顔に疑問なんて湧いてこなかったのに、なんでだろう、あの日から山本くんのことをよく考えるようになったからなのかな。私の目の前で笑っていた山本くんはニセモノなんじゃないかなって思ったんだ。


「ごめんね。思ったことを何も考えずに聞いちゃった。答えなくていいよ」
「どうして、そう思った?」
「声が…なんか高い? いや、よくわからないや! 本当に気にしないで!」


 嘘っぽく聞こるなんて言ったらまた失礼な発言だし。私の脳内に、あの日の階段でのやりとりが根付いているからかもしれない。あの日の山本くんはなんというか落ち着いているというかぶっきらぼうだった。冷たくも感じて、それが彼女とは正反対だったものだからとても印象的だった。声に気持ちが乗るのだとしたら、あの時の山本くんはとても素の状態に近く、そして情熱的なキスに反してつまらなさそうだった。


「山本くんって彼女いないんだよね?」
「それが?」
「先輩とキス、してたよね」
「見られちまったか〜」
「見てないよ!? 見てない! 聞いてただけ!」
「同じだろ!」


 山本くんの声がだんだん低くなっていく。あぁ、これこれ。これくらいが嘘っぽさがなくていいなと思う。明るく努めようとする彼の声とは周波数が合わないみたい。
 彼女はいないけど、キスする相手ならたくさんいる。彼女にしてやれない代わりに、彼女たちが望むことでできる範囲のことには答えた結果なんだそうだ。とんだボランティア精神の塊に、私のキスへの憧れが萎んでいく。彼女たちもどうかしてる。付き合ってもらえない気持ちは、キスしてもらえたら埋まるものなのだろうか。やっぱりお子ちゃまにはわからない。


「キスってそんなにいいものなの?」
「してみる?」
「うん」
「えっ」
「うん、キス、して」


 しゃがんだままだった山本くんはキョトンとした後頭をガシガシとかいてうな垂れた。真に受けるとは思っていなかったんだろう。バカだな〜。そうやって今までも人との距離を計り間違えて失敗してきたのかもしれない。彼は自分が人気者だということをもう少し理解したほうがいい。


「本当にいいんだな?」
「う、うん! 女に二言はないよ!」
「そら勇ましいこった…」


 立ち上がり近寄ってくる山本くん。遠目からでも背が高いけれど近くにいると他の男子とは桁違いに大きい。見上げる角度が未体験の領域だった。いつでも赤く血色のいい唇。これから私の唇と山本くんの唇がくっつくんだな。本当に誰にでもお願いされたらしちゃうんだ。先日の先輩の声が脳裏を掠めた。山本くんはずるい人だね。少しだけ与えるのに「もっと」と強請られるとやめてしまうんだもん。私は今から山本くんの味を知って、そのあと強請らずにいられるんだろうか。とても不安だった。

 突っ立っている私の首裏に両手を差し込みまるで首を絞めるかのように固定した山本くんは、親指で私の顎をクイっと持ち上げた。絞め殺されるのかな? そんな風に思っていたらゆっくりと近づいてきた山本くん。赤い唇を最後まで見ていたかったけど「目、」という指示のもとゆっくりと目を閉じた。


「ッい"った!?!?」


 ゆっくりと閉じたはずの目は一瞬で開けることになる。痛みによって反射的に開けた視界一面にざまぁみろとでも言いたげな山本くんの笑顔が広がる。
 頭突きをされたのだと分かるまで暫く時間がかかった。最低だ。山本くんも、私も。


「お子ちゃまにはまだはえーんじゃねーの?」
「うざ」
「うわ、ひで〜! 小林ってそんなキャラ? 知らなかったわ」
「そっちこそチャラ男じゃん。離れて。チャラが感染る」


 おでこを付き合わせてするには低レベルな会話だった。だけど至近距離で見た山本くんの笑顔が今までで一番楽しそうに見えたから、まぁいっかなんて私も笑った。



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