Short story

まぶたに透ける青と永遠

「おかえり! バジ──」


 わたしが此処(CEDEF)にきたのは数ヶ月前のこと。両親とはぐれた行き場のないわたしを親方様が拾ってくれた。おまえと同じくらいの息子がいるんだ──親方様はそう言って目尻にシワを寄せた。きっとその子のことをとても大切に思っているんだろう。それと同時に後ろめたさも持っている。申し訳なさそうに笑顔を作る親方様を見て、とても一方的で勝手に、この人を本当のお父さんのように思おうと思ったのだった。

 此処は清潔感のある受付や広々としたリラックススペースが設けられているお洒落なオフィスビル。そこで働く人たちはとても胡散臭い。それがわたしの第一印象だった。
 白を基調とする綺麗なオフィスに真っ黒のスーツを着ている社員。こんな見ず知らずの子供を受け入れてくれる懐の大きさが逆に怖かった。一人になった経緯や怖いことがなかったのかを心配そうに聞いてくれたけれど、それはまるで事情聴取のよう。
 きっと両親はもうこの世にいない。はぐれたのは本当に偶然だった。可愛い真っ白な猫がニャアと鳴いたものだから、少しの間なら離れても平気だと思った。わたしを少し警戒しているらしい猫に「ニャ〜」と声をかけてジリジリと距離を詰め、ようやくわたしの右足に猫が身を寄せた時のこと。ドガァーン!──地が揺れ、猫は驚いて走り去った。わたしは猫を追いかけることもしゃがむこともできなかった。不自然な位置で固まった両手、縫い付けられたように地面から離れない両足。何か怖いことが起こったに違いない。頭ではわかっているのに何をどうしたらいいのか全くわからなかった。


「おい君! 怪我はないか!?」
「…ない」
「一人か!?」
「一人…じゃなかった」


 ようやく動いた足が向かったのは猫が逃げたのとは別の方。そっちが騒がしいのはわかっていたのに、わたしはそっちからきたのだから、わたしが帰るのはそっちしかないんだとサイレンの鳴り響く方向へと足を進めた。
 裏路地から抜け出したわたしの目の前に広がった光景をわたしは忘れないだろう。さっきまでなんともなかったいつも通りの日常が音を立てて崩れた様子をわたしは忘れない。そんな光景を目の当たりにしてようやく両親のことを思い出したわたしは薄情な娘だった。心臓がバクバクと鳴り響いて、走ったわけでもないのに息が上がった。背中は火傷をおったように熱くなる。最悪を一瞬で想像してしまった。
 立ち尽くすわたしに声をかけたのが親方様だったからわたしは今此処(CEDEF)にいる。あれは声をかけるというよりも怒鳴りつけられたという方が正しい。早口でまくし立てられているにも関わらず、なんともゆったりとした返事をしたものだから親方様は困惑した表情を浮かべていた。

 母のお気に入りだったつば広の白い女優帽が踏みつけられて小汚い色になっていた。


「バジル、おまえと同じ歳なんだ。仲良くしてやってくれ」
「はい親方様! はじめまして、拙者バジルと申します!」
「ななし…です」


 不思議な話し方をする男の子を連れてきた親方様は、元気に挨拶をするバジルの頭を豪快に撫でつけた。首がもげそうなほどグリグリと掻き混ぜられているのにとても嬉しそうなバジルは人懐っこい笑顔でわたしに手を差し出した。
 此処にきて初めて探るような、監視をされるような視線を感じなかった。それがとても嬉しかった。


「バジルはお父さんのこと親方様って呼んでるの?」
「いえ、親方様は拙者のお師匠様であって父ではないんですよ」
「そうだったんだ。同じ歳の息子がいるって言ってたからてっきり…」
「遠いジャッポーネにお母様と暮らしているそうです。親方様はいつも日本のご家族の話をされています」


 わたしが沢田さんを親方様と呼ぼうと思った瞬間だった。そしてバジルに心を開いた瞬間でもあったと思う。
 此処はきっとふつうの会社ではない。そんな違和感を拭えずにいたわたしはきっと間違っていなかった。みんな優しい。良くしてくれる。しかし本当は何を思っているのかわからない。
 わたしが此処に受け入れられたのと同じように、バジルもきっと何か理由があって此処にいる。もしかしたらわたしと同じように両親と離れ離れになってしまった子なのかも。そんな仲間意識から、バジルが親方様と呼ぶあの人を親方様と呼び、父のように慕うのならわたしもそうしようと思った。


「ななし、もっとゆっくり食べなさいよ。バジルに合わせなくていいのよ?」
「バジル見てるとなんかつられてたくさん食べちゃう」
「たくさん食べないと筋肉がつきませんよ」


 バジルはよく食べる男の子だった。筋肉をつけたがっているところや背を伸ばしたくて牛乳を飲んでいるところが、わたしの今まで見てきた男の子となんら変わりなくて安心した。スーツも着ていないし、あの日のことや両親のことも聞いてこない。バジルの隣は居心地が良かった。

 大人たちが慌ただしい日はバジルとふたりで部屋にこもっていた。バジルは「親方様は大丈夫でしょうか」って心配そうにしていたけど、わたしたちは此処でおとなしくしていることを望まれているし、わたしたちみたいな子供が出て行ったって邪魔になるだけ。「大人しくしてようよ」と隅で丸まっているわたしを安心させるように隣に体育座りをしてくれる。バジルは優しい男の子だった。


 そんなある日のこと。親方様におつかいを頼まれたのだと嬉しそうに此処を飛び出ていったバジルが帰ってこなくなって三日目。初日から騒いだわたしに親方様は「今回はそんなに早く終わるおつかいじゃないんだよ」と言ってなだめた。
 二日目、バジルの次に優しいオレガノさんに聞いてみても返ってくるのは「信じて待ちましょう」という言葉のみだった。
 あんなに嬉しそうに飛び出たバジルを待つ人間が、こんなに深刻な顔をすることがあるのだろうか。わたしたちみたいな子供に任せていいおつかいなのだろうか。バジルはそれを喜んで引き受けたのだろうか。


「ななし、バジルが帰ってきたぞ」
「ほんと!?」
「おう、迎えにいってやれ」


 廊下を駆け抜けて階段を使って下まで降りた。エレベーターを待っている時間さえ惜しかったから。
 バジルがいない間に出たおやつの話もしたい。昨日のポトフがまだ少し残っているのもこっそり教えてあげよう。


「おかえり! バジ──」


 最後まで呼ぶことのなかった名前。大きな声を出したわたしへ向けた透き通った水色の瞳はギラギラと輝いていてとても怖かった。
 あの日、裏路地から抜け出たわたしの目の前に広がった光景がバジルの背後にあるようだった。あの日わたしの日常は崩れた。今日、最近できた小さな日常もガラガラと音を立てながら崩れていった。


「バジル…血が…」
「…あぁ、ななし。ただいま」
「おか、えり」


 額から溢れる血が目に入るのがとても不快、そんなふうに眉をひそめて乱暴に血を拭ったバジル。
 怖いことがあったのかもしれない。ひどい目にあったのかもしれない。そんな風に思えなかったのはバジルがとても誇らしげでボロボロのくせに堂々と胸を張って帰ってきたからだった。親方様のおつかいとやらが無事に達成されている。

 まだその余韻の残る瞳がわたしを射抜いて、わたしの心臓はあっけなく止まって、もう日常には戻れない。


「バジル、おかえり。昨日ポトフだったよ」
「そう」
「あとね、おやつにタルトが出た」
「それは…ずるいな〜そういえばお腹すいてきました」
「そうでしょそうでしょ、お腹すくでしょ」


 お腹がすいていくのと共にバジルの瞳は落ち着いていった。また一つ、忘れられない光景が胸に刻まれるのを感じながらボロボロなバジルの背を押してシャワールームへと歩き出す。


「今日のおやつなんだろうね」
「拙者はおにぎりが食べたいです!」


 これからはこれがわたしの日常


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