Short story

猫なで声と爪痕

 今まで交わることのない世界で生きてきた者達が出会うというのは偶然と、それ相応の必然が必要だ。

 今までと何も変わらない一日を送るななしにとって、山本とまた偶然会うというのは難しいことだった。それは山本にとっても同じことで、いくら家の場所を知っていようとも急に押しかける訳にはいかないし、もちろん待ち伏せるわけにもいかない。配達員として山本にできることは日々の業務を真面目にこなすこと。そしてななしの住むマンションに来ることがあった時は、いつでもななしを見つけられるようにアンテナを張ることだけだった。

 山本にメモをもらってからのななしは、駅までの通勤路がいつもとは違って見えた。赤いポストや小さな喫茶店の店先の花壇。公園の入り口の柵の禿げたペンキ。今までは見過ごしていたり、視界に入っても記憶していなかった風景が、頭の中に入って来るようになったのだ。クロネコのトラックも見かけるようになった。あのトラックを運転しているのは山本さんだろうか、そんな風に目で追ってみたりもした。それでも、運転席を覗き込もうとする時には既にトラックは遠くに行ってしまう。


「もしもしお母さん?お願いがあるんだけど。」


 偶然は待っていたってやってこない。そういうのは運命と呼ぶべきだろう。かと言って、運命なんてものを信じ切ってそこにあぐらをかいていれば降ってきた運命を見過ごすことになる。運命も偶然も、勝ち取る準備のできている人にしか見えないものなのかもしれない。偶然は積み重ねれば必然に変わるのかもしれない。


「お届けものです!」

「はーい!」


 玄関までの短い廊下を駆け抜けて、扉を開ける前に少しだけ深呼吸をした。インターホンから荷物の配達だと告げられている。その声が山本のものなのかななしには判断ができなかった。機械を通して聞く声は実際のものとは異なった聞こえ方をする。それでも自分たちはまだ聞き慣れるほど言葉を交わしていないのだということに気づいた。


「ここにハンコお願いします。」


 ななしが開けたドアの先にいたのは山本だった。この部屋に初めて配達に来たときのように爽やかで人好きのする笑顔を浮かべている。
 山本が言ったように"また"会えた。今回の荷物はななしが自ら母親に頼んで送ってもらった夏物の洋服が数点と、小さい頃から好んでよく食べていた地元のお菓子。それからきっと部屋の中にあるぬいぐるみの中から目があった一つが放り込まれているだろう。特別着るものに困っていたわけではない。母に手間を取らせてしまったかわりに今度はこちらからも何か送ってあげよう。そんなことを考えながら、山本が指差す丸枠の中に丁寧に印鑑を押した。自分の名前が真っ直ぐに行儀よく丸の中に収まるように心がけながら押したのは、就職活動の履歴書ぶりだったかもしれない。


「どもっす」

「ねぇ、ハンコだけでいいんですか?」


『猫なで声と爪痕』



 "また"会えたのに。思わず飛び出た言葉に後悔はなかった。会えるかもしれないと思ったから荷物を送ってもらったのだ。いつ会えるかもわからない偶然の中から飛び出したくて、必然を作り出したのだ。ななしは、玄関先まであえて持ってきていたスマートフォンを顔の横でフリフリとチラつかせる。

 一方の山本は無理矢理に引き上げていた表情筋が攣りそうになっていた。ななしの前ではどうしたって顔の筋肉がだらしなく緩むのだ。
 丸字の可愛い印鑑もななしという名前も、今日着ている仕事着だと思われるフレアスカートもそこから覗くストッキングに包まれた脚も、何もかもが可愛らしかった。パタパタと玄関まで駆け寄ってくる足音でさえ、可愛い彼女を構成する要因になり得るのだ。


「ななしさんってもしかして小悪魔?」

「(小悪魔…?)」

「それもそれで可愛いけど。」


 山本が可愛いと口にしてもななしの顔が赤くなるようなことはない。こういう大人の余裕みたいなものを見せつけられながら、もしかしたら手のひらの上で転がされているのかもしれないと思いながら、甘い匂いには逆らえない。きっと山本がどうにかしてかっこよく決めようとしてもうまくいかなかっただろう。


「オネーサン、年下はすき?」

「嫌いじゃないよ?」

「オレは年上のオネーサン、すきだけど?」


 互いに様子を伺いながら言葉遊びを繰り返す。もどかしくて馬鹿馬鹿しいやりとりに飽きたのはななしの方だった。「それじゃあ、ご苦労様でした」受け取った荷物と共に山本に背中を向けてしまったななしへ腕を伸ばす。玄関の少しの段差をもってしても尚山本より頭一つ以上小さいななしの首回りを後ろから抱きしめた。
 野良猫みたいにふらりと消えてしまいそうなななしの興味の対象を自分に留めておくにはどうしたら良いのだろうか。このまま閉じ込めておくくらい強引な手段に出なければななしの視線はすぐに他に移ってしまうのではないか。拒まれないのをいいことに最後にもう一歩彼女の懐に入ってみたい。山本はもうこれがななしの手のひらの上なのだとしても構わなかった。


「ななしさん」

「なんでしょうか?」

「キスしてい?」


 返事は待たなかった。
恐る恐る触れた唇同士が思っていたよりも柔らかく吸い付き合うのを感じて、やられたと山本は思った。


「連絡先はいいんだ?」

「よくないっす!」


 くすくすと笑うななしの手のひらでコロコロと転がされてみるのも悪くないと思う。



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