Short story

真っ逆さまに落ちた先


「お届け物でーす!」

「はーい!」


 パタパタと玄関に駆け寄る音と元気の良い返事に、乳酸の溜まったふくらはぎの緊張が解けていく気配を山本は感じていた。
 某クロネコの宅配業者に勤めている山本は、少しでも早く荷物を届けるためにトラックを降りた瞬間から走ります、なんていうストイックな社風を律儀に守る好青年。それが8階建てのマンションだろうと同じことだった。エレベーターを使わず、階段をノンストップで駆け上がってきた山本の息が乱れることはない。


「ここにハンコお願いします。」


 出てきた女性はラフなTシャツとハーフパンツ姿で、恐らく休日を過ごしていたのだろう。玄関先の小物入れの中から印鑑を取り出すのに邪魔になった髪の毛を耳にかける姿は色っぽく、しかしどこか幼さの残る顔に山本の視線は釘付けになった。ハーフパンツから覗く白いふくらはぎが可愛らしい。じろじろと見るのも失礼にあたるが、不自然ではないようにその足から目を逸らすにはどうしたら良いものか山本は考えていた。


「あっ、すんません!高いですよね!?」

「え!?あぁ、わざわざすみません!ヨイショ!」

「(ヨイショ?)」


 上から下に、舐めるようにして彷徨わせた視線はサンダルから浮いたかかとで止まり、勢いよく荷物の受取人に向いた。身長の高い山本が両腕で抱えた段ボールの上に貼られている送り状に小柄な彼女が受領印を押すには、どうしたって少しだけ背伸びをして覗き込む必要があったのだ。
 少し屈んで見えやすくなった送り状のちいさな丸枠の中に、小林と押された印鑑。それはどこにでもある名字だったはずだけれど、山本にはとても印象深かった。そして彼女の押した印鑑の字体が丸み掛かっていて可愛らしかったのもしっかりと頭の中に染み付いてしまった。


「ご苦労さまです!」

「あっ、どもっす」


 きっとこの家の扉が開いて彼女が飛び出してきた瞬間に、始まってしまったのだろう。
荷物を渡し終えたあとに微笑まれた山本はまるで崖から転がり落ちたような気分だった。必死になって少しだけ飛び出ていた岩肌を掴んで振り落とされないように踏ん張っていたのに、掴んでいた小さなでっぱりは呆気なく砕けてしまった。

 臓器の浮遊感にも似たぞくりとする気持ちの良い鳥肌がヘソのあたりから這い上がり、胃と心臓を経由して顔にたどり着き最後にようやく脳みそにまでやってきた。そこでやっと、"落ちた"と理解することになるのだ。


「オネーサン、下のお名前は?」


『真っ逆さまに落ちた先』



 咄嗟のことに条件反射で答えてしまった彼女の名前は、小林ななし。可愛い名前だ。きっと山本はあの時どんな名前を彼女が答えようがそう思ったに違いない。それはもう惚れた弱みとも呼べるもので、名前も、丸い字体の印鑑も、ゆるっとした顔の猫だか犬だかがプリントされていたTシャツもすべて可愛いの一言に落ち着いた。「ななしさん、またな!」覚えたての彼女の名前を脳に焼き付けるように口にした。自分の口から彼女の名前が飛び出る奇跡に心は踊り、駆け下りる階段はいつもなら一つ飛ばしのところを二つも飛ばしてしまえるほどだった。ななしさん、小林ななしさん。合法的に家と名字を知り、自分のファインプレーで下の名前まで手に入れてしまった。山本は数分前の自分の行動を、よくやったと褒めてやりたい気持ちだったに違いない。


「…下の名前、必要あったかな?」


 パタンと閉じた自宅の玄関の扉と軽い足取りでマンションの廊下を駆けていく足音を背にしながら、届いた荷物を抱えて部屋の中に引き返したななしは独り言を漏らす。一人暮らしを始めてからというもの、テレビへのツッコミや普段の考え事などがぽろっと口から飛び出してしまうことが多くなったように思う。返答するものは居ないが、咎めてくる者も居ない。そして、そんな独り言も爽やかな宅配のお兄さんもすぐに忘れてしまう。

 実家からの大きな段ボールの中には日持ちする食材や調味料などのほかに、置いてきた卒業アルバムや昔からななしの部屋にいた黒い猫のぬいぐるみなんかが入っていた。送ってくれと頼んだ覚えのないものを段ボールの余った隙間に詰め込んでクッションがわりにするのはやめてもらいたいと何度も忠告したはずなのだが、それが無くなることはないだろう。本当に不要なものは入れてこないのも知っている。これはきっと知らない土地で一人で暮らす娘を思っての行動なのだ。

 卒業アルバムは開かずにテレビ台の収納に閉まってしまった。久しぶりに会ったクロネコのジジ。有名な映画に出てくる猫にそっくりだったという理由で安易に付けた名前だがななしはなかなか気に入っていた。あの猫のように話し相手にも相棒にもなってはくれなかったが、昼寝のお供くらいにはなるだろう。どこか懐かしい匂いを纏ったジジを抱いて、すぅっと夢の世界に旅立った。


「あ!ななしさーん!!」

「えっと、クロネコさん?」

「間違ってないけど、おれ山本武って言います!」

「山本さん」


 二人が出会ってから数週間が過ぎた頃。仕事終わりのななしを元気に呼び止める男がいた。山本だ。ロックの掛かった自動ドアと各部屋に与えられているポストを交互に見ていた山本は、これはチャンスだと目を輝かせる。
 三日連続同じ届け主の元へとやってきていた山本は、前日に自分が入れた不在通知が入っていることに気が付いてしまったのだ。既に三日目。この荷物は一度大きな集荷場に戻されてしまうこととなる。送り主の名前を見るに、身内から身内への贈り物。なまものではないにしても配達員としては少しでも早く荷物が受け取られることを望む。


「ドアのロックお願いします!」

「いいですけど、それで呼んでも応答しなかったんですよね?」


 ななしがそれ、と指差したのはインターホン。家主がいれば遠隔操作で開けてもらえるはずの自動ドアの前で立ち往生していたということは、家主は不在なのだ。行ってどうするのかと目だけで訴えたななしに山本は「もしかしたら居るかもしれないし」と答える。その根拠のない自信はどこからやってくるのかななしにはさっぱり分からなかったが、山本は至って真面目だった。


「じゃ、ななしさん!また!」

「お仕事、頑張ってください。」

「はい!」


 エレベーターに向かうななしとは逆方向の階段を目掛けて走り出した山本は「また」と口にする。この間ななしの部屋へと荷物を届けにやってきた時も「またな」と言ったのだ。それはななしの中ではすっかりなかったことになっていた何気ない出来事のはずだった。それが今日、再びの再開を経て現実のものとなり、ななしの頭に記憶されることとなる。


「元気な人だな。」


 ズボンの尻ポケットで揺れる肉球の付いた軍手がずいぶん可愛らしい。階段を一段上がるごとに揺れるそれが、まるで猫が手招きをしているようだと思った。チン、到着したエレベーターに乗り込んだななしの顔には笑顔が浮かんでいて、"クロネコの山本さん"と彼のことをインプットしようと名前を反復する作業に追われていた。どうか彼が階段を駆け上がった行為が無駄になりませんように、そんなことを思いながら8階のボタンを押した。


「あっ、」


 次の日の朝、出勤時に必ず覗くポストの扉の内側に肉球型のメモ用紙をみつけたななしは、独り言は家の中だけにしなければ、そんな風に口元を隠しながらメモ用紙を手に取った。
 右下に山本の勤める会社の名前が印刷されている。可愛いメモ用紙には男の子らしい文字が綴られていた。残念ながら家主は不在だったようで、規定により荷物は一度集荷場へと戻ることになる。山本の根拠のない自信は外れてしまったようだ。彼が何階まで駆け上がったのか知らないが、帰りはあの軍手が力なく揺れる様を思い浮かべて少しだけ可哀想な気持ちになった。


「今度会えたら連絡先…え!?あっ、」


 メモを読むつもりがいつの間にか読み上げてしまっていたななしは、最後の一文をもう一度、今度は心の中で読み返した。『今度、また会えたら、ななしさんの連絡先聞いてもいいですか?武』何度読み返してもその一文が変化することはない。また会えたら。彼の根拠のない自信はどこからやってくるのだろう。それが百発百中でないことは昨日証明されたわけだが、山本が言う"また"は一度実現された。記憶にも残っていなかったはずの"宅配のお兄さん"だった山本があの日運んできたものを今更ながらに鮮明に思い出す。覚えてもいなかったはずの一瞬の出来事が、走馬灯のように蘇り今度こそ脳内にきちんとインプットされていく感覚はまるで記憶の波を泳いでいるような気分だった。

 肉球型のメモ用紙を失くさないように手帳に挟んで歩き出す。また今度。あるのかも分からないその言葉を、ななしは信じてみたいと思ってしまった。後から考えればそれはもう一種の期待のようなものだったのかもしれない。少なくともななしはそのメモを見て嫌な気持ちにはならなかったし、肉球がプリントされた軍手やメモ用紙が可愛いと思えたのだ。これが惚れた弱みというやつなのかはまだ分からない。




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