Short story

ねえ君、今朝は何食べた?

この春、晴れて社会人として新しい生活をスタートさせることとなった小林ななし。
彼女は一般事務として入社し主に営業の取ってきた仕事を受け取り書類に起こしたり、会議資料を作成したりと一日中パソコンとにらっめこをする仕事だ。社会人2ヶ月目にして既に肩こりを発症し始めている。


「あ、あの小林さん…」

「はい?」

「顧客リストって、どこ…だっけ?」

「………あ、はい」


パソコンを挟んで目の前の席に座る男が、申し訳なさそうにパソコンの脇から顔を覗かせていた。声を潜めて聞いてくるあたり、初歩的な質問をしている自覚はあるらしい。
顧客リストは営業であれば頻繁に使うツールの一つである。個人情報であり大事な会社の取引先のリストでもあるため新人であるななしにもパソコンに触れることになった日に場所とパスワードを教えられ、またその取り扱いについて先輩から耳にタコができるほど注意を受けたものだ。パスワードはメモに残すことも禁じられ何度も何度も頭の中で反復して記憶したものだ。今では指が覚えるまでになった。

そんな重要な顧客リストの場所を新人であるななしに質問してきたのは同じ課の営業担当沢田綱吉。ななしが入社した当時は空席だった目の前の席に戻ってきたのが先週の話である。出張もこなす営業担当ではよくある話であり彼もまた例のごとく出張をこなして戻ってきたというわけだ。

戻ってきてからの沢田の行動は正に奇行のオンパレードだった。ある日はできたての報告書に淹れたてのコーヒーを盛大にぶちまけ、スーツのある部分を濡らした。まるでお漏らしみたいに綺麗に濡らすものなので笑いを堪えるのに必死になったのを思い出す。またある時はコピー機を詰まらせた。ピピーと鳴るエラー音と「あ、あれ?」という不安そうな声。そしてトレーを引き出し紙を入れ直し閉める音。再び重い音を立てて動き始めた少し古めのコピー機が紙を1枚、2枚と吸い込んで順調に働き始めたと思われたそれは3枚目で再びピピーというエラー音に阻まれる。そして再び「あれ…?」と頼りない声が響いた。


そんな彼はななしのように新人というわけではない。今年で4年目、国内の長期出張だけでなく海外出張もこなす営業部の中では花形だ。ななしがそれを知ったのはつい先日の飲み会の席であり、同時に沢田が既婚者でありとても可愛らしい奥さんがいることも知ることとなる。


「沢田さん、ご結婚されてるんですね。」

「……え!?」

「えって…この前の飲み会の時に部長が仰ってましたよ。可愛い奥さんがいるって。そういえば外に出ないときはお弁当ですもんね。いいな〜」

「よ、よく見てるね小林さん…」

「女の子ってそういうところ目敏いんですよ。」


コンビニの袋からサラダとサンドイッチを取り出すななしの前で愛妻弁当の蓋をゆっくりと開ける沢田の顔はどことなく嬉しそうだ。好きなおかずでも入っていたのだろうか。手を合わせ「いただきます」と口にしてから唐揚げを摘む彼を見て、こういう所がきっと彼が嫌われない理由なのだろうとななしは思う。
疫病神でも飼っているのではないかと思う程に彼の仕事ぶりはスマートとは言えず、事務作業においては効率がいいとは言えなかった。彼がコピー機を使い出すと必ずコピー機の機嫌が悪くなるので15分はコピー機を占領されてしまう。まだ終わらないのだろうか、そんな風に思わなかったわけではない。新人であるななしがそれ以上何かを思うようなことはなかったが何年も共に仕事をしている先輩達や上司も彼に何か言うようなことはなく、それどころか「沢田さんがまたコピー機と喧嘩してる」と楽しそうにしていたのだ。それだけで彼がこの職場において疎まれたりしていないことが分かる。

飲み会のような場には姿を現さない沢田をとやかくいう人間もいなかった。普段出張で家に帰れないことが多い沢田は本社にいる時は残業も寄り道もせずに真っ直ぐ家に帰る。それを引き止める者は誰一人としていない。何か憎めないオーラを放つ沢田の観察をすることが最近の日課になりつつあるななしだった。


「え〜ここ3ヶ月の営業成績を発表する。」


四半期が過ぎた頃、部長の一言で事務所にいた社員は全員作業の手を止め部長のデスク周りに集まった。
上半期も折り返し地点に突入し、営業担当として入社したななしの同期達もぼちぼちと成績を伸ばしてきているのを知っていた。ホワイトボードに営業成績をグラフ化しているものを想像していた時期もあったが、ドラマの見過ぎなのかもしれない。少なくともななしの在籍する部はそのようなことはしていない。だからこそ、目の前の席に在籍していた沢田のことを彼が現れるまで知らなかった。


「今期4月から6月までの営業成績トップは沢田。2番手に…」

「…え!?」

「どうした小林」

「あ、いえなんでもありません。」


大きな声を出してしまったななしは口元を押さえながら縮こまる。苦笑いを浮かべた沢田と目が合い、更に肩をすぼめるしかなかったななしは相当に驚いていた。まさか目の前の席の頼りなさげな先輩が、我が部のエースだったとは思ってもみなかったのだ。発表された沢田本人や周りの先輩達がこの成績に驚いている様子はなく、声を上げてしまったななしを含め新人のみが驚いているのは、これがマグレではないということなのだろう。


「一体、普段何してるんだろう…?」


こうしてななしの『沢田観察』が本格的に始まるのであった。





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