真綿で包んで抱き締めて


「おまえ今日はもう帰れ」
「か、帰れません! 仕事もたくさん残ってるし…」
「使いモンになんねぇから帰れって言ってんだよ。そのままここにいられても周りが迷惑だ」

 わたしには周りを見渡す勇気はなかった。低く威厳のある声が響き渡ったオフィスはキーボードを叩く音と電話を知らせる無機質なコールに溢れていた。この中で唯一、そのリズムから弾き出されたわたしは、今日一日迷惑をかけ続けている。

「昼、食ったら帰れよ」

 上司の龍宮寺さんがそう言って、すれ違いざまに頭をポンッと撫でていく。心地の良い煙草の香りがスーッと身体に染み渡り溶けていった。固まっていた心臓が溶かされたようにドクドクと脈を打つ。
 大人になってまで上司に怒られて、仕事も碌に出来なくて、しまいには帰れなんて言われてしまう情けないわたし。自分のことが許せなくて、不甲斐ない気持ちでいっぱいだった。ここで泣くのはお門違いも甚だしいけれど、怒られて怖かったとか、悔しいとかそういう気持ちとは違う何かで涙が溢れそうだった。

 帰る前にせめて中途半端な仕事は片付けなければと、鼻を啜りながら手を動かした。冷静になってみると、数分で終わるはずのタスクが積み上げられて大きく見えていただけだったことがわかった。朝のわたしはまともな優先順位もつけられないほどいっぱいいっぱいだったのだろうか。客観的に見渡せば見える景色があるように、業務に追われた中でもスケジュール管理と自分の力量を測り間違えてはいけない。はぁ、と溢した息は肩の力を一緒に外していく。

 倉庫から引っ張り出してきたまま返すのを後回しにしていたキングファイル。最後にこれを倉庫に返して、お言葉に甘えて午後休をいただこう。契約書が大量にファイリングされて重くなったキングファイルを3つも抱えて倉庫へ向かった。

「よっこいしょ、っと」
「ババァか」

 勢いよく振り返った先に苦笑いを浮かべている龍宮寺さんがいた。倉庫の壁に寄りかかり腕組みをしている。最近社長から告げられたクールビズの終了に伴い付けられるようになったネクタイが胸元で揺れる。

「龍宮寺さん…」
「今は誰もいねぇよ」
「堅くん」
「ん」

 彼の名前が静かな倉庫にポツリと落ちる。上司の顔から恋人の顔へと表情を変えた堅くんは眉を寄せて困ったように笑った。
 社内恋愛をしているわたし達は会社では上司と部下。その関係は社内の誰にもバラしていない。堅くんは気にしないと言ってくれたけど、若くして重要なポジションにまで上り詰めた彼と、万年平社員のわたしじゃどうしたって釣り合わないし、わたしのミスで堅くんのキャリアの邪魔をしてしまうのが怖かった。だから秘密にしようと言ったのだ。

「ちょっとこっちこい」

 大きな手がわたしを呼ぶ。わたしはこの手が大好きでまるで魔法にかかったみたいに吸い寄せられてしまう。ふらふらと近寄ったわたしの前髪をかき上げて、堅くんの顔が近づいてくる。「待って、堅くん!」そんなわたしの言葉は無視されて、コツン、とおでこ同士がぶつかった。

「ん?」
「やっぱり、オマエ熱あんぞ」
「え!?」

 堅くんから離れておでこに手のひらを当てる。言われてみれば熱いような気もした。しかしたった今、目の前に堅くんの顔があったせいで心臓は大きな音を立てているし顔が熱いのだ。熱はそのせいかもしれない。

「朝からぽえーっとしてっから」
「朝から…」

 人間の体は単純で、熱があると言われた途端に全身をめぐる血液が熱いような感覚が襲ってくる。首元を押さえた自分の手のひらも心なしか暖かく、思ったような気持ちよさは得られなかった。

「堅くん…わたし」
「仕事のことなら心配すんな。急ぎの仕事なんてねぇだろ?」
「来週中のが少し」
「それなら週明けからでも間に合う。今日は金曜日だ。もう帰って休め」

 な? と顔を覗き込まれて頭を撫でつけられる。甘やかされているこの行為が無性に心地よくて目に涙が浮かぶ。堅くんは溢れてくる涙が流れる前に親指で掬ってくれた。

「堅くんすき」
「は? 知ってっけど」
「すき。だいすき」

 ぎゅうぎゅうと抱きしめられた腕の中で壊れたオモチャのようにすきすきと繰り返した。僅かに香る香水が堅くんの家を思い出させる。

「オイ、あんま可愛いこと言ってるとチューすんぞ」

 堅くんが笑うたびわたしの体温が上昇していくような気がする。ほわほわと心地のいい腕の中で何もかも放り出してしまいたい。揶揄ってくる堅くんはとても楽しそうだった。

「…すき」
「言ったな」

 ちゅう、とおでこに降ってきた甘い口付け。物足りなくて腕の中から堅くんを見上げれば「困った奴だな」と笑いながら堅くんが近づいてきてくれる。
部下としても恋人としてもこの人に甘えっきりのわたしは、もう彼なしじゃ生きていけないのかも、なんて。

「帰ったらすぐ寝ろ。夜行くから」
「うん」
「戸締りちゃんとして寝ろよ」
「うん」
「あ、チェーンはかけんなよ。入れねーから」
「うふふ、はーい」

 堅くんお母さんみたい。そういうとこれでもかと言わんばかりの甘い口付けが降ってきた。ゆっくりと唇の柔らかさを堪能するだけの優しくて甘い口付けは、子守唄のように心地がいい。

「かーちゃんはこんなことしません」

離れ難くなってきてしまったわたしに気づき、堅くんがパッと離れてしまう。最後に頭をポンポンと撫でつけて、オフィスへと戻っていった。
 わたしは倉庫で少しだけ時間を潰して、帰り支度をするためにデスクに向かう。自分のデスクの上にポカリとゼリー、熱冷ましの薬が入ったビニール袋を見つけて、思わず「イケメンか?」とこぼし、隣の席の営業さんに笑われることとなりました。



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -