蜂蜜よりも甘い愚考
「ナマエさん犬派なんスか!?」
「うん犬派。しっぽブンブン振って駆け寄ってくるのたまらないよね」
「そ、そんな…俺、猫派っス…」
「えーなんかショック」
まるで耳を垂らして落ち込む子犬のような顔をした千冬は、隣に座っている場地に「場地さんは猫派っすよね!?」と肩を揺らしながら懇願している。
学生時代から代わり映えのしないメンツでの飲みの場で、どこからともなく発生した犬派猫派論争は、虎やライオン、龍が出てきたことで終わりを迎えつつあった。
犬も猫も可愛いことに変わりはなくて、もちろんどちらも好きなんだけど、犬と言われたときに何故か「ナマエさん!」と駆け寄ってくる千冬の姿が脳裏に浮かんだ。私はきっと千冬を子犬か何かだと思っている。
そんな子犬みたいな千冬が猫派だと聞いて、なんだか裏切られたような気分になった。
離れた席に座っていた千冬が気がついたら隣にいた。ビールジョッキを片手にズイズイと寄ってくるので、私は左隣のドラケンの方へと少しずつ体を寄せて逃げる。ついには彼の厚い胸板に顔を寄せる羽目になる。
「詰めてくんなよ」
「だって千冬がなんか睨んでくる」
「なんで逃げるんすか。俺よりドラケンさんの方がいいってことですか」
そんな話は1ミリもしていない。猫派の千冬に意地悪をしたくなった私は、ドラケンの胸板に顔を埋めて「猫派が話しかけてくるー」と抱きついた。ドラケンは私の頭を抱いて「怖えなぁ猫派は。ひっかかれんぞ」と守ってくれるフリをした。
千冬の顔は見えなかったが何やら叫んで場地の元へと帰っていった。
「あんま虐めてやんなよ」
ドラケンは笑いながら枝豆を莢ごと私の口の中に突っ込んだ。
そろそろ終電の時間である。気の許せるメンツとはいえ、男ばかりの飲み会で終電を逃すわけにはいかない。明日も仕事がある。会社勤めのただのOLが週明けから寝坊しようものなら社会的に死んでしまう。お財布から千円札を数枚抜き取って会計係の三ツ谷に託す。そそくさと帰る準備を済ませた私は飲んだくれている友人たちに向かって帰るねーと手を振った。後ろの方で「ナマエさん! 送りますよ!」と叫んだ千冬に、振り返りながらあっかんべーをしてやった。
そんなことがあってから数週間。何度か飲みの誘いを受けたりもしたけれど、仕事が忙しくてなかなか顔を出せずにいた。千冬ともあれから顔を合わせていない。たまにくるくだらない連絡も、あの日以来きていない。懐いていた子犬が急にそっぽ向いてしまったように感じて、なんだかとても寂しくなった。それと同時にあの日意地悪をし過ぎてしまったことを反省した。怒ってるのかな、千冬。
『お、ナマエ、今日金曜日だし飲みくるだろ?』
三ツ谷からの誘いで向かったいつもの居酒屋。そこにはいつものメンツが揃っていたが、千冬の姿だけがなかった。同じ職場の場地と一虎はいるのに。
「場地ー、千冬は?」
「棚卸し。一人でできるから先行ってくれって言われてよ」
「誰かさんに会いたくなかったんじゃねぇの? 誰かさんにー」
「何が言いたいのよ一虎」
「はぁ? なんも言ってねぇけど? 心当たりでもあるわけ?」
「やめろ二人とも。千冬も終わったらくるっつってたじゃねーか!」
千冬は仕事を終わらせたらくるらしい。一虎の言うように避けられていたらどうしようかと思った。でもなんかこう、今更「あの日はごめんね」なんて謝るのも照れくさい。お互いに酔っ払っていたし、覚えてないかもしれない。私が一人で勝手に気にしてるだけかもしれない。会えばいつものように尻尾を振って「ナマエさん!」と駆け寄ってきてくれるかもしれない。千冬の到着を待ちながらちびりちびりと飲みすすめたビールの味は、いつもより薄くて味気ない。
「今日は静かじゃん」
向かいに座る三ツ谷がハイボールにレモンを絞りながら笑う。
「いつも大人しいけど?」
「嘘つくなよ。ほら飲め」
レモンを絞ったハイボールを渡される。これ私のだったのか。セーブしていたのがバレたらしい。そろそろ日付が変わろうとしている。千冬はまだこない。
「帰るー」
「お、もうそんな時間か。送るか?」
「いいよいいよ。またねー」
いつもの終電の時間。お金を三ツ谷に渡したら「今日はそれほど飲んでないだろ」とお札を2枚ほど突き返された。そういうところよく見ているなと思う。ドラケンの送ってくれるという申し出をやんわり断り、店を出た。
「ッ、ナマエさん!」
「お、千冬ぅ。お仕事お疲れさま」
「もう帰っちゃうんスか?」
あ、千冬のしっぽが垂れてるように見える。やっぱり子犬だな。そんな千冬の頭をぽんぽんと撫でて隣を通り過ぎる。終電を逃してしまうと、タクシーを拾うか歩くかの二択。金曜日の繁華街を一人で歩くのは流石に怖い。左腕の腕時計を気にしながら千冬に手を振った。
「待って」
パシッと腕を掴まれる。驚いて振り返れば千冬が酷く焦燥感のあふれた顔でこちらを見つめていた。どうしたの? そう声をかけようとしたが、送ります!! と遮られる。
「今来たばかりでしょ?遅くまで仕事したんだし早くみんなと乾杯してきな?」
「酒はいつでも飲めますよ。今日は送らせてください」
千冬があまりにも真剣な顔でそういうので黙って頷くしかなかった。握られたままの手首を見つめながら前をいく千冬を追いかける。千冬のことを子犬だと思っている私は、今まさに自分の腕を掴む彼の手に困惑していた。私の手首を余裕で一周してしまうほど大きな掌は少し冷たい。
「千冬…手」
「………」
千冬は何も言わなかった。私を掴む手にはさらに力が込められていく。腕が痛いわけではないのに、無性に泣きたくなるのはなんでだろう。千冬、千冬、とぽつぽつと名前を呼び続けているとようやく立ち止まってもらえた。
もう一度、千冬と名前を呼ぶ。
「ナマエさんほんと猫みたい。自分が甘えたい時だけ鳴くのはずりぃよ」
千冬の両手で包み込まれた右手が熱い。握り込んだ私の手を見下ろす千冬の顔は見えないけれど、僅かに耳が赤い。
「千冬こそ、子犬みたいだよ」
私の言葉に弾かれたように顔を上げた千冬の目は獲物を狙う捕食者の瞳のように鋭くて、子犬だなんて伝えたことを早速後悔し始めていた。
「ナマエさん犬派っすよね」
「うん」
「俺は猫派っす」
「うん。またその話?」
そろそろ終電の時間が差し迫っている。立ち止まって話し込んでいる場合ではない。終電を逃した後のタクシー捕獲戦争の辛さ、千冬には分かるまい。
「俺は猫がすきで、ナマエさんのこと猫みたいだなって思ってます。この意味、わかります? 猫みたいなんすよ、ナマエさん」
「な、にが言いたいの」
「で、ナマエさんは犬がすきで俺は子犬なんすよ不本意ですけど。つまりナマエさんは俺のことすきってことでいいですか?」
全然よくないけど、言葉に詰まった。全然いいことなんかひとつもないのに、何も言い返せない。
「そういうことだから飼い主さん、夜のお散歩しましょうよ」
子犬がオオカミになるまであと少し。