愛すべき何でもない日々A


「春千夜、これからおうち行っていい?」
『春ちゃんは拗ねてます。』
「あと二十分くらいで着くから起きててね」
『オイ、人の話聞けよ』

 じゃあね、後でね! と電話を切った。
 春千夜にデートをすっぽかされたわたしは、たまたま会った灰谷兄弟に遊んでもらってとても楽しいひとときを満喫することができた。これから、その間にしっかり拗ねてしまった春千夜のご機嫌取りに向かう。
 金木犀の香りを胸いっぱいに吸い込みながら歩く彼の家までの道は、何度も何度も通っていてきっと目を瞑っていたってゴールまで辿り着ける。
 初めてこの道を歩いたのは春千夜が今の家に引っ越してきた時。荷解きを手伝うために召喚されたわたしを、最寄りの駅まで迎えにきてくれたんだっけ。新しい家までの道のりを一生懸命覚えなければときょろきょろするわたしの手を、「ちゃんと着いてこいよ」とぶっきらぼうにエスコートしていた春千夜を思い出した。
 いつのまにか駅からの道のりは二人ではなく、一人で歩くようになったけれど、そのおかげで遠回りしてペットショップの前をわざと通ってみたり、お花屋さんの前で色とりどりの花を見ることもできた。ケーキ屋さんでその日のおやつを購入することもできるようになった。
 この街に住む春千夜よりもきっとこの街に詳しい。彼が行かないようなお店や公園をわたしはこっそり知っているから。

 見慣れたマンションまであと数メートルに差し掛かったところで、だいすきなピンク色が目に入る。あれは紛れもなく、竜胆さんが言う"イカレピンク頭"だ。桜餅みたいでかわいいと言ったらとても嫌な顔をされてしまったけど、春千夜の頭がどんな色だろうと春千夜は春千夜である。少々ぶっ飛んでいるのはナニも頭がピンク色になったせいではない。

「春ちゃーん」
「おせぇんだよ!」
「お迎えに来てくれたの?」

 違うと言い張る彼だったが、貰っている合鍵で家の前まで行けてしまうわたしをこうして外まで迎えに来てくれるのはとても珍しいことだった。
寝坊してデートをすっぽかしたことを少しは反省しているのかもしれない。

「何ニコニコしてんだよ。俺のことほったらかしてトンチキ兄弟と遊んでたくせによぉ」

 浮気だぞ、浮気。最低だ、俺は拗ねている。壊れてしまったラジオのようにずっと同じことを言う春千夜の左腕を掴んでエントランスへと入る。春千夜はペタペタとサンダルの音を響かせながら素直についてきた。
 オートロックに暗証番号を入力する間も、鍵を回す瞬間も大人しくわたしの横にいてくれる。エレベーターに乗り込むとわたしの後ろに回り込みぎゅうぎゅうと抱き締めてきた。

「どうしたの」
「どうもしねぇよ」

 そう言いながら抱きしめる力はどんどん強くなるし頭の上に乗せた顎はカチカチと音を鳴らしてわたしの脳みそを揺らす。
 到着を知らせるベルの音とともにエレベーターを降りた後も、後ろに貼り付いている春千夜をそのままに部屋まで歩く。

「春千夜歩きづらい」
「歩きづらいのは完全に俺」
「足踏まないでね」

 角にある春千夜の部屋までの廊下をのそのそと歩く。扉を開けて「ただいま」と告げたわたしに真後ろから「おかえり」と声が降ってくる。わたしの部屋じゃないけれど、春千夜が住み始めてからずっと通っているわたしにとってもここは自分の家のように思い入れがあった。ただいまというと必ず「おかえり」と言ってくれる春千夜が可愛くて、いつもお邪魔する時はそうしている。

「あれ、ハンドソープ変えた?」
「おう、なくなったから変えた」

 鏡越しに目があった春千夜がドヤ顔をしている。大きな子供のような春千夜はわたしが手を洗う間もずっとひっつき虫だった。

「へ
「褒めろよ!」

 笑いながらリビングのソファーへ向かうわたし達。わたし寝坊した春千夜に対して怒っていたはずで、まずは謝ってもらおうと思ってたのにすっかり忘れてる。今更そのことを思い出してみたところで、春千夜への怒りまで蘇ることはなかった。
 わたしを抱えたままソファーに座った春千夜の両足の間にすぽりと収まる。二人で過ごす時間が長くなるにつれて、身体の一部が春千夜に触れていることがとても安らぐようになった。背中に伝わる彼の熱や、お腹の前に回る意外と逞しい腕。大きな手は肉が少なくゴツゴツしているけど、お互いの手と手が合わさった時に、カチリと嵌ったようにしっくりくるのだ。

「ケーキは美味しかったかよぉナマエちゃんよぉ
「うふふ、美味しかった!」

 首元に顔をぐりぐりと押し付けながら今日のことを聞いてくる春千夜は、ケーキの味なんてきっと興味はないのだろうけれど、それでも知ろうとしてくれる。
 口の中で蕩けたパンプキンを思い浮かべながらどう表現すれば春千夜に伝わるのか考える。写真を見せても味と匂いまでは伝えることができないから。

「春千夜も今度行こうね」
「あのクソどもと同じとこなんて連れていくかよ」
「なんで張り合うかな」

 あ、また拗ねたな。唸りながら首元をすんすんと堪能する大型犬のような春千夜の頭をポンポンと撫でる。指通りのいい艶のある髪の毛を手櫛で解きながら、風が冷たくなってきていること、お散歩したらきっととても気持ちがいいこと、冬にはいちごがたくさん乗ったタルトが出ること。外で見聞きしてきたことを春千夜に伝える。

「蘭さんの一口ってリスかと思うくらい少ないの」
「んなことどぉーでもいいワ!」
「竜胆さんは甘いもの食べるとニコニコするのがかわいかったよ」
「俺だっていつもニッコニコしてんだろぉがよぉー」

 むすっとした顔でそんなことを言う春千夜の耳たぶを引っ張ったらお腹を摘まれた。擽ったくて捩った身体を春千夜は逃げられないようにと強い力で抱き込んでくる。静かに行われる攻防戦はどちらからともなく上がった笑い声で終わりを迎えた。

「なんか買ってきたんじゃねぇの?」
「あ、そうだ! 春ちゃんカラーのマカロン買ってきたの。食べよう」
「ケーキ食べた後で太るぞ」
「別腹だよ」

 ソファーに並んで座り直したわたし達は買ってきたものをローテーブルに広げた。
 ピンクのマカロンは写真を撮る前に春千夜の口の中に消えていく。
 わたしが写真を撮ろうかどうしようか悩んでいる間に、マカロンの味を気に入った春千夜がわたしの分にまで手を伸ばす。うかうかしていると食べられてしまう。
 春千夜の手をピタんと叩いて可愛いマカロンを一口。

「おいしい」
「どれ、味見」
「自分の分食べたでしょ」

 ちげぇわ、こっち。そう言って掴まれたのはマカロンではなくわたしの頬。グイッと横に無理やり向かされ驚いている間に、楽しそうな春千夜の顔が近づいてきて目を閉じる。従順なわたしの後頭部に添えた手が「いい子だ」と言わんばかりに撫でていく。

「甘ぇなァ」

 マカロンよりもピンク色になっているわたしの頬を見て、春千夜は満足げに笑った。



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