誰かの描いた運命線


「会社にマジいい匂いの人がいるんスけど、柔軟剤何使ってんのか聞いたら引かれるかな?」

 顎先に手を添えて至極真面目な顔つきで思案する松野千冬は、向かいに座る羽宮一虎が物凄く軽蔑した視線を寄越してきたことにムッとした表情を浮かべて、その向こう脛に軽く蹴りを入れた。机の下で静かに繰り広げられる小学生の喧嘩のようなやり取りも含めて、場地圭介はため息を一つ。

「仲いい人なん?」

 場地はいつまでも小競り合いを続ける千冬に向かい率直な疑問を投げかける。別に柔軟剤の種類を聞くことは悪いことではないし、一人暮らしをしている男が柔軟剤について興味を持つことは可笑しなことではない。ただまぁ、赤の他人から急に「いい匂いですね」などと声を掛けられたら誰でも気持ち悪がるだろう。
 千冬はまた少し考えるそぶりをして、「二人で話したことはない、事務のお姉さんです」と答えた。

「お前……」

 暗にやめろよと言いたげな一虎の視線が千冬に刺さる。千冬自身も引かれるだろうと分かっているからこうして聞いたというのに。彼が求めているのは避難ではなく、いかに柔軟剤を聞き出すかというアドバイスだ。だが、このメンツで最適解が得られるかはまた別の話でここに例えば三ツ谷なんかが居たとすれば、いい答えがもらえたかもしれない。

「そんないい匂いなの?」

 ここでやっと一虎が興味を示す。

「なんか優しい匂いで、香水みたくキツくないんです」

 その人が千冬の後ろを通るとふわりと香ってくるのだというその香りは日々忙殺される千冬の癒しになりつつあった。香りはリラックス効果をもたらすとも言うし最近寝つきが悪い千冬にとっては柔軟剤で安眠が得られるのであれば願ったり語ったりである。

「そのお姉さん可愛い系? 綺麗系?」
「それ関係あります?」
「あんだろ普通に! ッて、蹴んな」

 机の下でまた始まる蹴り合いは激化の一途を辿る。くだらない争いごとは新しいジョッキが運ばれてきたことで終わりを迎えた。





「松野くん、今日中に領収書出ます?」
「えっ」

 手に持っていた資料をバサバサバサと盛大に散らばせた千冬は、声を掛けてきた人物と書類とを交互に見て、「りょ、領収書っ、書類、アッ」と可哀想なくらい動揺した。
 千冬に話しかけてきた人物こそ、先日話題になったいい香りの柔軟剤を使っている事務のお姉さんで、こういう事務的な話ですらほとんどしたことがなかった。
 落とした書類も拾わなければならないし、聞かれたことにも答えなければならない。いろんなことが同時多発的に起こりオーバーヒートを起こしかけた千冬の耳に届いたのはナマエの笑い声だった。

「急に話しかけちゃってごめんね」

 驚かしちゃったねと散らばった書類を拾うためにナマエがしゃがむ。タイトなスカートからすらりと覗く両膝をきちんと揃えてしゃがむナマエに続き千冬も一昔前によくコンビニの前で屯っていた時のように豪快にしゃがみ込んだ。

「あっ、」

 その時、ふわりと香ったいい香り。フローラルだとかしゃぼんだとかそんな分類が千冬にわかるわけもなかったが、これは間違いなく名前の香りである。そして自分はこの香りが無性に好みであることだけは分かった。
 声を上げた千冬を不思議そうに見つめたナマエに「すんません!」と大きすぎる声で謝罪をする。奥の方で談笑していた先輩がこちらを見ながら笑っているであろう雰囲気を察知すれば、千冬の耳は赤くならざるを得なかった。掻き集めた書類の角を丁寧に揃えて渡してくれたナマエにもう一度、今度は落ち着いてお礼をする。
 ぺこりと頭を下げた時、やっぱり控えめながら千冬の鼻先までしっかりと主張をするナマエの香りにくらくらと酔っ払ってしまいそう。

「今日経費の締日なんだ。交通費の申請、まだだったよね?」
「やべ……」
「午後五時までなら待ってあげられるけど?」
「がんばります!」

 本来の締め切りは三時までだ。三時まではもうあと三十分もない。いつもいつも後回しにしてしまう交通費の申請は千冬の中で仕事としての優先順位が下の方にあったわけだが、今日という日から千冬が締切を過ぎることはなかった。ナマエにこっそり締切を伸ばしてもらえるのはなんだか特別扱いを受けているようで嬉しくもあったが、事務処理もまともにできない男だと自ら宣言しているようなもの。少しでもナマエにいい印象で心に留まりたくて懇切丁寧に事務処理をするようになる。

「あの、ナマエさん」

 呼び止めた瞬間居酒屋での一虎の冷ややかな目を思い出した。同じ目をナマエに向けられでもしたら千冬は立ち直ることができないかもしれない。まだなんてことない日常会話すらもしたことがない間柄。そこに今から爆弾を落とそうとしている。もしかしてこれは告白をするよりも緊張するんじゃないかと手に汗握りながら小さな声でもう一度「ナマエさん」と呼ぶ。

「柔軟剤、何使ってますか」

 しばしきょとんとした後、教えてもらった柔軟剤はドラッグストアの上の段の方にある少しお高めの柔軟剤。今度買ってみよう、と心に決めてふぅーっと肩を撫で下ろした千冬は一拍置いてから「今!柔軟剤難民で!なんかナマエさんめっちゃいい匂いするから!あ、変な意味とかではなく!」と矢継ぎ早に告げた。

「同じ種類のビーズも入れると香りが良くなるよ」
「へ、へぇー?」

 千冬がこれまで洗濯機に入れたこともないアイテムまで教えてくれたナマエの背中を見送りながら教えてもらった柔軟剤を忘れてしまわないように頭の中で反復をする。

 後日同じ柔軟剤で部屋着を洗濯してみた千冬だったがどうも優しい感じとか柔らかい感じが名前とは異なる気がして首を傾げることとなる。

 のちに、「ナマエさんってなんの香水使ってますか?」と質問をして今度こそ笑われてしまうのだが、それはまだもう少し先のお話。



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