抱えた膝ごと抱き締めて
「マイキーたい焼き食べる?」
「いらない」
目の前の大好物に飛びつかない俺を見てナマエは驚いたようだった。
大好きなたい焼きよりももっともっと大好きな彼女が目の前にいるのに俺の心はどよんと沈み込んでいる。
「どうしたの?」
そんな俺の顔を心配そうに覗き込んでくる彼女の甘い唇にキスをした。最初は触れるだけ。驚いて目を閉じるのを忘れていたナマエがまぁるい瞳を優しく細めて閉じていく。「いいよ」と言われたような気がして、甘い唇をちゅッと吸う。角度を変えて何度も何度もその唇を堪能した。
腹が空いている時のような喪失感。でも食べ物じゃ満たされない。
「マイキー」
キスの合間に聞こえた自分を表す呼称。乱れた息遣いで甘く囁かれたソレはずっと昔、俺とエマが家族になるために名乗った名前だ。
気に入っている。"無敵のマイキー"なんて呼ばれてその名はどんどん知れ渡っていった。今ではこの名前を聞いただけで怯む奴も多い。
「マイキーって呼ばないで」
「えっ」
マイキーでいる間はお兄ちゃんで、総長で、無敵だ。俺らが昼間は学校の制服を着ていて、夜には特攻服を着るのと同じように、俺は朝起きたら万次郎からマイキーになる。寝ている間以外はきっと、俺はいつでもマイキーだ。
でも大好きなナマエの前ではただの佐野万次郎でいたい。
「怒ってる?」
「違えよ、名前」
「名前?」
「名前で呼んで欲しい」
俺の子供のようなお願い事に、ナマエは少し驚いた様子を見せた。それでも柔らかく笑ってくれるから、ナマエはなんでも許してくれるんじゃないかって安心するんだ。
マイキーじゃない俺は、弱くて情けなくて。シンイチローの後ろをついて回っていた頃みたいに、本当は誰かの後ろを歩きたい。何でも教えてくれた兄貴はもういない。
俺の後ろにはたくさんの仲間がいて、俺の背中は常に誰かに見られてる。あいつらが不安に思わないように、俺はいつだって肩肘張ってまっすぐ前を向かなきゃならない。マイキーはそういう奴じゃなきゃならない。誰が決めたわけでもないのに俺はその使命に雁字搦めにされて息苦しい時がある。
「万次郎くん?」
「くんもいらない」
「万次郎」
「うん、もう一回」
ナマエに名前を呼んでもらうとガチガチに固まった全身の筋肉が柔らかく解されていくような感覚になる。
例えば俺の心がいつの間にか鎖でぐるぐる巻きにされていたんだとしたら、その鎖の鍵はきっとナマエだったんだ。何重にも重ねられた鎖のひとつひとつを、ナマエの優しい声が外してくれる。
「万次郎、大丈夫だよ」
「……うん」
何が大丈夫なのか分からなかったけど、そう言って俺の背中に両腕を回してくれた彼女の温もりにひどく安心した。