君に一番近づく譜割
「そろそろ"灰谷くん"ってやめねぇ?」
「えぇ…」
やっとの思いで付き合えた大好きな可愛い彼女。この子がいるおかげで最近の俺はよく学校に顔を出すようになった。たまたま行った学校で、いつの間にか行われていた席替え。自分の席が分からず、帰ろうとしていた時に話しかけてくれたのがナマエだ。
「灰谷くんの席はここだよ」
スッと机を撫でた白くて細い指、長袖のワイシャツを肘の辺りまで捲り上げていた彼女の一挙一動がスローモーションのように瞳にこびりついて離れなかった。
あの日俺は、柄にもなく一目惚れというやつをした。そしてピュアな彼女への俺のひたむきなアピールの末付き合えたのは季節が冬になる頃の話。ナマエのことを知った初夏からゆっくりと時間をかけてたどり着いたナマエの隣。
これ以上を望んだら欲張りすぎだと怒られるんだろうか。
「だって…兄貴のことなんて呼んでる?」
「蘭さん」
「なんで兄貴が名前なのに俺は名字なの!」
可愛い彼女は兄のことを"蘭さん"と呼ぶのだ。自分だって名前で呼んでほしいのに、"灰谷くんのお兄さん"と呼ばれていた蘭が、「俺も灰谷くんだから蘭って呼んで」と申し出て、彼女はそれを快諾した。
「兄貴は呼べるのに俺の名前は呼べないの?」
困ったような顔で笑うナマエの顔を覗き込んで訊ねる。こういう所が自分は弟なんだなぁと感じる瞬間だった。
兄貴の時はたしか二つ返事で「蘭さん」と言い直したような記憶がある。その時に「俺も!」と名乗り出ることができていたら良かったんだろうけど、あまりにもポンポンと彼女との距離を縮めた兄に驚いて声を出せなかった。
俺がナマエの名前をクラスの奴から聞き出すのに一日かけて、話しかけるのに一週間かけたというのに。
「なぁナマエ、俺のことも名前で呼んで」
「急に変えるの恥ずかしいなぁ」
「後になればなるほど変えづらくなるだろ」
「それはそうだね」
上手いこと言いくるめて彼女に名前を呼ばせようと試みる。ここまでくればもう意地だ。
考えあぐねる様に顎に指を添えるナマエの手元はその半分をカーディガンに隠されている。
季節に伴い装いが変わるナマエの一つ一つを目に焼き付けたい。寒くなればクラス中の人間がカーディガンを羽織るようになる。例に漏れず俺もナマエもカーディガンを羽織っているのに、ナマエのカーディガン姿だけは特別輝いて見えるのだから恋とは盲目だ。
ナマエが深呼吸を一つ。大きくて可愛いアーモンドアイが俺を見つけてその端を垂らす。
「竜胆……くん?」
「くん…」
「竜胆くん!」
彼女の中で呼び捨てはしっくりこなかったようだ。たっぷりの間の後に試される様に付け足された"くん"という言葉が、柔らかい彼女らしいなと思う。呼び捨ても悪くなかったが、これはこれでいいんじゃないか。
現にナマエに「竜胆くん」と呼ばれた俺は、それだけで心臓がトクトクと脈を打って生きているよと主張する。しばらくは竜胆くんと呼ばれるたびにソワソワっとするだろう。
「ナマエ」
「なぁに、竜胆くん」
「もっと呼んで」
「竜胆くん」
自分の名前は好きでも嫌いでもない。生まれた時に与えられたもので死ぬまでずっと一緒。ただそれだけだった。同じ名前の花があると知ったのは小学生の頃だったか。どんな理由でつけられたのかも興味がわかず確かめずじまいだし、同じ名前の花に愛着が湧くこともなかった。
それがナマエの口から飛び出てくるだけでこんなにも暖かくてまぁるい言葉に変わる。ほわほわと新雪が降り注ぐように冷えた心に降り積もる暖かいものの名前はまだ知らない。それを人はしあわせと呼ぶんだとしたら、俺はナマエにしあわせを与えられてばかりだ。
これからは俺のガキくさい我儘を叶えてくれたナマエに、俺の一生をかけてしあわせを贈ろうと思った。