ハートスクラッチ


 憧れの事務に転職してはや三ヶ月。
 わたしは今、給湯室で唇を噛みしめています。

「うッ」
「大丈夫…デスカ?」

 思わず漏れ出た呻き声にも似た悔しさが、まさか拾われるとは思わず。背後から聞こえた自分なんかを気遣う深みのある声に驚き肩を飛び跳ねさせながら振り返った。
 まだ社内の人の顔と名前が一致していないわたしは蚊の鳴くような声で「お疲れ様です」ともらす。その隙にうちの社員が首から下げる社員証の名前を盗み見ようとしたけれど、そのような物はぶら下がっていなかった。
 そろりと見上げた先にあった顔を見てギョッとする。知らない人だ。そしてイケメンだ。
 随分と高い位置にある瞳がパチクリと瞬きをしたあと、ふと細められる。

「俺、たぶん違う会社の人」
「……え!?」
「俺○△商事だけど、お姉さん株式会社□○△じゃねーの?」
「すみません!」

 ペコペコと頭を下げたわたしの上から楽しそうな笑い声が聞こえ、恥ずかしさに顔に熱が集まるのがわかった。
 同じフロアに複数の会社が入居しているこのビルの給湯室は一箇所のみ。自動販売機も設置されているこの場所は共用のスペースだった。ここで誰とも会ったことがなかったので油断をしていたわたしは、彼に話しかけられていなければうっかり涙をこぼしていたかもしれない。いい大人が、就業中に泣くなんてみっともない。冷静になれば分かることだったのに、感情に任せてしまおうか、なんて思ってしまったのだ。

「なんかあったん? お姉さん新しい子でしょ」
「うぇ、あ、別に…」
「わっかりやす」

 視線を逸らしたのがまずかったのかな。初対面の人にもバレてしまうほどわかりやすいわたしの態度にお兄さんはまた笑った。

「俺、龍宮寺堅。○△商事の営業マン」

 お姉さんは? と聞かれ「ミョウジです」と名乗れば下の名前を聞かれてしまって。オフィスビルの中で繰り広げられる会話にしては軟派なソレに、チラりと龍宮寺さんを見上げる。

「取って食ったりしねーから」
「……ナマエです」
「ナマエちゃん」

 自分の名前がこんなに甘く心に響いたのは初めてだった。龍宮寺さんの低く心地のいい声が、疲れ切った身体に染み渡って溶けていく。なんだか無性に泣きたくなって両手をキュッと握りしめた。

「あ、ナマエちゃん。おつかれー」
「お疲れ様です、龍宮寺さん」
「ドラケンでいいのに」

 龍宮寺さんはフロアの廊下やビルのエントランスで会うたびに声をかけてくれるようになった。ドラケンは、龍宮寺さんの子供の頃からのあだ名らしい。ナマエちゃんならドラケンって呼んでもいいぜ、と許可をいただいているけれど、そんな風に呼べるわけもなく。龍宮寺さんを貫き通すわたしに彼はいつも「硬えなナマエちゃん」と笑うのだった。

「ナマエちゃん、合コンセッティングしてくれねぇかな?」

 夕方の給湯室。就業時間の少し前にオフィスのコーヒーマシーンなどを分解して洗う仕事があるわたしは毎日決まった時間にここにいる。それに気付いた龍宮寺さんは自動販売機でブラックコーヒーを買ったあと、わたしが洗い物を終えるまで給湯室の壁に寄りかかりながらなんでもないことを話して聞かせてくれていた。

「龍宮寺さん彼女募集中ですか?」
「俺じゃなくて同僚がうるせーの」
「龍宮寺さん彼女いそうですもんね」

 かっこよくて、背も高くて。見知らぬわたしに対してもこうして話しかけてくれる。女の人が放っておくわけがない。

「で、どう? 合コン」
「わたし呼べるようなお友達いないです…」
「会社の人でいいじゃん」

 なんてことないようにそういう龍宮寺さんが憎い。わたしが仕事にも会社の人間関係にも馴染めずにここで泣きかけていたことを知らない彼は、「ん?」と首を傾げて見つめてくる。

「会社の人の連絡先知りませんもん」
「拗ねた顔すんなよ!」

 龍宮寺さんはわたしのことを子供扱いして笑い飛ばすことが多い。拗ねた顔をした自覚があったわたしは、唇をへの字に曲げながら泡のついたスポンジをむぎゅむぎゅと握りつぶすのであった。

「カンパーイ!」

 軽快な掛け声とともに突き合わされた冷えたジョッキ。金曜日の午後、定時上がりを目論む人間の仕事の速さを目の当たりにしたわたしは置いてけぼりを喰らわないように必死になって覚えたことをこなし無事に定時を迎えた。
 今わたしは、龍宮寺さんのセッティングした合コンに来ている。会社の先輩二人とは仕事の話以外をしたこともない間柄で、今日この瞬間を迎えるまでのわたしは酷く緊張していた。そんなわたしが今日こうして同じテーブルに着くことができたのは、目の前にいる龍宮寺さんのお陰だった。
 いつまでも給湯室から帰ってこないわたしを見兼ねて覗きにきた先輩に「あ、合コンしません?」と言ってのけた龍宮寺さん。驚き過ぎて固まるわたしをよそに「します!」と即答した先輩。あれよこれよと話が進み今日という日を迎えた。

「ミョウジさんって龍宮寺さんと昔から知り合いなの?」

 ブンブンブンと勢いよく首を振ったわたしに先輩たちは笑った。お酒の力も借りて先輩たちとの会話が弾む。正直、目の前の男性陣には申し訳ないけど今日は先輩たちとのお喋りの方が楽しみだった。せっかく仲良くなれるチャンスだもん。

「ナマエちゃん狙ってる人だれ?」
「先輩たちです!」
「かーわーいーいー」
「おい、目の前にいい男いんだろ」
「龍宮寺さんはいい男ですけど今日のわたしの狙いはこちらのお姉さん二人です」

 龍宮寺さんはへらりと笑ったわたしの頭をポンとひと撫でして席を立つ。見上げるわたしに「トイレ」と告げて店の奥へと消えていった龍宮寺さんの背中を先輩たちの黄色い悲鳴が追いかけた。

「龍宮寺さん絶対ナマエちゃん狙いじゃん」
「彼女がいるんじゃないですかね?」
「ドラケンさん彼女いないっすよ」
「ほらー!」

 思わぬ収穫に面食らう。でも、ほら。彼女がいなくても選択肢はたくさんあるだろうし。彼女が欲しいわけじゃないかもしれないし。わたしのことはなんかこう、まるで手のかかる妹ように気にかけてくれる。
 頼れるお兄ちゃんのような彼の優しさに知らぬ間に助けられていたわたし。今日だって龍宮寺さんのおかげで先輩たちと仲良くなれたから。

「昨日はありがとうございました。とっても楽しかったです」
「……いい収穫あったのかよ」
「先輩二人と連絡先交換できました」

 いつもの給湯室でピースをすると龍宮寺さんはまた笑う。龍宮寺さんの笑った顔は目尻がとろけてかわいい。

「俺とも交換してくれよ」
「えどうしようかな」

 渋ったわたしに優しい拳骨を落とした龍宮寺さんはスマホで脇腹を突いてくる。くすぐったい。洗い物をしながら身を捩るわたしに悪戯をする龍宮寺さんはなんだかとても楽しそうだった。

「今度はさ、二人がいいんだけど」

 いつも笑ってる龍宮寺さんがこんな冗談を言う時だけは真剣な顔をするのは心臓に悪い。
 うまく返事のできなかったわたしの制服の胸ポケットに名刺を忍び込ませた彼は、「連絡待ってるから」とわざわざ耳元で囁いて給湯室を後にした。

わたしはよくわからない叫び声を上げてしまわないように、唇を噛みしめた。



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