さよならの向こうで
待っていたものC
「隆くん、電話鳴ってない?」
「あー……、ん?」
マナーモードにしていたスマホが振動しながら知らせたのはナマエからの着信だった。普段、メッセージでのやりとりをすることが多いナマエからの電話は珍しい。数コールで大人しくなったスマホを一度ポケットにしまって目の前の彼女に向き直る。
「悪りぃ、今日泊まるのやっぱなしにしていいかな?」
「えっ? 急にどうしたの!?」
適当な理由がすぐに思いつかなくて「悪い」としか言わない俺に、彼女は不服そうな顔をする。それもそうだろう。ここは彼女の家で、今日はここに泊まるつもりで来ているし先ほど風呂を借りたばかりなのだから。夜もこれからという時に突然帰るだなんて言われたら誰だっていい気はしない。
「さっきの電話、誰から?」
「電話は地元の奴だよ」
「その人のところに行くの?」
ナマエと俺の間に彼女に言えないようなやましいことなんて一つもない。飯を食いに行ったり、飲みに行ったりをわざわざ彼女に報告もしていないけど、ナマエといる時に「今何してるの?」と聞かれれば、ナマエとしていることを素直に答えていた。ナマエが女だということは伝えると面倒くさそうだから言ってないけど。
「電話折り返したら?」
「え?」
「今ここで、私の前で電話してよ。地元のお友達なんでしょ?」
あぁ、めんどくせー。舌打ちをしてしまいそうになるのを既の所で堪えた俺は、努めて優しい手つきで彼女の頭を撫でた。
「普段電話してくるような奴じゃなくてさ。きっと何か困ったことがあって俺に助けを求めてんのかもしれないから」
「隆くんじゃなきゃダメなの?」
「それは俺には分かんねえけど、頼られてんならほっとけねぇじゃん?」
納得したわけではなさそうな彼女も渋々といった感じで頷いた。その口がへの字に曲がって突き出ているのが可愛かったのでチュッとキスをしてやれば機嫌は治ったようだった。
「明日のデートはしてくれるんだよね?」
「もちろんだろ」
「じゃあ許す」
彼女の家を出た俺は不在着信をタップして折り返しの電話を入れながら歩き出す。
夜は上着がなければ肌寒い季節になってきた。もうすぐ吐く息が白くなるのだろう。たっぷり数コールかけてようやく聞こえたナマエの声は申し訳なさそうで、なんだかこっちが泣きたくなってしまいそうだった。
「ナマエ今どこ?」
『ごめん三ツ谷、なんでもないの』
「嘘つけ。お前が電話してくるなんてよっぽどの大事件だワ」
電話口からはヒールがコンクリートにぶつかる音がゆっくりと聞こえてくる。ナマエも外を歩いているようだった。金曜日の夜、とっくに定時を過ぎた時間に女が一人で出歩いている理由は酒を飲んでいたくらいしか思い付かない。
生憎、ナマエは酒が入ったからと言って俺に電話をかけてくるような女ではないし、迎えを頼むような女でもない。終電がなくなってしまったとしてもタクシーを捕まえて一人でちゃんと家まで帰れるできた人間だ。そんなナマエが俺に電話をかけてきたのに、なんの理由もないわけがない。
「お前…、今日例の飲み会?」
『…………うん』
「アイツになんかされたの」
ナマエは何も言わなかったが、普段しっかりと自分の気持ちを伝えてくるナマエがこんな風になっているのは、酒のせいでもなんでもなくあの男の所為だ。昔に見せられたプリクラのもうぼんやりとしか思い出せない男の顔を頭の中でぶん殴る。やっぱりあの時、浮気した挙句ナマエを捨てた五年前にもうナマエには近づけないように灸を据えておくべきだったか。
ナマエの居場所は飲み屋街からは離れた住宅街。なんでそんな所にいるのかは合流してから聞くとして。捕まえたタクシーに目的地を伝えた俺は何も話さないまま繋がれたスマホを耳に当てて、やり場のない怒りに後部座席のシートを殴った。
「三ツ谷、ごめん」
コンビニに入って待たせていたナマエはホットのお茶を二つ購入して外に出てきた所だった。いつも飲むコーヒーじゃないところが夜という時間帯を考慮したナマエの優しさ。分かりにくいほどさりげない気遣いに感心する。
どちらからともなく歩き出した俺たちは、側からみれば待ち合わせをしていたカップルにでも見えるのだろうか。
「ナマエどこで飲んでたわけ?」
「駅前だよ」
「なんでまたこんなとこまで来てんだよ」
帰り道が分からないほど酔っているようには見えないナマエの足取りは、いつもよりゆっくりだけどしっかりしている。
「酔った元彼が一人で帰れないっていうから一緒にタクシーに乗ってきたの」
「は? そんなんお持ち帰りの口実じゃん。何間に受けてんの」
「間に受けてなんかないよ。分かってて、着いていったの」
ナマエはバカな女じゃない。一人で帰れないなんてアホらしい嘘ですら笑い飛ばして交わせないほどその元彼の存在はまだナマエの中で大きいのかもしれない。
ナマエがこんなに元彼のことを引きずっているのは、こうやって会うたびにまるで元の鞘に収まったかのようにナマエを連れて帰る男にも問題があった。着いていくナマエもナマエだが、それをとやかくいう筋合いは俺にはない。行きずりの関係の数は俺の方が多いから。自分のことを棚に上げてナマエのことを叱れるわけがなかった。
「でも玄関まで行ったらすぐに分かった。一人で住んでる家じゃないなって。流石に人としてどうかと思ったから酔っ払いを玄関に突き飛ばして逃げてきたの」
「うわ、ソイツやべぇな」
「でしょ。私もどうかしてるよね。そういえば最低な奴だったなって、やっと思い出したよ」
笑うナマエは泣いたりしない。泣いてくれたらその涙を拭う役目を買って出るのに。縋り付いてきたら思いっきり抱きしめてやるのに。俺の前ですら隙を見せないナマエの代わりに俺が泣いたらナマエは俺を抱きしめてくれるんだろうか。