365本の約束




「バレーボール、及川選手に隠し子!?」

 その見出しは、思わず記事の内容を確認してしまうには十分すぎるものだった。

 日本に一時帰国したバレーボール選手の及川徹。地元宮城のショッピングモールにて赤子を腕に抱き、束の間の家族団欒を──

 動悸がして、続きを読むことはできなかった。何かの間違いでしょ? それは声に成らず、一人暮らしの部屋に消えていった。
 及川徹、アルゼンチンでバレーボーラーとして活躍する彼は私の彼氏のはずで。シーズンオフの期間、日本に帰国する彼と数日を共にする予定もある。帰国後の彼が真っ直ぐに向かったのは実家のある仙台市で、彼は「家族の方に先に顔出してくるね」と言っていた。ネットニュースの「帰国は家族サービス」の文字がチカチカと光って頭が痛い。

 甘いルックスも相まって女性ファンも多い及川のスキャンダルに世間ではちょっとしたニュースになっている。見なければいいのに、暗くしたスマホをもう一度照らしてネットニュースの続きを目で追う。「あの月齢の赤ん坊ということはあの時期の帰国の時に…」吐き気がする。だって、記事には及川の帰国時期と赤ん坊の月齢が一致することなんかも書いてあった。確かに、記事の通り及川はその時期に帰国していて、その全ての時間を共有したわけではない私には、何が本当のことか分からなかった。

 彼と付き合っていると思っていたのは私だけ? それともそんな風に思っている女の子が他にもいた? 暗い部屋でぽたり、ぽたりと涙が溢れ落ちる。
 及川はネットニュースのことには一切触れず、いつも通りだった。「早く会いたいね」そう綴られる文字が滲んでしまう。早く会いたいなら一番に会いにきてほしい。そんなわがままでずるい考えに支配されていく。及川ではなくどこの誰かも分からない人の言葉を信じてしまう自分が嫌になるけど、どこかの誰かが違うよって言ってくれていないかとネットの言葉を探してしまう。及川には東京に彼女がいるよって、誰か。

 好き放題綴られるネットニュースはとうとう及川の妻を予想するものまで出始めた。

 高校時代の同級生A子氏。当時のバレー部員とも仲が良く、及川選手帰国の際にはバレー部の飲み会にも顔を出す程の公認の仲。在学中に破局しているとされているが、酒を飲める歳まで付き合いが続いているのだから復縁していてもおかしくないだろう──

 及川が目撃されたのは実家のある宮城県。同郷の元彼女であれば、有り得なくはない、のかな。そんな予想をしているネットニュースを見て落ち込んだ。私はただの一般人。及川と同郷でもないし、ニュースになんてなるはずもない。お付き合いを始めた頃にはプロとして活躍をしていた彼の邪魔をしないと決めていたから。デートらしいデートだって我慢して、隠れるように会って。その結末がこれなのだとしたらなんて虚しいのだろう。

「明日そっちに行くね」

 及川からの連絡になんて返そうか。無理して会いに来なくていいよ? それとも、別れよう? 久しぶりに会えるのに可愛くない言葉しか思い浮かばなくて。でも及川の前では最後まで可愛い女でいたかった。

「待ってるね」

 明日が最後。いつも通り私の部屋でごはんを食べて、シングルサイズのベッドで身を寄せあいながら眠る。明日だけ。明日で最後にするから。明後日にはもう他人になるから許してください。

「久しぶりっ名前ちゃん」

 及川はサングラスをずらしながら笑う。芸能人みたい、いや、実際それくらいの知名度はある。だからこうして、今日も人目につかないように会っている。
 彼に会ったら怒りとか憎しみとかそういう感情が爆発するのかなって思ってた。でも実際は違った。今まで過ごしてきた時間。話したことや交わした視線。そんな色んなことが蘇って、泡となって消える。全部、嘘だった? どこから嘘だった? はじめから? 聞きたいことが山ほどあるのに、何を聞いたって惨めな気分になるね。それならいっそ、今日という日を、及川の彼女でいられる最後の日を完璧に過ごして、そしてさよならしよう。

「徹の好きなもの作ったよ」
「ほんと!? 嬉しい!」

 にこにこと笑う及川を見て、チクリと心が傷んだのははじめてだった。眠る準備を終えて、しんと静まる午前0時。暗闇の中で及川の手が相変わらず優しく私に触れる。会えなかった時間を埋めるように、隙間なく寄せられる熱いカラダに思わず涙がこぼれ落ちる。

「名前ちゃん?」
「なに?」
「泣いてる?」

 暗いから分からないかなって思ったけど、さすが及川。あーあ、可愛い彼女はここでおしまい。震える唇からやっとの思いで告げる、「別れよう」の4文字。暗闇で動きを止めた彼は何も言わない。永遠にも感じる数秒だった。


「なんで!?」


 その静寂を切り裂いたのは及川の絶叫だった。

「だって、奥さんと子供…」
「ちょっと! ストップストップ! 名前ちゃん、まさかあのニュース読んだの!?」

 暗闇で彼に見えるか分からなかったけれどこくりと頷く。そうすれば、ハァと溜め息が聞こえた。偽りの関係が終わるのはあっけないものだね。せめて、私から別れを告げて、ふたりの関係を終わらせたい。これは私の最初で最後のわがままだった。

「だからね、徹…私たち…」
「あれ親戚の子供なんだけど!!!」
「………え?」

 親戚の、子。及川の言葉を反復する。

「俺、名前ちゃんに嘘ついたことないよ?」

 おでこ同士をこつんとつけられ、落ち着いた声が降る。その声は少し悲しそうだった。信じてもらえなくて、疑われて、知らないところで一人で別れを決意されて、傷ついてる。

「なんで聞いてくれなかったの?」
「本当のこと聞くの怖かった」
「そんなに信用ない?」

 違う。及川を信用していなかったわけじゃない。でも距離がある分見えないことも多くて、不安もあったんだと思う。そこにネットのニュースを見て、たくさんの記事が、あることないこと推測をして。それがたまたま辻褄が合うように感じてしまった。そこからは、私と過ごした時間の方を疑う方が楽だった。だって私たちはずっと秘密の関係だったから。

「ごめん、不安にさせてたね」
「徹、独身?」

 私の問いにフッと笑って「当たり前でしょ?」と笑う。なんだ、こんなに簡単なことだったのに。私がちょっと聞いてみれば済む話だった。でも私はそれも出来ないほど揺らいでしまっていたんだ。

「ごめん、徹。私、結構不安だったのかも」
「うん」
「すごく大切にしてくれてるのに」
「うん」
「徹以外の人の言葉を信じてごめんね」
「うん」

 及川は私の言葉を遮ることなく相槌を打って聞いてくれた。髪の毛を撫でつけられながら、ゆっくりと落ちる相槌に心が解されていくのが分かる。

「でもごめん。俺、もうすぐ独身じゃなくなるかも」
「えっ」

 暗闇の中で及川の顔がぼんやりと照らされる。嘘をついているわけではないのはすぐに分かった。引いた涙がまた押し寄せてくるのを感じながら、私はそれを止める術を持たなくて。

「そ、れ…」
「うん、だからね──」


◆◆◆


「及川選手! ニュースになっている件は事実ですか!?」

 及川がアルゼンチンへ帰る。また私たちは離れ離れ。空港には彼を囲む記者たちの姿。また、芸能人みたい。私はどこか他人事のようにそれを遠目から見守っていた。
 私のすぐ近くでは別れを惜しむカップルが抱きしめあって、最後の時間を共有している。恐らく、同じ遠距離交際なのに私たちとは随分違う別れ方だなあと思いつつ、目を逸らした。私は多分、及川に触れることのできる距離にいたら名残惜しくて胸が張り裂けそうになる。抱きしめられたら最後、彼の服を掴む手が二度と開かないのではないかと思うくらいに握りしめて、泣いてしまうだろう。「行かないで」そんなふうにわがままを言って困らせてしまうかもしれない。だからいつもスンとした顔で澄まして見送っていて、及川のほうが「寂しい! 名前ちゃんが寂しそうじゃないのも寂しい!」て騒ぐのが常。
 そんなことを考えていると記者の対応におわれる及川がふとこちらに視線をやって、「おーい!」なんて大きな声で手招きをしてくる。記者が一斉にこちらに向くので私は思わず回れ右をして他人のフリをした。

 喧騒が背後に近づいてくる気配。及川が記者を引連れて近寄ってくる。やだ、やめて。他人のフリしてるのに。肩をグッと掴まれて、だいすきな及川の匂いに包まれる。途端にカシャカシャとシャッターの切れる音。及川が私の顔が写らないように自分の胸に押し付ける力を強めたのでちょっと苦しい。

「ゴホン。えー、噂になってる赤ちゃんは親戚の子で、僕はまだ独身だけど、可愛い彼女が心配してしまうので憶測で色々書かないでくださいね」

 及川の言葉に記者たちから「おぉ」と謎の歓声が上がる。
 「あとそろそろ僕も独身じゃなくなるので」及川が私の手を掬いとった。薬指に光るエンゲージリングは一緒に買いに行ったもの。
 「これで安心してほしいわけじゃないど」って及川は言ったけど、形に残る約束の印が嬉しくて、あれから何度も眺めたり撫でたりしている。

 別れを決意したあの夜、もうすぐ独身ではなくなると及川に言われて、その先の言葉を勝手に想像して涙を流した私を彼は強く強く抱きしめた。

「うん、だからね、俺のお嫁さんになってくれる?」
「……ん?」
「ちょっと! お約束のボケやめてよ!」

 想像と違うことを言われて、呆けた私に及川は脱力してのしかかる。「重い」と身じろぐ私を腕と足でもって抱きしめてぎゅうぎゅうと締め付ける彼はどこか拗ねているようだった。

「俺が独身じゃなくなるなら、その伴侶は名前ちゃんに決まってるでしょ!?」
「伴侶…」
「そう!」

 もう! 本当はもっとかっこよくプロポーズしたかったのに! と及川は言う。夜景が綺麗に見えるホテルでディナーでしょ? 365本の薔薇の花束を用意するでしょ? 膝まづいて「結婚してください」って言いたかったのに。だって。そんなこと考えていたなんて知らなかったな。


◆◆◆


 数日前の出来事を思い出してニヤける顔を、及川の胸に押し付ける。今きっとすごく変な顔してる。

「正式に結婚したら大々的に特集してくださいね!」

 そんな宣伝をしながら記者から離れ、やっと落ち着いて見送れそう。

「また暫く離れちゃうけど名前ちゃんは泣かないかな?」
「泣かないよ」

 指輪を撫でながら言う私の頬を及川が両の手で包み込む。あたたかくて、やさしくて、安心する。

 ちゅっと軽く触れた唇に名残惜しさを感じ、唇を尖らせて強請れば降り注ぐ熱。

「またね、徹」
「うん、またね」
「早く迎えにきてね」


あなたが毎日恋しいから──








top


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -