春は走るように過ぎ去ってしまう。麗らかで誰もが愛し、待ち望んでいる春。膨らみかけた桜の蕾を見上げながら、薄桃色のそれが花開く瞬間を指折り数えている。
春はあたたかく、瑞々しく水分を含んでいて、私にとって何かを期待させる季節だった。しかし期待させるばかりで、春嵐が桜を散らしながら吹き抜けていくのと同時に、春は私の上をあっけなく通り過ぎていくのだ。何事もなく。今年も、来年も、再来年も、きっと。

 甘いもの食べたい?と新八が言った。私はそう答えるより他にないので、食べたいと答える。団子屋にでも行こうかと新八が言うので、私は慌てて押し入れへ飛び込み、起きたまま着ていた寝間着を脱いで、赤いチャイナドレスをひっ掴む。同じような色や素材をしているそれらをいちいち広げて選ぶのは手間なので、いつもは一番上に畳まれているものを適当に着ている。けれど、今日の私はどういうわけか、押し入れに飛び込んだときからそのことを決めていた。
「え、神楽ちゃん半袖?さすがにまだ寒いんじゃない」
「大丈夫アル、お構いなく」
 半袖のチャイナドレスはほんの少し去年のにおいがする。私が肩の辺りに鼻をつけて去年のにおいを嗅いでいると、どれどれと新八も同じように袖の辺りに鼻を寄せてくるので、私は、柄にもなく身体を強張らせてしまう。

 結局、団子屋に行こうという誘いは口実に過ぎなかった。玄関を出たところで懐から出したスーパーのチラシを突き付けられて、してやられたと地団駄を踏む。それでもまあ、本当にお団子は食べられるようだったので構わなかった。私たちはスーパーで安売りの卵と油とトイレットペーパーを買い、馴染みの八百屋で野菜を買い、いつものように精肉屋へは寄らずじまいだった。八百屋がある商店街の終わりに近い一角の団子屋でみたらし団子とあんこの乗った草団子を食べて、私たちはまた大荷物を抱えてとぼとぼと歩き出す。いつもそうしているように近道である路地裏へ滑り込もうとすると、新八に腕を掴まれて、思わず卵の入った袋を落としそうになった。
「荷物重いけど、ちょっとだけ遠回りしない?」
 ほら、また、春は私に何かを期待させる。新八の言う通り半袖を着るにはまだ早く、夕風に晒された腕はひやりと冷たい。しかし、掴まれた部分だけが熱をもってどうしようもなかった。

「良かった、まだ咲いてた。今週で見納めだって言ってたからどうかと思ったけど。綺麗だね」
 主張の少ない薄桃色の桜は黄昏時の橙に染まって、本来の色を失っている。見頃を過ぎたそれはところどころ緑の葉を覗かせ、弱々しい夕風にさえ耐え切れず花びらを散らしていた。河原の土手に連なった桜の木々は壮観だ。どこまでも続くような桜のトンネルをゆっくりと潜りながら、私はこの時の終わりを思う。春は私の上をあっけなく通り過ぎていく。立ち止まることも振り返ることもせず、花びらが全て散ってしまうのと同時に、春は。どれだけ待ち望んでいたかなんて、お構いなしに。
「この時間になると全部が夕焼け色で、本当の色がわからなくなるね。普段はどこにいても目立つ神楽ちゃんの髪も、今だけは特別じゃないみたい」

 初恋はたったひとりにしかあげることが出来ない。そして、きっとその相手を選ぶことも出来ない。気付いたら落っことして、跡形もなく粉々。掻き寄せて拾い集めても指の隙間から零れ落ちて、きらきらと、だからこの世のものとは思えないほどに美しく、特別だ。
「夕映えは、あんず色ヨ」
「あんず色か。そういえば僕、あんずって食べたことないや。甘いの?酸っぱいの?」
「どっちもアル。甘いし、酸っぱい」
 ふうん、と新八が興味深そうに相槌を打ったが、これ以上あんずの話をしたくなかったので、ぐんと大きく一歩を踏み出して夕風を切り裂く。新八があんずの味を知ることは、何故だか私にとって不利なことのように感じたからだ。じきに一番星が姿を現し、あんず色と藍色が溶け出し、視覚的にも寒々しくなって来たころ私は三回続けてくしゃみをする。
「ほら、やっぱりまだ半袖は寒いよ。風邪ひく前に帰ろう」
「……お構いなくって言ったのに」
 新八が待っていましたとばかりに買い物バッグの底から私の羽織を引っ張り出して、肩にかける。冬の名残の毛糸がじんわりとあたたかく、泣いてしまいそうだった。

 来年も再来年も、その先もずっと、私は初恋を落っことすことが出来ないまま、大切に抱き寄せて立ち尽くしたまま、何度も何度でも春を待ち、見送って、また春を待つ。どれだけ苦しくても、だって、あなたがいつまでもやさしいから、私は。


2016.4.16
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