夜の鷹。夜鷹。暗い夜道で息を潜め、鋭い牙を光らせて、一瞬で獲物を喰らう。生きるため。死なないため。殺すため。殺されないため。夜の鷹。美しくある必要はない。
「お兄さん、お兄さん、買ってくださいな」
 赤提灯が煌々と揺れる屋台街の外れ、薄汚い路地から白くなよなよとした腕を伸ばして男の袖を掴む。男は酔眼を必死にすぼめて、腕の先にいる女の姿を捉えようとした。随分と弱々しい声だが、ちょいちょいと袖を引く仕草は悪くない。夜鷹を買ったことはないが、一目だけでも姿を見てやろうと男は女の手を掴んで路地から引きずり出した。月明かりの下、砂利に覚束ない足を取られながら現れた女は白く滑らかな肌に見たこともない薄紫色をした髪、愁いげな瞳の下に妖艶な黒子を携えたなんてことはないそれは美しい女であった。
「お前、病気を持っているのか」
「いいえ、持っておりんせん」
「では何故夜鷹をやっている、お前のような美しい女が」
「……背中に大きな火傷がありんす。幼い頃、火事で逃げそびれて、皮膚が爛れているのでありんす。それにこの髪の色、物の怪にでも憑かれているようだと申す者もいんして、遊女になることも出来ず、こうして遊女の真似事を……」
 よよ、と女が口許を袖で覆うと、男は釣られるように角張った鼻を啜った。いくらだい、と男が訪ねると女は袖から控えめに人差し指を立てる。それでお仕舞いだ。すべてお仕舞いだった。
「……あっけない。もう死んだの」
 河原に敷いた蓙の上で男の脱け殻が仰向けに転がっている。女はその上に跨がって、下腹部だけ着衣を乱して、男の恥部を飲み込んでいた。ほんの戯れだ。腰を三振りして舌なめずりをする。死んでしまった男のそれは驚くほどに小さく萎んで、まるで何かの生き物のように女のそこから抜け落ちた。あっけない。女は病気ではないが、女は毒だった。
「まだそんなことをしているんですか」
「覗き?悪趣味ね」
「悪趣味はどっちですか。あんたの実力なら女を売るような真似、わざわざしなくても背後から喉を掻き切るくらい訳ないでしょう」
 女は河原に唾液を吐き捨て、川の水で口をゆすぐ。紅く塗った唇の周りが僅かに爛れていた。男はすぐに毒だと理解する。
「……こうしていないと、初めて殺しをした日のことを忘れてしまうのよ。経験も技術も足りない私は女を使って殺したの。二度と誰かを愛したりしないって決めたのに、優しい誰かが私を赦そうとする。だから、赦される前に私は私を殺すの」
 こんなに汚れた手を誰も握ってはくれない。唇を啄んではくれない。身体を誰も抱いてはくれない。何度だって言い聞かせる。
「ずっとこうして生きてきたのよ。もう今更違う生き方なんか想像も出来ないわ」
 女はまるで夏祭りの金魚だ。そこを出たら生き延びることが出来るのは選ばれたほんの一握りだけ。酸素を求め、口をぱくぱくとさせて喘ぐ。狭い水槽の中、一人だけを選んでほしくて、傷だらけの尾びれを揺らしておよいだ夏祭りの金魚だ。外の世界がどれだけ孤独で苦しいかなんて、知りもしないで飛び出してきた憐れな金魚。
「あなたは副長さんに命じられたりしないの」
「……あの人は、武士の誇りだけは持たせてくれる」
「色の仕事に誇りはないって?」
「俺の場合、人の温もりを思い出したらきっと刀を振るえなくなる。元々孤独じゃないんだ。俺には帰る故郷と家族があったのに捨ててきた。あなたやあの人らとはそもそも覚悟が違うから、少し後ろめたいです」
「……ねぇ、今まで殺した人数言える?言えるわけないわよね、あなただってもうこっちの鬼なんだから。後ろめたいなんて甘いこと言うんじゃないわよ。帰る場所なんてあると思ってるの?」
 ぐ、と男の胸ぐらを引き寄せ、深く口付ける。追い付かれた舌に痺れるような電流が走り、男の意識はうつろう。重心を後ろに引っ張られ、後頭部に鈍痛を感じた時には全てが真っ暗だった。けれど闇ではない。ぼやける視界の端に朧気な月と女の影。
「ほら、死なない」
「あ、はは……これは結構な猛毒で……さすがの俺でもちと……」
 重い瞼が意識を遮る直前、男は祈る。どうか風邪でもひく前に誰か見付けてくれと。そうでなければ二、三日眠ることになるなら先に有給届けを出しておきたかったと。みすみす死んでやるつもりは更々なかった。男もまた一抹の誇りを持った武士なのだ。
 女は振り返らない。男が毒に慣れていることを知っていた。死んだところで特段困らなかった。情などあるはずもない。誰も愛さないと決めたのは自分だった。どうか誰も愛さないでと女は祈る。そしてどうか、永遠などありませんように。

2015/12/1
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