「大人でも片思いってするのね」
 保健室は薬品のにおいに満ちている。鍵のかかった怪しげな薬棚と、消毒液や綿球入れが並んだ金属製のワゴン、やけに重々しい亜麻色のカーテン、綺麗に整理されたデスクと、不自然なほどいつでも清潔なシーツが張られた二つのベッド。その中で、彼女だけがどうしようもなく女だった。
 もう少し取り乱したり、驚いたりするものだと思った。彼女は備品をチェックする手を一瞬だけ止めて、ゆっくりと瞬きを二回する。それからワゴンの引き出しの中身を確認して、バインダーに挟んだ藁半紙に何かを記入した。ペンの持ち方がお手本のように綺麗な女だ。
「……わっちのは、猿飛とは違う」
「それって、先生に全く相手にされてない私とは違うってこと?」
 彼女が息を呑むのがわかった。グラウンドの喧騒に掻き消されてしまったが、口は確かに違う、と動いていた。私は気が付かない振りをする。彼女がひどく傷付いたような顔をしたから、ざまあみろと思った。だって、今傷付いていいのは私だけだ。
 生温い風がカーテンを揺らす度、裾が翻る長い白衣があの人を思わせる。僅かに香る煙草のにおいに私が気付いていないと思っているのだろうか。あの人と彼女の、銘柄の違う二つが混ざり合って、私は醜い嫉妬に飲み込まれる。
「大人はいいわね。子供ってだけで相手にもされない。担任だから突き放されないだけで、私なんか赤の他人だったら話も聞いてもらえないのよ。大人じゃないと、隣にも並べない」
 涙が零れそうで、がらんどうのベッドへ逃げ込む。薄っぺらいカーテンを引いて、彼女を拒絶した。こうすれば彼女は決して踏み込んでは来ないこと、わかっていた。シーツと同じ素材の清潔な枕カバーに涙の染みが出来る。この染みが消えるまではどこへも行けない。彼女がいる狭い保健室の中、カーテン一枚だけで隔てられた脆すぎる私の砦。結局私は彼女にさえ護られていることを思い知る。
「……猿飛。大人だって階段で躓いて転ぶし、怪我したら涙が出る。それが怖くて一段飛ばしが出来なくなって、走るのが下手になって、だんだん身動きが取れなくなるんじゃ。わっちは主が羨ましい」
 何度好きだと伝えても応えてもらえない。若さ故の病だと誤魔化されて、終わらせてももらえない。地面がぐにゃぐにゃで、着地が出来ない。一度走り始めたら、走り続けるしかなかったのだ。名前を呼ばれる度に湧き上がる感情が、いつか笑い話になるような思い出に変わってゆくなんて、とても信じられないのに。
 ボールペンをノックする音と、ボールペンが紙を走る音。遠慮がちに開けられた扉と、甘えた声で転がり込んで来る女子生徒の恋愛相談。さっきまで弱々しかった彼女の声はすっかり教員のそれに戻って、私はいつまでも泣き止まない己の涙腺が恨めしくなる。大人になりたい。私を羨ましいと言った彼女の言葉に嘘偽りがないとしても、私はただ制服を脱ぎ捨てて、あの人のにおいが移るほど側に立ってみたかった。こんな薄汚れた上履きでは戦えない。


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