電車とバスどちらがいい、と尽八が聞く。口許が弛むのを我慢しながら新幹線、と裕介が答えると資金が足りないと真面目に返されてしまった。
夏休みだった。外は茹だるように暑く、鳴り止まない蝉の声は思考力を低下させる。エアコンが苦手な裕介は開け放った窓からの微風でなんとか涼をとりながら、自室でアイスキャンディを食べていた。玉虫色の長髪を一つに括って、晒された白く不健康な項はじっとりと汗ばんでいる。拭っても拭っても流れてくる汗にうんざりしながら、ベッドに放り投げていた携帯電話を手に取った。通知ランプがちかちかと点滅している。誰からだろうと考えるよりまず頭に浮かぶ人物が裕介にはいた。メッセージの主は案の定その男であった。いつもならばしつこいぐらいに電話をかけてくる男だ、メッセージ、それもたった一通きりとは珍しい。あちこちから溶けていくアイスキャンディーの雫を忙しなく舐めとりながらメッセージに目を通し、裕介は転がるように部屋を飛び出した。階段を駆け降り、玄関の扉を開ける。やぁ巻ちゃん、待ちくたびれたぞ。裕介の裸の足に、ソーダ味の雫が垂れた。
「では電車にしよう、駅で何か食べるものを買って、車中で食べようじゃないか。」
前触れもなく裕介の自宅を訪れた尽八は大きめのボストンバッグを抱えていた。裕介は反射的に周りを見渡す。裕介の気持ちを察したのか、先回りするように今日は自転車は持って来ていないのだと尽八は言った。裕介は少しだけ肩を落とす。てっきり自転車の誘いに来たんだと思ったのだ。 しかしそうでないならなんなのだと、裕介は尽八の動向を探った。元より突拍子もない男だ、あくまで常識の範囲を逸脱しない裕介には到底想像もつかない思考回路をしている。
「巻ちゃん、駆け落ちをしないか。」
尽八に振り回されることは嫌いじゃなかった。うんざりすることもあるが、背中を押されることの方が、ずっと多かった。
「クハ!いいショ、荷物まとめてくる。」
裕介は大きめのリュックに思い付くだけの荷物を詰め、冷凍庫からアイスキャンディーを二つくすねて家を出た。アイスキャンディーをくわえて歩きながら、これからの移動手段の話をした。裕介が冗談のつもりで提案した新幹線は尽八に却下され、結局最寄りの駅から電車に乗ることになった。ローカル線の終点まで切符を買って、一番先頭の空いている車両、二人きりのボックス席でこっそり手を繋いだ。これからどこへ行こう、何をしよう、どんな家でどんな暮らしをしよう。カーテンの色や椅子の数、庭に植えたい植物の話、裕介のためのクローゼット、尽八のための和室、二台の自転車が置ける広い玄関。裕介と尽八は時々言い争いながら、二人の明るい未来を語った。誰にも邪魔されない、文句を言われない二人だけの未来を、この時確かに見ていた。
「ここからどうするショ、乗り換えるか?」
「そうだな。だがもうすっかり遅い。少し駅の外を歩かないか?星が綺麗だ。」
終点に着いた頃には夜の八時を回っていた。駅員が一人、ぽつりと立っているだけの駅の改札を抜けて、寂れた商店街を歩く。店は殆んど閉まっていて、人通りも殆んどない。尽八と裕介はどちらからともなく手を繋いで、人の気配を感じるたびにその手を離して、また繋いでを何度も繰り返した。聞いたことのない名前のコンビニで菓子パンを買って、小さな公園のベンチに座って食べる。それから星のことなど何も知らない裕介に尽八がいくつか星座を教えて、裕介はたどたどしく人差し指で星座をなぞった。
「尽八、あの星座はどこからでも見えるショ。」
「さぁ、どうだろうな。」
「イギリスからでも、」
「…俺にはわからんよ、巻ちゃん。」
俯いた尽八の声が震えている。長いこと空を見上げていた裕介もやがて顔を伏せて、首が疲れたと一人言のように呟いた。
「巻ちゃん、俺は旅館の息子なんだ。」
「…知ってるショ。」
「だから、いずれは旅館を継ぐことになってる。」
「それも知ってる。」
何度か遊びに行った尽八の実家、由緒ある旅館、染み付いた温泉の匂い、藍色の羽織り、廊下を歩くスリッパの音。裕介は好きだった。とっくに、失いたくないと思ってしまっていた。
「行こうか、巻ちゃん。」
「ああ、そうだな。」
静かな商店街を戻る。今度は、誰に見られたって手を離したりしなかった。何も言わない。ただ、繋いだ手が汗で滑って、何度も握り直した。
券売機で切符を買って、終電に滑り込む。二人の他に、乗客は誰もいなかった。真っ暗な線路を真っ直ぐに走り抜ける電車はどこか非現実的で、このままどこか知らない場所に辿り着く気さえする。目を閉じて、次に目を開けた時には、
「巻ちゃん、明日坂を登ろう。二人で。」
「でもお前、自転車地元に置いてきたんショ。」
出発地点まで戻ってきた。裕介には見慣れたいつもの駅だ。終電を見送って、駅員が駅舎のシャッターを下ろしている。
「巻ちゃんと会うのに自転車を置いてくるわけがないだろう!ほんとはそこの駐輪場に止めてあるんだ!」
「クハ!いいぜ、絶対に俺が勝つっショ。」
何もかも受け入れるにはまだ幼くて、何もかも捨てるには大人すぎた。大切な日常を捨てることが出来なかった。運命に抗うことをやめて、一日限りのごっこ遊びから目を覚ます。語り合った夢も、繋いだ手も、全て嘘ではなかったけれど。

翌朝、車庫から自転車を転がして来た裕介が真っ青な空に人差し指で星座を描いた。見えなくたってこれで大丈夫だ。曲がり角の手前で尽八が待ちきれないとばかりに手を振っている。裕介は応える代わりにぐんとペダルを踏んで、夏の匂いを割いた。
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