お昼休み直前の4限目は別校舎への移動教室だ。
 教科書にノート、筆記用具を意気揚々と手にもって「今日のごはんどうする?」「食堂いく?」「日替わり定食なんだっけ」なんて友達と会話をしながら、理科教室に到着し席についた私はここで気づく。持ってきたノートが科学ではなく数学だったことに。
 賑わう廊下を駆け抜けて、先生が見えたところで少し早歩き、すれ違ったらまた駆け出す。授業が始まってしまう前に机の中から科学のノートを引っこ抜いて、たった今歩いてきたばかりの道を戻る。ああ、なにをやっているんだろう!
 廊下で談笑する生徒や歩いている生徒にぶつからないように、ぱたぱたと上履きの音を鳴らしながら、たどり着いた教室の扉に手をかけて息を吐く。

「もう、じぶんのばか……!」

 誰もいない教室の中で心の声が漏れる。
 誰もいないはずだった、教室の中で。
 移動教室で全員が移動したはずの教室なのに、私の後ろの席に座る学ランを着た大きな黒い背中が机に突っ伏してすうすうと寝息を立てていた。
 うわあ、マジか。というのが最初の感想だった。
 おそらく、同じ学年で流川楓くんのことを知らない女子はいないだろう。
 湘北高校男子バスケットボール部に所属している彼は、長身かつ涼し気で整った顔をした見目麗しいスポーツマンだ。それこそ、少女漫画の中のお話のように親衛隊までついている人気ぶり。
 そのくせ、授業中はいつも寝ているし、起こされようものなら誰彼構わず、それこそ先生であっても寝ぼけて暴れる始末。ついでにあんまり喋らないし、私にとってはちょっとこわくて、そしてなんだかよくわからない人なのだ。
 そんな私の後ろの席の彼は、移動教室なんて気にせず現在進行中でマイペースに睡眠中である。
 そーっと自分の席にたどり着き、しゃがみこんで机の中からお目当てのノートを引っこ抜く。そしてちらりと後ろの席の彼の様子を盗み見てみた。
 本当にきれいな顔をしていると思う。小さく背中が上下していて、耳を澄ませないと聞こえないぐらいの静かな寝息だけど彼がしっかりと呼吸をしていることがわかる。寝ているときはこわくないし、本当にただの美少年ってかんじなんだけどなあ。
 こんな近くで彼の顔をまじまじと見たのはたぶん、初めてだ。私はよいしょ、と見つけ出したノートを手にもって立ち上がり、つま先を教室の出口に向けた。
 のだけど、やっぱりちょっと気になる。というか、彼をこのままにしていていいのだろうか。あんまり厄介なことになるのはいやだけど、それでも見て見ぬふりをするのもなんだか心が重たくなる。
 移動教室だよって声をかけるだけかけてみよう。
 もし機嫌がわるそうならそのまますぐに逃げちゃえばいいんだから。

「あのう……」

 腰をかがめて眠る彼に声をかける。
 相変わらず規則正しいリズムで背中を上下させる流川くんはまったく起きる様子がない。そりゃそうだよね、と思いながら小さくため息をついて、私はよし!と気合を入れた。周りにも廊下にも流川親衛隊の気配はない。いける、やるんだ私。
 右手をすっと彼の肩へと置き、軽めにトントンと2回たたく。

「流川くん、次理科室だよ、移動教室だから」

 起きたほうがいいんじゃないかなあ、と言い終わる前に、閉じていた流川くんの目がゆっくりと開く。形のいい眉毛が若干眉間に寄ったのを見て、私は一瞬身構えて一歩彼から離れる。俺の眠りを妨げる者は何人たりともなんとやらされるわけにはいかないからだ。
 うすぼんやりと目を開けた流川くんは私の姿をみとめると「前の席の……人」と小さな声で言った。
 そうですよね。私の名前なんてしるわけないですよね。

「移動教室だから行ったほうがいいと思う、理科室だよ」

 机につっぷして眠っていたせいか顔の半分が赤くなっているし、前髪に少しクセがついてしまっている。
 それじゃあ、と離れようとしたときに、流川君は「くしゅん」と小さくこどもみたいなくしゃみをした。ずず、と鼻をすすりながらぶるりと身震いする彼。

「……さむい」

 鼻をすする流川くんに、私は「ああもう」とポケットから取り出した袋のティッシュを丸ごと渡す。
 ドモ、とか言いながらそれを受け取った流川くんはぎゅっと目をつぶりながらちーんと鼻をかんでいる。ほんとうに小さい子みたいだ。こんなに大きいからだなのに。

「…………」
「ええと、じゃあ私先行くね」

 それあげるから使って、と言い終わる前に、今度こそ教室の出口の方へ向かおうとした私の手首を流川くんが掴んだ。
 は?え?なんで?なんでどうして?
 私は自分の掴まれている左手と、流川くんの今一体どういう感情なのか全くわからない整った顔とを交互に何度も見る。彼がどうして私の手首をつかんでいるのか皆目見当がつかない。でももしかして、というかやっぱり安眠を妨げてしまったからだろうか。
 相も変わらず私の手首をつかんだままで、すっと立ち上がった流川くんを目の前にした私は思わず「うっ」とうめく。
 ああ、これもすべて私がノートを間違えたせいなのです、そして自分の良心にしたがって彼を起こしてあげようだなんておせっかいをやいてしまったせいなのです。反省します、もうやらないでいいことはしません。そしてうっかりも改めます。
 いつ頭突きが降ってくるのかと覚悟をしながらぎゅっと目をつむっていたら、突然そのままぐい、と手を引かれた。と同時に4限目が始まる鐘がなってしまう。ああ、もうなんなんだこれ。踏んだり蹴ったりで涙が出そうになる。
 教室の外に出て、私の手をひっつかんだまま理科室とは真逆にずんずんと歩いていく流川くん。そっちは理科室じゃないよと言いたくても、何となく言葉を発するのも憚られる。
 授業が始まっているほかの教室を通り過ぎながら、歩幅の広い流川くんに引きずられている私はもはや駆け足だ。一切こちらには目もくれず、こちらの歩調に合わせることもしない流川くん。彼はどうして私の手を引いているのだろうか。
 そこでハッと気づく。もしかして私が思っている以上に腹を立てているのかもしれない。だから教室じゃない、もっとちがう広い場所とかでシメたろうと思っているんじゃなかろうか。
 もうたすけてください!と心の中で神様にお祈りをする。こんな時ばかり神様にお願いするなんてムシがいいってわかってます、でもどうか!どうか!
 屋上へ続く階段をのぼる流川くんと、半泣きでノートを小脇に抱えながらヒィヒィゼェハァいっている私。間違いなく今日は厄日だ。

「そこ座って」

 ようやく私の手首を離してくれた流川くんは、屋上へ続く最後の階段の所で歩みを止めた。そしてその踊り場を指さして私の方を向く。
 いったいどういうことだ?座ってとは?
 わけもわからず、それでも私は言われるがままに「は、はい」と小さな声で言いながら階段に腰掛ける。どういう状況なんだろう、これ。うんうんと無表情のまま頷いた流川くんが私の横に座ったかと思うと、そのまま自分の頭を私の腿に乗せてきた。

「……は?」
「お借りしマス」
 
 いや、いやいや。いやいやいやいや。
 とりあえずちょっと待ってほしい。そして落ち着こう。
 学年イチの色男、ただし何を考えているかわからないしちょっと怖いし万年寝太郎だけど、それでもおそらく学年でいちばんおモテになられているであろう男子生徒が、今私の膝まくらで落ち着いてしまっている。そんな展開を誰が予想しただろうか。少なくとも私は全く、これっぽっちも、1ミリぽっちだって予想できているわけがなかった。

「前の席の人、やわい」

 あとぬくい、と言いながらこっちの気持ちを置いてきぼりに、大きなあくびをしながら目を閉じる流川くん。
 私はというと、この状況と目まぐるしい展開の変わりように頭も体も追いつかない。授業中で静まり返った空気の中で私の心の中だけが大騒ぎしている。それでも、私の膝の上で一瞬にして眠りに落ちたらしい彼の頭の重みがこれは現実なのだと教えてくれる。こんな姿を親衛隊の子たちに見られたら、ほぼ間違いなくひどい目にあわされるだろう。
 はあ、とひとつため息をつく。柔らかく閉じられた流川くんの目の周りを縁取る長いまつげ、薄い唇に白い肌。ついでにケアなんかなんにもしてなさそうなのにキメの細かい肌に嫉妬しそうになる。彼が女の子だったならば眠り姫そのものだろう。
 流川くん、いつも寝てばっかりなくせに私のことを前の席の人だっていう認識はあったんだな。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、子どもみたいな高校生男子の無防備な姿にちょっとだけ毒気を抜かれてしまった。

「流川くん、私の名前は、苗字名前といいます」

 前の席の人でも間違ってはいないんだけど、よかったら名前も覚えてね。
 そう、すうすう眠る彼にむかって呟いてみる。
 自然と彼の髪に触れてみたら、つやつやな黒髪は柔らかくてびっくりした。イケメンの遺伝子は髪にも宿っているらしい。
 もしかしたら、流川くんはバスケットボールをやることに加えて、この美貌を維持するためにたくさんの体力を使わないといけない呪いにかかっているのかもしれない。だからこんなに眠たいんだ、たぶん。
 半ばもうどうにでもなれ!という気持ちで、おそらくもう2度とないであろうこの機会を逃さないように彼の頭撫でながら、友達に授業サボっちゃったことをなんて言い訳しようかなあと考える。
 お昼休みが始まる前にまたこの眠り姫、もとい眠れる王子さまを起こしてあげないといけないことに気づいた私は少し痛む頭を抱えた。
 それでもちょっと楽しい気持ちがあることに今はまだ、気づいていないふりをすることにしよう。

--- スイートスリープセンセーション
(20180914)



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