仕事は最悪だった。新しく立ち上げるプロジェクトのアイデア、これでいけるぞ!なんて思ってたら他のチームに競り負けるし、それなのに軽い気持ちで「まあ次がある」とか無責任に肩を叩いてくる上司。私がこの日にどれだけ時間を捧げてきたか。飲み会も遠慮して、残業もして、家でだって仕事した。もういっそそんな言葉を掛けないでほっといてもらえるのがいちばん有難いです、と言い返せたらどんなに楽だっただろう。 イライラした気持ちを持ったまま、それでも今日は金曜日だし彼氏とお酒飲む予定があるし!と自分で自分を盛り上げながら息巻いてたら、突き付けられた言葉が「オレたち、もうそろそろ終わりにしようか」だなんて、いったいこの世の誰が予想しただろうか! はあ、と吐きだすため息は何度目だろう。もうよくわからない。呼吸をしているというよりも、ただ大きく息を吐きだしているだけのような気がしてくる。 なんでとか、どうしてとか、何か私が悪いことしたのかとか、そんな言葉をかけるのも癪だった。引き留めるなんて悔しいマネはしなくなかったし、惨めな気持ちになるのだってこれ以上ないってぐらい勘弁してほしかった。 だから私は「うん、そうだね。私も思ってた」なんてまったく思ってもいなかった言葉を口に出していた。おかしいな、なんで私こんな言葉を震えもせずに言えるんだろう。爽やかに笑っていられるんだろう。 先に席を立つ『元』彼氏の背中を眺めながらわかったことは、間違いなく今日がいままでの人生でいちばん最低で最悪で不幸な日ということだ。こんなに一気にダメージ与えてこなくたっていいじゃないか。 おかれたグラスを飲み干してバーを出て、ふらふらと歩く。家に帰る気にはとてもとてもなれなくて、でもだからといって誰かに連絡して事のあらましを言葉にして説明するのはさすがに心が折れそうだ。どこかで飲みなおそう、と思って適当な店に入る。 それを何件繰り返しただろう。それでも何故だか全然酔えなくて、ふと時計を見ると既に深夜の4時を回っていた。ひとりで飲み歩いてオールしちゃうなんて、と思わず自嘲した笑いが零れる。 それから、無意識に歩き始めてたどり着いたのは夜の海。春先の海は穏やかで、静かな波の音と背後にある道路を走る車の音が交わっている。 気づけば夜も明けそうな早朝の5時。海岸線からまばゆい光をのぞかせる朝日に、私は思わず「わあ」と声を上げていた。 その場でパンプスを脱いで、ストッキングを投げ捨てて、カバンもジャケットも置いて駆け出す。足先を波が掬っていく。ひんやりとした感覚にぶるっと身震いをして、朝の清々しい空気と塩の香りが鼻腔を突く。 そこで、やっと自分が泣いていることに気付いた。声は出ないのに、喉がしゃくりあげるのを止められないし、目からとめどなく涙がこぼれてくるし、鼻水だって出てくる。裸足で、化粧もそっくりはげた20代後半の女が海に向かって泣いている。こんなシーン、きっとサスペンスドラマであったに違いない。 ひとりでありったけ泣いてから、私は自分が投げだした荷物のあるあたりまで戻って、そこにしゃがみこんだ。足がじんじんと痛む。かなり歩いたからだろう。 座り込んだら、今まで全くなかった眠気が急に襲ってきて、私は自分の膝を抱えてそこに顔を埋めた。人は傷心すると海に来ちゃうのはどうしてだろう。まさか自分がそんな行動を起こすなんて。 おしりにすっかり根が生えてしまったみたいでもう立ち上がれない。重くなる瞼にあらがわず「少しだけ、少しだけだから」と自分に言い聞かせながらゆっくりと目を閉じた。 * 「こんなところで女性が寝ていると危ないですよ」 そんな声が頭上から降ってきて、とんとんと控えめに肩を叩かれる。私は眉間に皺を寄せながら霞む目を手の甲で擦る。うわ、アイライン擦っちゃった、最悪。 私は自分の手の甲を恨みがましく眺めながら、その声の主の方を見上げてみる。ガタイのいい、色黒の男性だった。横に置かれたサーフボードから、彼がサーフィンをたしなむサーファーであることがわかる。 「いいんです、もうどうにでもなれってかんじなの」 「酔っぱらってるな……」 低いトーンの落ち着いた声。私を支えてくれている名前も知らない彼の体はとてもガッシリとしている。何故だかそれが弱った心と体にじんわりと響いてきて、私はまたじわりとまぶたの裏が熱くなるのを感じた。 なんでこんなことになっちゃったんだろう。朝のニュース番組の占い、1位だったのにな。もうあの番組の占いなんて信じない。っていうか次からはチャンネルを変えてやる。 「どうしたんですか、こんなところで」 彼は諦めたかのように私の隣に座る。そして「言いたくないなら聞きませんけど、話すと楽になることもあるでしょうし」と続ける。 こんなボロボロのめんどくさそうな女、見て見ぬふりしていればいいのに。知らんぷりして目的の波乗りをしたらいいのに。そうじゃなきゃ、そんな風に気を遣われたりしたら今の私は簡単に号泣してしまうのだ。 「……つらいことがたくさんあったので、お兄さんが私のこと慰めてください」 ぜんぶぜんぶ忘れちゃうぐらいな感じでお願いします、と半ば投げやりに発した言葉。 彼は一瞬その目を丸く見開いて、きょとんとした様子で私をじっと見つめてくる。私より少し年上ぐらいに見える彼が、少しだけ見せたかわいらしい表情。うっかりそれに癒されている自分がいて、なんて現金なんだろうと呆れそうになる。きっといまは極端に人のやさしさに弱くなってしまっているせいだろう。 「あーええと……わかりました、それじゃあ失礼して」 ゴホン、と彼はひとつ咳払いをした。 なんだかもう、ぜんぶぜんぶぜーんぶ投げ出して頭空っぽにしちゃいたい気分なのだ。だから、もうどうにでもなれ!という気持ちだった。サーファーって女の人に慣れてるイメージあるし、きっと一瞬だけでも痛みを忘れさせてくれる。お兄さん、ごめんね。 私の肩に彼の大きな手が触れて、その端整な顔がゆっくりとこちらに近づいてくる。薄く目を細めた視界の中、もう流れに身を任しちゃえ、って思いながら目を閉じる。 だけど、そんな私の頭の上にクエスチョンマークが浮かんだのは、彼の手が頭の上にぽん、と置かれ、優しく私の頭を撫で始めたからだ。 「どうだろう、こんなかんじか?」 きっと私は間違えなく怪訝そうな表情をしていただろう。小さく首を傾げた彼は、相も変わらず私の頭をなでながら「人間は他人に頭を撫でられると心が落ち着くと何かで読んだんだ」と言った。 「大人になればなるほど人に褒められることも、撫でられることも減るそうだ。そうだ、まだ名前を聞いていませんでしたね」 私はそんな調子で私の頭を優しくなで続ける彼に促されるまま「苗字名前です」と自分の名前を名乗っていた。 「そうか、苗字さんは頑張ってるぞ。大丈夫だ、今抱えてる嫌なことなんて人生の一瞬程度なんだから」 ええと……? と声が漏れそうになる直前に気づいた、彼の意図が私の思惑と違うことに。私の考える慰めてと、彼の考えた慰めるは全く違ったのだ。 「……? どうかしましたか?」 彼の顔を見上げて思った。精悍で、真面目そうで、ちょっと遊んでるように見えたのに、こうして会話をしてみたら全然違う。純粋で、真っ直ぐで、こんなにムキムキで威圧感たっぷりなのに。 不思議とこみ上げてくる笑いを今度は堪えることができなかった。 「ぶっ、ふふふ……! なでなでって……!」 「なんだどうした、違ったか? だって慰めろというから」 「ふふふ、い、いいのおもしろかったから…」 「こうする意外に何が……? あ!?」 そこでようやくたどり着いたのか、彼は急に私の頭を撫でることを止めるとその手のひらで自分の口元を隠した。形のいい眉がつり上がって、浅黒い肌がかすかに紅潮している。 「自分をもっと大切にしろ!」 「お兄さんすごくおもしろい」 「な……!? 別におもしろくないだろ!」 彼は眉間に皺を寄せて、手のひらを額に当てている。こんな見てくれなのに、なんだものすごく真面目なんだ。っていうかかなり天然なのかもしれない。 「それで、もう大丈夫か?」 「ええごめんなさい。お休みの土曜日しょっぱなからこんな女の面倒みてもらっちゃって、お仕事お疲れでしょうに」 「いや、ええと……その、これでも一応まだ大学生なんだ」 え!? と思わず小さく悲鳴のような声をあげてしまっていた。そんな貫禄あるのに、という言葉が口から飛び出してきそうになるのだけは阻止したけれど「学生……」と繰り返すようにつぶやくことは止められなかった。 「まあ、よく言われる」 「ええと、ごめんなさい……その、迷惑な上に失礼な女で」 老け顔の人はある時を境に年を取らなくなるらしいから大丈夫ですよ、なんて気休めにもならない言葉を吐く私の言葉に、彼は眉尻を下げて小さく笑いながら「そうだといいな」と穏やかに言った。その笑顔がかわいらしくてついついつられてこちらもにへらと笑ってしまう。 それにしても大学生とは。ということは5、6歳は年下と言うことだ。 なんということだろう、こんな年下にべそべそ泣きはらした不細工な顔を見られた上に誘惑しかけたりなんかして、ああなんて恥ずかしい女なんだ私ってやつは! 今度は私が恥ずかしさのあまり頭を抱える番だった。ああもう!なんてことなの!と脳内で暴れまわりながら、それでも気づいたらいつの間にか重たい気分がだいぶましになっていることに気付く。違う方向に意識が向いたからだろうか。 そうしたら、急に喉の奥からあくびが漏れた。飲んで、歩いて、泣いて、ひとりで波うち際で遊んで、そりゃ体も疲れているに決まっている。さすがに限界が近いようで、やっと自分の中に「家に帰って寝たい」という気持ちが生まれていることに気付く。 「……ごめんね、そろそろ帰れそう」 「そうか、それなら良かった。気を付けて」 立ち上がってスカートの砂をはらう私に続けて、彼も立ち上がってサーフボードを脇に抱える。まじまじと眺めると逆三角形の背中があまりにもたくましくて、眩しいと感じたのはきっと朝日のせいだけじゃないだろう。 歩き始めて砂浜から道路へと上がる階段をのぼる。 「ねえ、ここに来たらまた会える!?」 振り返って、そう言葉を投げてみた。 背を向けて海岸に向かい歩いていた彼がこちらを振り向いて「ああ!」と声を張り上げる。海岸線から上がってくる朝日の逆光で彼の表情は見えなかったけれど、きっと笑顔だったと思う。そう感じた。 そういえば、私は彼の名前さえも知らない。ただガタイが良くて、色黒で顔が濃い目で老け顔で年下で、そして優しくて見た目のわりに天然な男の子だってことを知っているのに名前だけは知らないのだ。 今度会えることがあったなら、ちゃんとお化粧も崩れてない私で会えますように。そして、ちゃんと名前を教えてもらわなきゃ。 土曜日の早朝、重たい気持ちをそっくり涙で流し終えた私のまぶたは腫れているけれど、いつの間にか心は軽くなっていた。 --- 今日も世界は明けてゆく |