▽ 2023年三井誕、おめでとう!
※ 高校教師の三井先生。

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 仕事から帰宅して、ダイニングテーブルで一緒に夕飯をつついていると、向き合って座っている嫁である名前が「ねえねえ、寿くん来週誕生日でしょ? 何かたべたいものとかある?」と身を乗り出し、軽めに首を傾げながらオレを覗き込むように問うてきた。
 おい、なんだその動きは。めちゃくちゃかわいいじゃねえか、わざとやってんのか? 煽ってんなら乗りますけど? ……という感想はさておき。

「食いてえもんか……。オレは名前が作るもんならなんでも好きだからな……」
「えへへ、ありがと! でもほら、寿くんの誕生日って今年は平日で月曜日でしょ? だからどっかでご飯するのとか出かけるのも難しいし」

 せめて好きなものでも作ろうかなって思ったんだけど、と続けた名前は「あ! もちろんプレゼントとは別口だからね」と人差し指を立てながらキリッとした表情で言う。
 食いもん、と言われて咄嗟に思いつかなかったのは、名前の作る料理は何が出てきても美味くて、オレが胃袋をガッチリ掴まれてしまっているからである。
 それじゃあ、例えばここで奇を衒って「おまえ」とでも言ったら、一体名前はどんなリアクションをするのだろう。

「……んじゃ、おまえにするわ」

 そんなことを頭の中にぽん、と浮かべていたオレは、ほとんど脳から直接その言葉を吐き出していた。

「へ……? 私?」
「おう」

 キョトンとした表情で硬直し、箸を持ったままただただ瞬きを繰り返す彼女に「名前の作るメシはなんでもうめーから普段通りでいい。ただ、なんかしてくれるっつーならオレの男のロマン、ってやつを叶えてくれねえか?」と伝えてみる。しかし、彼女は言っている意味がわからない、と言いたげな表情で眉を顰め、今度は訝しげに首を傾げている。
 何を隠そう、オレには憧れているシチュエーションというものがある。
 朝、目が覚めると先に起きていた彼女がキッチンに立っている。それだけでは何の変哲もない普段通りの朝だが、そんな彼女の格好は身の丈に合っていないオーバーサイズを通り越したオレのTシャツ。加えて、下着以外を身につけず、ボトムスを履かずにむき出しの足を晒している。そんな際どい格好で、オレが起きてきたことに気づいた彼女は「寿くんおはよ! 朝ごはん出来てるよ」と振り返りながら屈託なくニッコリ微笑んでくれるのだ。
 そんな朝を付き合い始めの頃から想像、もとい妄想し、いつかあるかもしれないとほんのり期待をしていた。しかし名前はというと、同棲と結婚を経ても未だに隠れて着替えしているレベルである。
 以前、たまたまを装ってスケベ心たっぷりの軽い気持ちで脱衣所を覗いたことがあった。しかし、普段はおっとりしていて温厚な名前が珍しく「お風呂と着替えは覗かれたくない!」と声を荒らげた。彼女はその後しばらく不機嫌なままで、その機嫌を戻してもらうまでは中々に時間を要してしまった。
 そんなわけで、いつまでたってもそのような朝が訪れることはなく。

「……っていうのに憧れを抱いているわけだ、オレは」

 そこまで説明をすると、ようやく名前は自分に求められているものがなんなのかを理解したらしい。先ほどまではうっすら滲んでいるだけだった訝しげな表情はもうすっかり色濃くなっており、じっとオレを見つめながら小刻みに首を振っている。
 が、それには一切気づいていないフリを決め込むことにして、気にせず話を推し進めていく。

「だからよ、前日の夜はオレのTシャツ着て寝てくれ。あ、パンツは履いてていいけど下は履くなよ?」
「私なにか罰ゲーム課されるようなことした……?」
「いや、ちげーよ。言ったろ? オレは今、男のロマンの話をしてんだ」

 名前と出会ってからこれまで、さすがにここまで冷ややかな「なーにを言ってんだこの男は」という視線を向けられたことは無かった気がする。いや、間違いなく無い。

「……ごめん、それはやだ」

 予想通りの反応だった。しかし、ここで引くわけにはいかない。なぜならば、このチャンスはもう巡ってこないかもしれないからだ。バスケでもなんでも「今だ!」というタイミングで、数少ないチャンスを決められた者こそ勝者となり得るのである。

「でもよ、オレの誕生日なんだぜ?」

 このワードは、謂わばこの場に於けるジョーカーカードに間違いなかった。
 それを聞いた名前は「そうだった」とでも言いたげに視線を逡巡させ、持っていた箸を置く。口元に手を当てて、何やら思案しているその様子を眺めながら思う。そう、オレは知っている。彼女が真面目で律儀で、そしていっそ不安になるほど押しに弱いことを。
 その顔ごと下げていた視線をゆっくりとこちらに向けた名前が「寿くん、すんごいガチじゃん……」と静かな声で言う。それを聞いてから間髪を容れずに「すんごいガチだわ、男のロマンをナメんなよ」と返球すれば、それまで顰めっ面だった彼女も遂に堪えきれなくなったようで、呆れを交えつつも微かに笑みをこぼしてくれたような気がした。


***


「寿くん、そろそろ起きないと遅刻しちゃうよ」

 軽く肩を揺すられ、そんな声を掛けられながら、ベッドの下の方に沈みこんでいた意識が徐々に戻ってくるのを感じる。
 身も心も覚醒してしまえば、始まってしまうのは月曜日。一週間が始まるその日は、なんでこうも体が重くて目を醒ますのを憂鬱に感じるのだろう。
 脳内ではほとんど無意識のうちに月曜の時間割を確認しているが、まだ目を開きたくないと抵抗する体に意識の方は競り負けている。

「……もう、起きないとちゅーしちゃうぞ」

 そんな時、聞こえてきたのは拗ねたような名前の小さな声。なんだそれ、つまり起きなきゃちゅーしてもらえるってことか? じゃあこのまま寝たフリ続行に決まってんだろ。
 まぶたがヒクつかないように堪えていたオレは「おはようのちゅー」を期待するあまり、いつの間にか自分の唇を突き出してしまっていたらしい。
 真上から掛けられた「あー! ちゅーの口になってる! やっぱり起きてるじゃん」という言葉にムッとしながら、これ以上寝たフリをしているわけにもいかなくなってゆっくりと目を開く。すると、上からこちらを覗き込み、柔らかく苦笑している名前の顔が視界に入ってきた。

「……ちゅーしてくれんじゃねーのかよ」
「寝たフリしてた人にはしませんよーだ」
「んだとコラ、さっさとちゅーしろい。こんなん起き損じゃねえか」

 起き損てなに、と言葉を発した名前の後頭部に手を回し、その小さな頭をガッと掴んで些か強引に引き寄せる。その後に続く予定だったであろう言葉を塞ぐようにキスを施すと、彼女は目をぱちくりさせながら「んむぅ、ちょ……!」と酸素を求めて小さく呻く。
 オレの胸に当てられた手のひらに力が篭るのを感じたが、そんなかわいらしいものは抵抗のうちに入らない。ほとんど自分の欲望のままにぱくついて、その唇を堪能していたら、いつの間にか名前の体からはすっかり力が抜けきってしまっていることに気づく。
 やべ、起きがけ早々にやりすぎちまった。

「……はー、ごっそさん。おはようのちゅー、確かに目ェ醒めるな。……っておまえそれ」

 頬を紅潮させ、酸欠のせいかうっすらとその瞳を潤ませながら眉を顰めている名前は、そりゃあもう色っぽくてたまらなかった。しかし、それよりも、だ。
 肩で息をしながら何か言いたげにじっとこちらを睨みつけている彼女の姿。オレが寝巻きにしている何の変哲もないTシャツを纏い、あらわになったむき出しのふとももは少しばかりすったもんだした影響か、脚の付け根が見えそうなほど際どい感じになっている。
 これってつまり、そういうことだよな?
 自分でリクエストをしておきながら、混乱と興奮で頭がくらくらした。ほとんど無意識のままそっと手を伸ばし、ぶかぶかすぎるTシャツの裾を捲る。すると、ハッとした様子で「あ、ちょっと……!」と慌てたように声を漏らした名前がその行動を咎めるようにオレの手を引っ掴んだ。

「おいおいおいおい、パンツじゃねえか!」
「めくらないでってば……!」
「バカヤロウ! これがめくらずにいられるか!」

 オレの勢いに圧されたのか、ハッとしてから唇に指を当てて「それはそうかも……」なんて言っている名前のチョロさには不安を通り越して呆れてしまう。
 まあでも、そんなことはもうこの際どうでもいい。このチョロさをオレにだけ発揮してくれるなら許す。存分に許す。つーか寧ろ大歓迎だ。嫁よ、オレ限定で生涯チョロくあってくれ。

「これはその、寿くんがお誕生日はこうしてほしいって言ってたからで、だからええとつまり……とにかくお誕生日おめでとう!」

 昨晩、一緒にベッドに入った名前は普段通り自分の寝巻きを着ていた筈だ。オレが伝えた男のロマンは彼女にとって絶対に出来ないラインの注文だったのだな、と無理やり己を納得させ、何も言わずに眠りについた。何故ならば、本気で嫌がっているのに無理強いをさせたくはなかったからだ。
 しかし、押しに弱くてチョロすぎるオレの奥さんは「しない」「できない」「やりたくない」と言いつつも、それをちゃんと叶えてくれたわけで。
 オレより早く起きてバレないようにベッドを抜け出し、いそいそと準備をしたのだろうか。そんな想像をしたら、愛おしさが弾けて口元が勝手にゆるゆると緩んでしまった。

「……なあ、オレ今日仕事休んでいいか?」
「なにいってんの、お仕事はちゃんと行ってください」

 そう言ってペシン、と軽くオレの肩を叩いた名前は「ね? 三井先生」と照れたような笑みを浮かべてから「よいしょ」とベッドを降りようとする。
 おい、流石に流せねえぞ! 何だ今のは!?
 ちょっと待て、と咄嗟にその腕を掴むと、グイッと腕を引かれたせいで体制を崩し掛けた名前が「もー、まだ何か?」と口をへの字にしながら振り向いた。

「今の、めっちゃくちゃグッときた」
「え? 今の?」
「名前に三井センセーって呼ばれんの、スッゲーいい。……よし、今晩はオレのことそう呼んでくれ」

 その場に流れた無言の時間はおそらく、たった数秒だったに違いない。しかし、むぅ……と結ばれていた名前の口がぽかんと開いて、それがわなわなと震えだすまで、そこそこの時間がかかったような気がする。

「今晩……? こ、今晩!?」
「はは、顔赤くなりすぎだろ。大丈夫か?」

 ほんの少しの時間でその顔を真っ赤にした名前は「大丈夫なわけがない」とでも言いたげに高速且つ小刻みに首を振っている。

「寿くんのせいでしょ! 朝からなに言って……!」
「朝から予告してたほうがいいだろーが。あ、会社でエロい妄想すんじゃねーぞ?」
「し、しないよバカ! ヘンタイ教師!」

 そのヘンタイ教師の嫁になったのはどこのどいつだっけかな、と冗談めかして言うと、名前は羞恥と怒りの入れ混じった表情で「もう離してー!」と掴まれたままの腕をぶん回している。
 そんなことを言ったものの、オレの方こそ楽しみな夜を想像して職場である高校でうっかりニヤけないようにしなくてはいけないのだ。しかし、その難易度の高さは深く考えずとも容易に測れるもので、想像したら眉間にシワが寄るのがわかった。
 憧れていたシチュエーションから始まった最高の誕生日。いつもより遅くなってしまった起床時刻からはそっと目を逸らしながら、オレはようやくベッドから抜け出すことに成功した。


***


 朝のサプライズで大幅な、しかしとんでもなく幸せなタイムロスをしてしまったが、なんとか朝練に顔を出し、何事もなかったかのように職員室の扉を開ける。同僚の教諭らに「おはようございます」と挨拶をしながら自席に着き、ふう、とひとつ息を吐き出した。
 いや、やっぱりニヤつかねーとか普通に無理だわ。
 机の上に両肘をつき、両手で顔を覆う。今朝の出来事と名前のリアクションを思い出しながら、意図せず上がってしまっていた口角を元に戻すのはなかなかに難易度の高いことで。
 今日は帰ったら名前がオレを待っていてくれて、アイツのことだから普段なら「何言ってんの!?」って拒否されるであろう無理な要求を伝えたとしても「……今日だけ特別だからね」とかなんとか言いながら了承してくれる気がする。だって、自分で言うのもなんだが名前はオレにとんでもなく弱いのだ。まあ、それはこちらも負けず劣らず然り、という感じなのだが。
 思春期かよ、と呆れるほど煩悩まみれになりかけていた熱っぽい脳内の換気をすべく、ふるふると首を振ってなんとかその事を頭から離そうと試みる。
 そうだ、オレは三井寿。教員生活四年目、2年B組の担任にしてバスケ部顧問。切り替えろ、切り替えろ切り替えろ切り替えろ!

「三井先生?」
「どわっ!? へ!? な、なんスか!?」

 そう声をかけてきたのは、同学年に担任クラスを持つベテラン女教諭だ。ほとんど母親と変わらない年齢のその人は、オレが新任の時に副担任をしたクラスの担任だった。
 対面の席についているその人は、心配そうに眉を寄せながらこちらを覗き込んでいる。

「頭抱えてたけど、体調でも悪い?」
「いや、違うんス! すげー元気です!」

 寧ろハチャメチャに元気すぎて困ってます、といらんことを口走りそうになり、咄嗟に「すんません」と付け足して事なきを得る。取り繕うようににへらとぎこちなく笑んでみせると、その人はこくんと頷いた。

「ならいいけど、季節の変わり目だから気をつけてね」
「ありがとうございます」

 三井先生、顧問もやってるし疲れるわよねえ、と気遣いの言葉を下げてくれたその人に「いえ、バスケは好きで関わってることなんで」と嘘偽りない気持ちを伝える。
 心頭滅却、煩悩退散。ふう、と息を吐き出して目の前に置いてある学級日誌に目をやる。
 そんなやりとりの直後に始まったのは、毎朝恒例である軽めの職員会議。もとい朝礼である。五月の中盤、行事なども特にないこの時期は「中間試験も近いのでうんたらかんたら」という教務主任の口から発された当たり障りのない連絡事項のみで済んでしまった。
 教務主任の声で、雑念に占拠されていた脳内が少しだけ冷静になっていく。興奮した時に萎えるもの思い浮かべたりすんの、効くってホントなんだな。これからは、同じような状況に陥ったら教務主任の顔を思い浮かべるようにしよう。
 ……って、まず根本的にそんなことで頭ン中パンパンになるぐらい占拠されないようにしろっつー話なのだが。
 では今日もよろしくお願いします、というテンプレート通りの締めの言葉に「お願いします」と軽く頭を下げ、机の上に乗っていた学級日誌を小脇に抱えて廊下に出る。
 階段を登りながら、すれ違った生徒に掛けられた「三井せんせー、おはよー!」という声に「おう、おはよう。急がねーとホームルーム遅れんぞ」と返事をしつつ、担任をしている2年B組の教室を目指す。
 目的の教室に到着し、引き戸に手を掛けるという行動は毎日繰り返しているせいか「扉を開ける」と意識せずとも体が勝手に動くようになっている。

「朝のホームルーム始めんぞー! 席着けー! ……ってなんだ、どうしたおめーら」

 勢いよく引き戸を開け、これまたいつも通りのセリフを発したオレは、普段と明らかに違う教室の雰囲気に戸惑いを覚えていた。
 いつもならば、オレの姿を認めてから「ミチセン来ちゃったよ」とか言いつつダラダラと席に着いていく生徒らが、今日だけはなぜか既にもう席に着き、じっとこちらを見据えていたからだ。

「……せーのっ!」

 どこからか聞こえてきた女子生徒の声。そのあとに続いたのは、膨らんで弾けたような大音量の「ミッチー先生、お誕生日おめでとー!」という生徒たちの声だった。
 その勢いに圧倒され、更に驚きすぎてその場で硬直してしまっていたオレは「は……?」と漏らしながらまばたきを繰り返すばかり。視界に入っている教室内の生徒たちの顔を確認すると、誰も彼もがニヤニヤと楽しそうな笑みをその顔に浮かべていることに気づく。
 黒板も見て、とオレの背後を指さしている生徒に促されるまま振り向くと、そこには「ハッピーバースデー、ミッチー」の文字が描かれ、イラストやメッセージなんかで彩られていた。
 開いた口が塞がらないとはまさしく今のオレの状態ことである。驚かされて、呆気にとられて、しかしその後で少しだけ遅れてきた感情はもちろん嬉しいというポジティブなものに違いなくて。うっかり目の奥がツーンとしてしまったのを堪えながら「だァからよぉ……」と吐き出して、行き場のなくなった右手を後頭部にやる。

「ミッチーじゃなくて三井先生だっていつも……言ってっけど、まあその、ありがとな」

 照れくさくなってモゴモゴ言ってしまったが、もう既に言葉として発してしまったあと。後悔したって最早あとの祭りである。

「本当はクラッカー鳴らしたかったんだけど、怒られちゃうからさ」

 ピースサインを掲げながらそう言った女子生徒の周りで何人かがうんうんと頷いている。

「てことで男子バスケ部! 今日はミチセンのこと居残り練に付き合わせないでさっさと家に帰してあげてね!」
「ウッス!」

 担任クラスに在籍している男子バスケ部の面々が声を揃えて返事をする。

「ミチセンも居残らないでおうちに帰ること!」
「あ? オレぁ小学生かよ」

 突然話を振られ、ついそんな風に返したら「わかったら返事!」と返されてしまう。どんな年齢であっても女性というのは強いものだな、と考えつつ「へいへい」ととりあえずの返事をする。

「はい! じゃあ朝のホームルーム終了! 移動教室遅れないようにね!」
「ハーイ」

 席から立ち上がってオレの肩やらを叩きながら「おめでとー」と言って教室を出て行く生徒らに「おう、あんがとな」と返しながら、オレはそこでようやくハッとした。

「おい、なんで勝手に終わらせてんだ! 特に連絡事項もねーけどよ……」
「ね、奥さん家で待っててくれてんでしょ?」

 今回の仕切りをしたであろう女子生徒が、ニヤニヤ笑いを隠さずにオレに近づいて来てそう言った。
 そのセリフにより、教務主任の朝礼と生徒たちからのサプライズのおかげでなんとか意識を逸らすことが出来ていた今朝の出来事を思いっきり呼び戻してしまった。チクショウ、オレがどんだけ苦労してこの煩悩を追い払ったと思ってんだ。

「……ああ」

 もういいわ、と早々に諦めモードになって素直にそう白状すると、女子生徒は楽しげに声を上げて笑ったのち「ミチセン顔ゆっるゆるなんだけど! イチャイチャすんの楽しみだねえ」と揶揄う調子でオレの脇腹を肘で小突いてくる。

「う、うっせえ! さっさと移動しろい!」

 そう声を張ると「はいはーい」なんていう調子のいい声が返される。
 ぱたぱたと教室から出て行く生徒たちの背中を見遣りながら「……ったくよぉ」と漏れた言葉とは裏腹に、心の中に広がる感情は暖かくて泣きたくなるほどに優しいそれに違いない。煩悩と、それとは相反するほっこりする気持ちでぐちゃぐちゃになりながら、教卓に学級日誌を置き、派手に彩られた黒板をまじまじと眺める。
 教室の中央あたりに立ち、ジャージのポケットに入れていた携帯で取り急ぎ写真を撮る。気恥ずかしくなってガシガシと後頭部を掻きつつ、嬉しさに緩みまくっている口周りの筋肉は、もう今日だけはどうあっても制御不能なことを認めるしかなさそうだ。

(20230522)



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