▽ 三井の日に婚姻届を提出する話
※ 高校教師の三井先生。

- - -

「なあ、名前は婚姻届出しに行く日の希望ってあるか?」

 ソファーに座りながらぼんやりとテレビ画面に視線をやっていた私の前に座り込んだ寿くんは、胡座をかいて神妙な面持ちで私を覗き込んでいる。
 世間がクリスマスだ年末だと浮かれ始めて忙しなくなり、そこかしこがイルミネーションで彩られ始めた12月の頭。ちょうど私たちがお付き合いを始めた頃に、寿くんはプロポーズをしてくれた。
 そんな感動に浸っていたのも束の間。ただでさえ慌ただしい年末はバタバタしているうちにあっという間に過ぎ、年が明けて両家への挨拶なんかを終えたら、1月は記憶に残らないほど瞬く間に居なくなってしまっていた。
 既に同棲していた私たちに、結婚に伴い同居する為の引っ越しという大きなイベントは関わってこない。つまり、婚姻届を記入して、それを役所に提出してしまえば晴れて夫婦となれるのである。
 今は2月の頭。入籍日、イコール結婚記念日の希望はあるか、という彼の問いにうーんとしばし頭を悩ませる。
 付き合い始めた12月を待つのでは、少々先になりすぎる気がする。寿くんのお誕生日である5月22日というのも考えてはみたけれど、誕生日と結婚記念日をひとまとめにしてしまうのはどうだろう、と私の中で一旦ストップがかかる。
 記念日やお祝いは分けたほうが楽しい日が増えていいのでは? という安直な考えにより、脳内会議にて精査された結果「彼の誕生日を入籍日とする案」には却下の印が押されることとなった。

「おい、どした? かたまってっけど」
「脳内会議してた」
「そういうのにはちゃんとオレも混ぜろ」
「だめです、寿くんは侵入禁止」

 寿くんは「なんもやってねーのに出禁かよ」と平坦なノリで返してくる。そんな感じで繰り返
す他愛もないやりとりはいつもどおりの日常である。しかし、中身のない些細な会話のラリーですら未だに楽しくて幸せだと思えてしまう。
 ソファーから立ち上がり、壁に掛けてあるカレンダーの前に立って、それの端を指先で摘む。2月のページを捲り、3月のページに並ぶ数字をぼんやりと眺めながら、私はあることにはたと気がついた。思わず「あ……!」と小さく漏らすと、寿くんから「ん? どした?」と声を掛けられる。

「ね! 婚姻届出しに行くの、ミツイの日にするのはどう?」
「ミツイの日……? なんじゃそりゃ、オレの誕生日は5月だぜ?」
「誕生日じゃなくて! っていうか、誕生日だとひとまとめになっちゃってもったいないから却下!」

 いつの間にか背後に立っていた寿くんは私のおなかに手を回すと、腰を曲げながら頭の上に顎を乗せて体重をかけてくる。それすんごく重いんだけど、とその行為を咎めつつ「ほら、ここ見て!」と人差し指でその日を示す。

「んー? 3月21日?」
「ミツイって読めない? どう?」

 籍入れたら私も三井になるわけだし、とほんの少しだけ気恥ずかしくなりつつ、ぼそぼそと続ける。そこでようやくその語呂合わせに気づいたらしい寿くんが「あー、なるほどな! 確かにミツイの日だわ!」と嬉しそうに言った。
 私はというと、自分で「私も三井になるわけだし」とか言っておきながら、それを口に出したことで自分が大好きな人の苗字になる、という現実と向き合い、急にむずがゆい気持ちになってしまっていた。

「オレぁ長いこと三井やってるけどよ、3月21日っつう語呂合わせには気づかなかったぜ」

 間近に迫ったうれしい現実を受け止めようとしていたところで、投下されたのは彼の奇矯なセリフ。それのせいで、むずがゆい気持ちは「うれしいむずがゆさ」から一転して「込み上げてくる笑い」に変わってしまった。
 唐突に差し込まれたそのセリフに笑いを堪えきれず、つい噴き出してしまう。すると、私の頭の上に顎を乗せたままの彼が「なんだよ」とぼそぼそ言いながらおなかに回している腕に力を入れるのがわかった。
 寿くんはとっても真面目に、そして狙ったわけでもなく面白いセリフを繰り出してくることがある。
 まあ、私は彼のそんなびっくり箱のように愉快なところも大好きなのだけど。


***


「はい、ではこちら受理いたしますね」

 提出した婚姻届をチェックしてくれていた窓口担当のお姉さんが、顔を上げてこちらにニッコリと笑む。おめでとうございます、と掛けられた声に「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。
 しかし、いつも騒がしい寿くんのリアクションは何故だか現在進行形でとっても薄くて、更に目を開けたまま寝ているのでは? と不安になるほど微動だにしない。その表情を確認すべく、隣でじーっと押し黙っている彼の顔をそっと覗き込む。
 寿くんは目の前に置かれている婚姻届に向けていた視線を剥がし、ゆっくり顔を上げたかと思うと「あの……」と些か静かな声音で受付のお姉さんへ声を掛けた。彼女は小首を傾げながら「はい?」と続くであろう言葉を待ってくれている。

「つまり、こいつはもう三井ということでいいのでしょうか?」

 寿くんのそのセリフの後、カウンターを隔てた私たちの間に、というかこの三人だけがやりとりをしている空間に流れた無音の時間は、はたして何秒ぐらいだったのだろう。

「ん、ふふふ……! あ、あの、す、すみません」
「いえ、ふふ、こちらこそその、ごめんなさい……!」

 まるでその沈黙を破るように、彼女と私が噴き出してしまったのはほとんど同時だった。込み上げてきた笑いをなんとか抑え込もうと躍起になるも、それをしようとすればするほどに腹筋の痙攣はおさまらないどころか激しくなる。

「んだよ、オレぁ別に変なこと言ってねーぞ!?」

 ぶつぶつ言いながら眉根を顰めている寿くんに対し、噎せこみそうになっている私が「そうだね」と返すことは困難の極みだった。
 私よりも先に戦線復帰していたお姉さんが、コホンとひとつ咳払いをする。改めて呼吸を整えた彼女が「はい、もう三井さんですよ」と適切な回答をくれたことで、なんとか事なきを得る。

「あ……そうなんスか。あんま実感湧かねえもんだな」

 こんな紙ペラ一枚出しただけでおまえは三井になっちまったのか、という大きなひとりごとに、受付のお姉さんが再びプルプルしながら笑いを堪えているのがわかった。
 ようやく落ち着いてきたところに更なる畳み掛けは心の底から遠慮したかったが、彼が狙って発言したわけではないことはよーく理解している。

「んっ、ふふ……! す、すみません、ええっと……よろしければフォトブースがありますので、そちらでお写真撮って行かれますか?」
「おっ、マジか! お願いします!」

 間髪を容れずにレスポンスを返した寿くんは、そのまま勢いで私の手を引っ掴むと「ほら名前、行こうぜ!」と先ほどとは打って変わってニッコニコの笑顔をその顔に浮かべながら立ち上がった。
 フォトブースには桜のイラストで彩られた大きなパネルが設置されており、今日の日付である「3月21日」という文字が貼り付けられていた。
 これでお願いします、と自分の携帯を受付係の人に渡す寿くんをぼんやり眺めていたら、私の横に戻ってきていた彼が「名前の苗字、もう三井なんだってよ」と口の端を上げながら言った。

「うん。……でもなんか寿くん、さっきすごく静かだったから」

 私は結構感動してたんだけど、寿くんはそうでもないのかなって。
 そう続けてから、ちょっとどころか大分じめじめした湿っぽい気持ちを吐露してしまったことに羞恥心を覚え、口にしてしまったことを少しだけ後悔した。
 しかし、そんな私の複雑な心境など露知らず、首を傾げた寿くんは「あ? なんだそれ」といつもの調子でほとんど脳直のような言葉を発した。

「ンなワケねーだろ! 名前にどう見えてたのか知らねーけど、オレぁ今めちゃくちゃ喜んでるぞ!?」
「ほんとに?」
「おう。だってよ、好きな女をやっと自分の嫁に出来たんだからな」

 半信半疑だった私の問いに大きく頷いた寿くんが発したのは、飾り気なんてどこにも無い、どこまでもストレートすぎるセリフ。それはとっても彼らしく真っ直ぐで、そしてとんでもない破壊力のものだった。

「まだそこまで実感ねーっつーのもあるけどよ……。黙ってたのはうれしくねーからじゃなくて、名前がオレと同じ苗字になってくれたことを噛み締めてたんだよ」

 続けられた言葉を即座に咀嚼することが出来ず、呆気に取られたまま寿くんを見上げる。どうしよう、うれしすぎて、っていうかそれを超越して、最早照れるどころかどうしたらいいのかすらわからなくなってしまっている。
 私から向けられているなんともいえない視線に気づいた彼は、眉間にシワを寄せながら照れくさそうに「んだよ、あんま見んな」と私の額を人差し指で小突き、そのまま心許なさげに自分の顎の傷跡に触れた。

「はい、それじゃあ撮りますねー!」

 その声にハッとして、図らずも二人で声を揃えながら「はい!」と返事をする。婚姻届の両端を一緒に摘み上げたら、こちらに向けられている寿くんの携帯のカメラがカシャ、と何度かシャッター音を鳴らした。

「では、データご確認ください」

 この度は本当におめでとうございます、と頭を下げてくれた受付担当の方に倣うように「ありがとうございました」と会釈を返す。
 寿くんの携帯に納められた写真の中の彼は、片方の手で婚姻届の端を摘み、もう片方の手を突き出すようにピースサインを決めながらニッと歯を見せて少年のように笑っていた。そのくしゃりとした屈託のない笑顔も、彼の好きなところのひとつである。
 ちなみに私の写りはというと、撮影直前に投げられたかわいらしいセリフのお陰でとんでもなく締まりのない顔をしており、更に緊張のせいか口だけ真一文字に結んでいるというなんとも奇妙な表情をしていた。でも、まあいっか。これもまた思い出ということにしよう。

「私、寿くんのお嫁さんになれてすっごくうれしいよ」

 面と向かって言うのは恥ずかしかったけれど、どうしても今この場で声に出して伝えたかった。しかし、伝えてはみたものの、その言葉のあとで発生した羞恥心に打ち勝つことが出来ず、寿くんの顔を見れなくなってしまった。
 ええい! と彼の手を取って指を絡ませ、想いを託すようにぎゅう、と力を込める。

「……んだよ、照れさすなっつーの」

 控えめにちらりと視線を上げたら、その言葉の通りに寿くんの耳は真っ赤になっていて、そこでようやく少しだけやり返せたような気がした。

「よっし、じゃあ次は指輪だな」

 滅多にない平日休みである。せっかくだから全部詰め込んでしまおう、と決めていた私たちの次の目的は結婚指輪の選定と購入だ。

「……の前に、なんか緊張して腹減ったしメシ食いに行こうぜ。普段、平日にランチなんて出来ねーし」

 その提案に「うん、私もおなかすいた!」と返事をして、手を繋いだまま役所のエントランスを抜ける。
 雲ひとつない晴天の空、上空より注ぐ春めいた日差しは眩しくもぽかぽかとあたたかい。私の視界を照らすそれは、まるでこれからの新しい毎日を祝福してくれているみたいだ、なんて都合のいいように考えてしまう。
 繋いだ手ごと寿くんの腕を抱きしめたら「おい、なんだよ」と彼は小さく笑い、まるで飼い猫にするかのように私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

(20230321)



- ナノ -