▽ 猫の日ネタ。
※ 高校教師の三井先生。結婚後のお話です。

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『ごめんなさい、今日の晩ごはんはおやすみさせてください』

 そんなメールに気づいたのは昼過ぎだった。
 今日は土曜日で、オレはいつも通りにバスケ部の顧問として指導に励んでいる。近隣の他校との合同練習を兼ねた練習試合の為に訪れたこの体育館は勤務している高校の体育館ではない。
 午前中から始まった練習が終わり、午後からはいよいよ集まった3チーム総当たりの練習試合を行う予定になっている。
 昼休憩を取りながら顧問の先生方と会話をしたのち、ふと携帯を確認した時にそのメールに気づいたのだ。
 文面から妙な雰囲気を感じ取る。何かあったのだろうか?
 せっかくの休日なのでまだ寝ていればいいのに、律儀にいつも通りの時間に起床し、尚且つ弁当まで用意してくれていた名前の今朝の様子は普段と変わりなかったはずだ。一緒に朝食を摂りながら「今日は晴れるみたいだから、シーツを洗ってその辺でもお散歩しようかな」と楽しそうに言っていたし。
 メールに感じた違和感の正体に思い当たる節はなく、なんとなく喉に詰まるような消化不良感はあれどとりあえず「了解。体調悪いなら気にしないでいいからな。メシ適当に買って帰るからゆっくりしとけ」と返事を打った。
 するとすぐに「具合わるくないです、大丈夫です」とどこかよそよそしさを感じる返事が返ってきた。やはりこの上なく、そしてわかり易すぎるほどに様子がおかしい。自分で言うのもなんだが、オレにもわかるぐらいの違和感を感じる。
 電話を掛けてみようかとも思ったが、ぱっと時計を確認するともう1、2分で定められた昼休憩が終了するということに気が付いてしまった。
 名前の様子はとんでもなく気になるが仕方ない。もっと早くメールに気が付いていたらよかったのに、なんて思ってみてももう遅く。
 無理やりにでも意識を顧問モードへと戻さなくては。そう思いながらぶるぶると小さく首を振った。


***


 合同練習会が終わったのは18時過ぎだった。
 部員たちを解散させ、車に乗ったあとのオレの頭の中は名前のおかしな様子のことでいっぱいになっていた。
 車に乗り込んでから電話をしようかとも思ったが、そんなことよりもさっさと帰宅して直接様子を確認することの方が先決であると考えエンジンをかける。
 適当な弁当でも買って帰ろうと視界に入ってきたコンビニに寄り、2人分の晩飯を購入した。逸る気持ちをなんとか抑えつつ、精一杯の安全運転で家路へと急ぐ。
 ああ、なんだってこんな時ばかり赤信号に捕まりまくるのだろう。

「ただいま。……ってうわ! なんでそんなとこにしゃがみこんでんだ!」

 玄関の鍵を開けて中に入ると、そのすぐ先に体育座りをしながら膝に頭を埋めて小さくなっている名前の姿があった。

「あ……寿くんおつかれさま、おかえりなさい」
「どうした? 腹でも痛ぇのか? つーかこんなとこにしゃがみこんでたら冷えちまうだろ、メシ買ってきたからとりあえずリビング行こうぜ」

 そういって名前の頭を撫でながら立ち上がるように促すと、彼女は膝に埋めていた顔を上げ、ふるふると小刻みに首を振って見せた。今にも泣きそうな表情で眉をハの字に寄せ、唇をギュッと結ぶと再び体を縮こめてしまう。

「ちがうの、お腹痛くないし、頭痛がするわけでもないし、私はすごく元気だよ」

 私は、と言った名前の言葉。もしや、と一瞬嫌な考えが脳裏をよぎる。まさか両親や親戚に何かあったのだろうか。穏やかそうな義両親の顔が浮かび、背筋が無意識に強張った。

「にゃあ」

 そんな緊迫した空気の中で、正にオレと名前の間から気が抜けてしまうようなこの場にそぐわない音、もとい声が聞こえてきたような気がしたのは聞き間違いだろうか。どちらかの腹が鳴ったような音ではなかったし、リビングのテレビが点いている様子もない。そして、音の鳴りそうなものも周囲には見当たらない。
 名前がびくりと体を揺らす。そして、そこでオレは見た。彼女の膝の間から、にゅっと伸びてきた毛むくじゃらで小さく丸い何かを。

「マジかよ……」

 それは猫の前足に違いなかった。
 ごめんなさい、とか細い声を発しながらゆっくり顔を上げた名前と目が合う。
 その膝の上にぴょこん、とかわいらしく顔を出したのは白地に黒いまだら模様の体毛を蓄えた子猫だったのだ。その風貌は彼女の実家に住まう猫に酷似している。

「あ、あのね、お散歩してたら猫ちゃんの声が聞こえてね、探してみたらこの子がいて、それでほら前足怪我してて、周りにお母さんいないのかなって3時間ぐらい離れたところで様子みてたんだけどやっぱりいないみたいで、ほっとけなかったから病院連れてったりしてて」

 相変わらずにゃあと無邪気でかわいらしい声を上げながら名前の手にじゃれついている子猫とは打って変わって、彼女は声を震わせながらなぜ今こうしてこの子猫を抱いているのかを必死に説明している。
 なるほど、状況はなんとなく把握した。
 名前の手のひらに頬擦りなんかをしている子猫を見ていると、こちらまでなんともいえないふにゃりとした気持ちになってきてしまう。オレでさえこんな気持ちになっているのだから、彼女はとっくにこの抗いようのない愛くるしさにハートを射抜かれてしまっているに違いない。
 そういえば、名前は知り合って間もない頃から実家で猫を飼っていること、そしていつか自分でも猫を飼いたいと思っているという話をしていた。
 今でも動物番組を眺めながら、猫が出るたびに破顔して「ああ」とか「うう」とか「かわいすぎる」と無意識に声を漏らし語彙力を失くしていた。
 だからまあ、いつかこんな日が来るような予感はしていたのだ。

「ごめんなさい……」
「いや、別に怒ってねえよ。今日はその日だったんだなって思ってるだけ」
「その日?」

 様子がおかしいのがコイツのせいだったとは思わなかったけどな、と続けながら人懐こい子猫の顎の下をくすぐってやる。
 子猫はオレの手に顔をぐりぐりと押し付け、擦り付けるような動きを見せながら、その小さな口を開いてまた鳴き声を上げた。なるほど、名前はこんな気持ちになっていたのか。こりゃダメだ、連れて帰って来ちまうに決まっている。
 ミッチー先生うちの猫がね、と担任をしているクラスの女子生徒が携帯の画面を見せながらいかに自宅で飼っている猫がかわいいのかという話を延々と聞かせてきたことがある。
 ふとそんな出来事を思い出しながら、オレは指先で柔らかくあたたかい毛むくじゃらの小さな命に触れ、意図せず小さくため息をついてしまった。

「おまえ、うちに住むか?」

 そんな言葉が伝わるわけもないのに。
 もうすっかり彼女の膝の上でリラックスモードになってしまっている様子の子猫を見遣りながら、ほんのちょっぴり愉快でばかばかしい気持ちになってきた。
 問いを投げかけておきながら、恥ずかしいことにオレ自身が既にもう受け入れる体制になってしまっていたからだ。
 名前はというと、今にも泣き出しそうにその瞳を潤ませながら「いいの?」とか細い声で震えるように言った。
 しょうがねえな、と言って頷いて見せると、彼女は情けない表情で眉をくしゃりと寄せ、小さくしゃくりあげた。緊張が解けて安堵したのと、そしてうれしいのと、泣きたいのが混じり合ってなんとも形容しがたい複雑な表情をしている。
 あまりにもヘンで滑稽な顔だったので、これはぜひ写真を撮っておいて疲れた時にでも見返したら愉快な気持ちになれそうだと思ったけれど、さすがに怒られそうなのでやめておこう。
 そんな風に懊悩している人間たちのことなど露ほども知らず、子猫はくあっと小さくあくびをしながら名前の手のひらに頭を擦り付け、甘えるようにゴロゴロと喉を鳴らした。

(20210201)



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