38.

「オレぁ決めたぜ、車の免許取りに行く!」

 寿くんがそう言ったのは年が明けて少し経った頃だった。
 彼曰く「チョロい教授のところでゼミとってたから卒論もチョロかった」らしく、十二月の頭にインターカレッジを終え、バスケ部を引退すると休む間もなく卒論に取り掛かった。今思えばきっと、消沈した気持ちを紛らわすのにちょうど良かったのだろう。
 そんなこんなで一月の頭にはさっさと卒論を提出し終えた寿くんは、相も変わらずバスケ部に顔を出している。この間、久しぶりに顔を合わせた宮城くんは「あの人たぶん引退のイミわかってないんだよ、アホだから」と言っていた。寿くんがその場にいなくてよかったと思う。

「就職したら時間なくなるし、今しかねえだろ」

 確かにそのとおりだ。就職して仕事が終わってから教習所、なんて考えただけで大変なことがわかる。そもそも教職に就くのだから他の社会人よりも時間が限られてくるだろう。加えてバスケ部の顧問やコーチをやりたいというのだから尚更だ。

「私も取ろうかなあ、車の免許」

 軽い気持ちで何気なくそんなことを呟いてみたら、即座に「名前はやめとけ」と反対されてしまい、私は思わず眉根に皺を寄せた。

「納得いかねえってツラしてっけど、たぶん運転向いてねーよ。注意力散漫だし」

 そっちだってまだ教習所にも通ってもいないくせに、と思ったけれど、確かに彼の言うことは一理あるどころかすごくあると思う。悔しいけれど納得せざるをえない。

「オレが乗せてやっからよ! 楽しみにしとけ」

 そんでドライブ行こうぜ、と無邪気に笑う彼の様子に、すっかり毒気を抜かれてしまった私は「うん」と頷く。寿くんの運転でドライブ、ちょっと想像しただけでわくわくする。ほんの少し前までムッとしていたくせに、既にコロッと機嫌が良くなってしまっているとは。私はなんて単純なんだろう、と人ごとのように思った。
 行動力の鬼みたいな彼は早速次の日には教習所に通い始め、そして空いた時間には変わらずバスケ部に顔を出している。今までずっと何かしらの目標を持って動き続けていたから、何もしない時間というのを持て余してしまうのだろう。私はまったりする時間があればあるほどうれしい方なので、動き回っている寿くんをただただ「すごいなあ」と見守るばかりである。
 と、まあゆっくりのんびり、悪く言えば自堕落にそして怠惰に学生最後の三ヶ月を過ごしている私だが、やらなくてはいけないことがまだまだ残っているわけで。
 準備は終えているが、来月の頭には卒論の研究発表会がある。そして、もう二ヶ月とちょっと後にはこのアパートを出ることになる。なので、寿くんが教習所に通い始めるのと同じくらいに新しい部屋探しを始めていた。四年前にひとり暮らしを始めたこの学生向けの部屋を出るというのは、やはり寂しさを感じる。
 就職する会社は神奈川寄りの都内なので、今住んでいるこの場所からそんなに離れてはいない。両親には実家に戻るのかと聞かれたけれど、このままひとり暮らしを続けていくことを選択した。少しだけ実家が近くなるはずなので、きっと今よりは顔を見せられる機会が増えるはずだ。寿くんは神奈川の高校への着任が決まっているけれど実家に戻るのかな。それともひとり暮らしを続けていくのだろうか。

「アタシ、三井さんと名前さんは卒業したら一緒に住むもんだって勝手に思ってたんですけどね。違うのかあ」

 コーヒーの入ったカップにミルクを注ぎながら言ったのは彩子ちゃんだ。その言葉の意味が分からず、固まってしまった私の目の前で手を振りながら「おーい、名前さん戻ってきてくださーい」と彼女は言う。

「一緒に住む……?」

 部屋探しの後、ちょうど時間が空いていたらしい彩子ちゃんと落ち合って入ったカフェの中で、今言われたばかりの言葉をなんとか咀嚼できるように口に出してみた。うんうん、とニコニコしながら頷いている彼女を視界の中に入れながら、私はだんだんと自分の眉間に皺が寄っていくのを感じていた。

「うわ、名前さんどうしてそんな険しいカオするんですか」
「え……? そう?」
「見たことないカオしてますよ、ギュッてなってます」

 一緒に住むだなんて、考えたこともなかった。そもそも、寿くんとそんな話をしたことなんてない。今は同じアパートに住んでいて、行き来も顔を合わせるのも簡単で。なんなら電話をするよりも直接部屋を訪問して会話をするほうが楽なぐらいだ。
 だけどそうか、四月からはこうもいかなくなっちゃうんだ。どうして今頃気づいちゃったんだろう。卒業するということは今の部屋を出るということだけではなくて、今までみたいに会いたくなったらすぐ会えるわけじゃなくなるってことなんだ。

「私、気付かないふりしてた……」

 そう言うと、彩子ちゃんは不思議そうに首を傾げた。
 まだ寿くんと知り合う前、卒業して社会人になったゼミの先輩と久々に会った時のことをふと思い出す。就職してから恋人と別れてしまったという話を聞きながら「そうなんですか」と他人事だと適当な相槌を打った私。まさか自分がこんな不安を抱えることになるなんて。
 私たちは大丈夫だろうと思っていても、ちゃんと連絡を取りあえばいい話だとわかっていても、今とは物理的に距離が離れてしまうこと、環境が変わって今の生活と時間の使い方がお互いにガラリと変わってしまうであろうことを考えたら得体のしれない不安がじわじわと、そして確かに侵食してきていることにやっと気がついた。


 ***
 
(三井視点)

「ウッワ、また居るし」

 アンタ引退したんじゃないんスか、と背後から声を掛けてきた宮城に「うるせー、オレの勝手だろ」と吐き捨てるように一言返して再びシュートモーションへ。
 ボールを放った瞬間、これは入らないとすぐに分かった。ガンッという音を立ててポストに当たり、ゴールから外れたボールは床に落ちて転がっていく。チッと舌打ちをして、背後のヤツを一瞬にらみつけてからそのボールを取りに向かう。

「オレのせいじゃないっしょ」
「いーや、オメーのせいだ」

 そっちだって返事したじゃん、と減らず口を叩く宮城を無視し、床に置いたままのタオルを手に取ると額の汗を乱暴に拭った。

「そういえば三井さん、部屋探ししてんの?」
「ヤベ、そんなんもあったな」
「そんなんもあったなってアンタ」

 卒業したらもうあの部屋出なきゃでしょ、と宮城は続けた。いよいよもって自分が学生でいられる時間が残り少ないのだということをひしひしと感じる。
 思えば、この四年間の中で何もしていない時間というものは一切無かったように思う。バスケやって、講義受けて、試験勉強して、リーグ戦があってインカレがあって。教育実習に教員採用試験、最後のインカレが終わり、ラスボスである卒論を片付けてしまってから、突然出来てしまった何もしないでいい時間をどう過ごしたらいいのかわからず、名前と会う時間以外はこうしてバスケをやったり走りこみをしたりしている。
 四月からは通勤に車を使う予定なので教習所にも通っているし、もしかしたらこれはもう一種の緊迫観念なのかもしれない。
 実家に戻るつもりは無く、このままひとり暮らしを続けるつもりだ。神奈川の高校に赴任することが決まったけれど、社会人になる以上、もう親の厄介にはなりたくない。

「名前さんはもう部屋決めたっぽいよ」
「ああ、聞いてっから知ってる」
「同棲とかは考えなかったんスね」

 そう言われて、思わずビクリと肩を揺らしてしまった。考えたことがないわけじゃない。いや、むしろいろいろ積み重なっていたやるべきことが済んでからは、たびたびその考えが頭の内に浮かんでいた。
 今は会いたい時に顔を見られる。直接会って会話ができる。触れたいときに触れられる。だが、就職してしまったらそうもいかなくなるだろう。今までが近くて傍に居すぎたから、それが当たり前じゃなくなるということを考えれば考えるほど不安になる。
 しかし、そんな話を切り出すには早すぎる。そして、まだ何の責任も持てない学生のうちにするべき話ではないと思ったからだ。そもそも、名前はのほほんとしているのでそんな不安など全く感じていないかもしれない。
 今より距離が離れてしまっても、会える頻度が減ってしまっても、それでも春からはお互い新しい環境に慣れることに精一杯なはずだ。だから落ち着いて変化した環境にも慣れて、それからすこし経った頃に彼女にその話をできればいいと思う。

「教習所行ってるんでしょ、どうなんスか?」
「来月には取れると思う、多分」

 簡潔にそう返したら「今度乗せてよ」と楽し気に笑っていたが「オメーは二番目な」とだけ返事をした。言われなくてもわかってますって、と笑った宮城がストレッチを始める。
 そろそろ他の部員も集まってくる頃だろうか。首から下げたタオルでもういちど汗をぬぐいながら立ち上がり、足元に置いていたボールを片手で掴んだ。


 ***


 彩子ちゃんと会ったその日に見た部屋を契約してすこし経って、卒論の発表会で久々に顔を合わせた友人に「あれから彼氏とはどう?」なんて話を振られた私は「なにごともなく順風満帆です」と返事をした。彼女は卒論を提出期限ギリギリでようやく終えられたらしく、少しだけゲッソリした様子で「そりゃあ何よりだわ」と私の背中を軽く叩いた。
 順風満帆、ではある。客観的に見ても寿くんと私は何も問題がないように見えるだろう。実際その通りで、ケンカをすることもそれに至る理由もほとんどない。お互いにいままで抱えていたものが無くなったから余計にかもしれない。
 ただ私の方はと言うと、自分を取り巻く環境が変わることに少しばかりの不安を覚えて怯えていたりするのだが。

「卒業したらどうすんの?」

 どうすんのとは、と声に出さずに首を傾げたら、彼女は目を細めて短く息を吐いたあと「三井くんと一緒に住むのかってことよ」と言った。まさか同じことをこの短期間で二人から言われるなんて。私の顔には「卒業してから離れてしまうのがこわいです」とでも書いてあるのではなかろうか。ふるふると首を振り、そんな会話は全くしていないということを伝える。

「なんだ、てっきり卒業したら同棲するんだろうと思ってたけど違うんだ。意外と堅実じゃない、三井寿」

 全然見えてこない新しい生活に対してこんな不安を抱いているなんて、私の肝は些か小さすぎるのでは、と思う。わからないからこそ新しい生活へのわくわくよりも、ネガティブで不安な気持ちの方が大きくなってしまう。
 ああもう、気にしないようにしようって思ってたのに。

「まだ学生だし、あっちはそんなことまで考えてないよ」
「そうかなあ。教育学科の友達に聞いたけど、あの人大学で彼女作ったこともなければ飲み会に顔出すのも珍しかったらしいよ。そんな人がアンタのこと真面目に考えてないことはないと思うけどねえ」

 名前から話振ってみたら? と言われたけれど、そんな話をこちらから振れるわけがない。それにもう、私は春から住む部屋を決めてしまっている。
 彼とこれからも一緒にいられたらいいなとは思うけれど、やはりそれは時期尚早すぎる気がした。春になって社会人になって、新しい環境にも慣れて生活が落ち着いて、リズムが整ってきたころに提案してみたらいいかもしれない。でも、果たして私はその話を自分から切り出せるのだろうか。
 重たいとか、負担になるんじゃないかとか、そういうことばかり考えてしまう。そういえば付き合って一年経った日もそうだった。気を遣わせたくないから、記念日だと伝えたら寿くんが気を遣って何かをしてくれることが容易に想像できたから言わなかった。でも彼はちゃんと覚えてくれていた。
 卒論の研究発表会を終えた頃、寿くんは無事に車の免許を取得した。今度助手席に乗せてほしいと伝えたら、彼は少しだけ苦い表情をしながらぼそぼそと「まだぎこちねえからカッコよく乗り回せる様になったらな」と言った。その見栄っ張りでカッコつけたがりなところが彼らしいと思う。夏になったら寿くんの運転で海に行く約束をした。宮城くんや彩子ちゃんも誘えたらいい。帰りに疲れて眠る二人を見ながら「全く、運転手を気遣わねえヤツらだな」とごちる光景が目に浮かぶ。

「名前の会社、神奈川寄りだったよな」

 じゃあそんなに離れるわけじゃねえな、と寿くんは言った。彼の赴任先は実家にだいぶ近い高校らしかったが、実家には戻らずにひとり暮らしを続けるらしい。
 高校教師という仕事は想像するだけで大変そうなので、慣れるまでは実家にいるのもいいんじゃないかと勝手に思ったりしていたけれど、彼のプライドがそうはさせないのだろう。
 小学校に入った頃、上級生がものすごく大人に見えた。中学生の頃は高校生が大人に見えたし、高校生の頃は大学生が大人に見えた。いつの間にか成人して、いつの間にか大学卒業を間近に控えている今になっても、私は自分が大人になれた気なんて微塵もしない。時間だけが勝手に過ぎて、毎年流されるようにひとつずつ数字の上だけ大人になった。
 もうすぐ三月に入るがまだまだ肌寒く、一ヶ月後にはもう桜が咲き始めるなんてとても信じられない。毛布も掛布団も手放すことができないし、外に出るときはコートを着てマフラーを巻いて、最初のクリスマスに寿くんからもらった手袋を嵌めている。私の部屋のベランダからは毎年隣の家の桜の木が見えていたけれど、今年はそれが満開になる前にこの部屋を離れることになるだろう。
 寿くんは、少しずつダンボールが増えてきた私の部屋を眺めながら「もう卒業まで一ヶ月もねえな」とひとりごとみたいに呟いた。

「そっちは引っ越しの準備すすんでる?」
「あー……まあ、ぼちぼちってとこ」

 その返事ですぐにわかった。たぶん全然進んでいないのだろう。
 寿くんの部屋は割と片付いている方だと思う。が、片付いているというよりも必要最低限の物しかなくてすこし殺風景だ。時々部屋を伺うとバスケの雑誌が煩雑に積まれていたり、寝巻きだと思われる脱いだスウェットが床に落ちていることがあって、私がその本を刊行順に並べ直したり、スウェットを拾って有無を言わさず洗濯機に突っ込んだりするのを「母ちゃんみてえ」と笑われた事がある。私ほど荷物は多くないはずだけど、引っ越し日が近づく頃にヒィヒィ言うようなことがなければいいと思う。
 結局、お互いに何事もなく新生活を迎える新しい部屋を決めた私たちは、一ヶ月後にはこの近しい距離感を手放すことになる。


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