36.

 直した論文を提出する瞬間よりも、改めた部分を読まれているこの時間が何よりも緊張する。次はどこを直せって言われるのだろう。ドキドキしながらも、ついつい紙をめくる教授の手元に集中してしまう視線を無理やり剥がして本棚に向けるのはいつもの流れである。

「うん、お疲れ様。じゃああとは発表頑張ってね」

 そう言われた瞬間、風船の空気が抜けていくみたいに体の力が漏れなく全部抜けそうになった。教授の部屋を訪れては「ここもうちょっと直そう」と言われ、それを直して持っていくと今度は違うところを指摘される。この半年、何度それを繰り返しただろう。これで本当に終わったんだという実感が沸いてくるのは研究室を出て、寒い外の空気を頬に感じてからだった。
 うれしいよりもほっとする気持ちが、そして達成感よりも安心感の方が大きい。最終的な締め切りは年明けの一月半ばだけれど、さっさと終わらせて落ちつきたかったから早めに始めていたのだし、すこしでも残り少ない学生生活の自由な時間を増やしたかった。とりあえずこれで研究発表会を終えれば問題なく卒業できそうだ。
 そんなわけで、いまこの瞬間から私には自由な三ヶ月とちょっとの時間ができたわけだけど、いざそうなってみると自分が何をしたかったのかがわからなくなってしまった。
 来年の春から入社予定の会社の内定式で、役員の方や先輩社員の方は口をそろえて「残りの半年は学生の時にしかできないことをしてください」と言っていた。しかし、気が抜けて脳みそが活動モードではなくなってしまった今の私には「とにかく甘いものがたべたい」ぐらいの気持ちしかない。
 就職して社会人になったら、きっと今みたいにぼーっとしていられる時間はすごく減ってしまうだろう。朝起きて会社に行って、夜帰って来て家事を済ませて寝て。そう考えると、やっぱり卒論を早めに終わらせられてよかったと思う。
 学生の時にしかできないこと。美術館や博物館とか映画館とか、そういうところに学生料金で、尚且つ平日に入場できるのは今だけだ。そんな小さいことを考えながら、買ったホットのレモンティーに口を付ける。吐く息は白い。先ほどまではカフェスペースに居たのだが、なんだか落ち着かず外に出てきてしまっていた。
 教員採用試験に合格して進路が決定した寿くんはヒィヒィいいながら卒論に取り掛かっている。男子バスケットボール部は今年も危なげなくインターカレッジへの出場を決め、今日はもう二戦目。昨日の初戦は観戦に行けたけど、今日の試合は午前中だったので教授との予定があった私は観戦することができなかった。お昼を過ぎたぐらいに「今日も勝ったぜ!」なんていうメールが入っていたのでほっとした。
 寿くんのカッコいいところ、見たかったな。もうあと何回バスケをする彼の姿を見ることができるかわからないので見逃してしまったことが悔しい。明日も勝って、決勝に進むとしたらあと三戦。多くてもあと三回で彼が選手として試合に出るのは最後なのだ。
 もう少し早く知り合えていたら、その姿をもっとたくさん見られたはずなのに。そんなことはここ一年何度も何度も思ったけれど、過ぎてしまったことなのでどうにもならない。
 実は、今日で私たちが彼氏と彼女という関係になってから一年だ。
 彼の試合を初めて観て、自分の気持ちをみとめて、それから少し経ってその思いを伝えるに至ったきっかけはあんまりいいものではなかったけれど、それでもこの一年は楽しいこととうれしいことばっかりだった。寿くんが頑張ってるから私も頑張らなきゃって、そう思えた。わざわざ口に出すことじゃないけれど、彼が私の隣にいてくれるようになってから、私も少しはいい方向に成長出来た気がする。そういう相手に出会えて本当に良かった。
 そういえば、彼は今日で付き合って一年だってことを覚えているだろうか。結構アバウトなところがある人だから、そんなことは全く気にしていなさそうだ。

「ワリィ! 待たせた!」

 振り向くと、肩で息をしている寿くんの姿がそこにあった。申し訳なさそうに両手を合わせている彼を見ながら「ううん、待ってないよ」と首を振る。実際、私は学内でぼけっとしていただけで、試合の後の彼の方がよっぽど疲れているはずなのだ。

「つーか何で外にいんだよ、中にいねーと風邪引くだろが」
「もうそろそろかなって思ったから出てきたの。それより試合お疲れさま!」
「おう、勝ったぜ!」

 メールで送ってきた文章と同じことを言った彼は、ニッと笑って小さく拳を作る。いつもはどこか強面の寿くんの飾らない笑顔は、もうとっくに成人しているというのにどこか幼くてかわいらしい。

「よし、じゃあ行くぞ」

 寿くんは「へ?」と間抜けな声を上げた私の手を引っ掴むと、早くしろよと言わんばかりに顎で促してくる。そういえば、以前もこうやって急かされた事がある気がする。まだ出会ったばかりのあの時は手を握られたりなんかしなかったけれど。相変わらずつめてー手だな、と言いながら、彼は繋いだ私の手ごと自分のコートのポケットに突っ込んだ。
 試合が終わったあとに送って来てくれたメールには、試合結果の他に「まだ学内にいるなら悪いけどそのまま待っててほしい」という旨の文章が続いていた。だからこうして大学の中で待機していたのだけど、なにか用事でもあるのかな。

「ところでよ、オレたちが付き合い始めて今日で一年だぜ」

 歩きなれた大学の敷地内を進みながら、寿くんは前を向いたまま唐突に言った。
 最初に感じたのは驚きだった。勝手なイメージだけど、そういうことはあんまり気にしないタイプだろうと思っていたからだ。そしてにおわせるようなことを彼の口から聞いたこともなかった。いちいちそういうことを言うのは重たいかもしれないと思って私も気にしないでいることにしていた。でも、ちゃんと覚えててくれたんだ。
 なんだその顔、と不思議そうな表情の寿くんに「ううん」と首を振る。

「名前、忘れてたろ」
「忘れてない! ちゃんと覚えてたよ!」

 言わなかっただけだもん、と続ける。今は寿くんがバスケットボールの選手として臨む最後の大会期間中。記念日だよって伝えたとして、どこかに行こうとか何かをしようとかそういう気を遣わせたくなかったから口に出さなかったのだ。

「そういえば、オレらが付き合ったのって一年前の今日ってことでいいんだよな?」

 彼がどういう意味で言ったのかがわからなくて私は目を細めながら首を傾げる。

「お互いの気持ち伝えたのはその日のうちだけど、オレが付き合おうってちゃんと言ったのは次の日だっただろ」

 そういえばそうだっけ。照れくさそうに口をぎゅっと結んでいる寿くんが面白かったので、ついにこにこしながら顔を覗き込んだら「ニヤニヤすんな」と額を小突かれた。
 言われてみれば確かにどっちが正しいんだろう。こわいことがあって、怪我したのを手当てしてもらって、うっかりぽろっと気持ちをこぼしてしまって、それから。ここまで思い出したら、急に恥ずかしくてたまらなくなってきた。体がムズムズして、顔が熱くなってきたので私はぶんぶんと首を横に振って考えることをやめる。好きって伝えた日が記念日、それでいい。
 出会ったのは夏の終わり。そして付き合い始めた頃の町の様子はすっかりクリスマス一色になっていた。今年も駅前はいつの間にやらキラキラとした電飾で飾り付けられ、駅ビルにはクリスマスの文字が並ぶ。その前を歩くたびに「そっか、もう一年経つんだ」と思っていた。

「おい聞いてっか?」
「あ! うん、ごめんね」
「ったく、話してんのに別んとこに意識飛ばすなっての」

 ところで寿くんはどこへ向かっているのだろう。私の手を引く彼が迷いなく歩を進める方向は駐輪場や正門とは逆方向。最初は私が大学にいたからわざわざ来てくれたのかなと思ったけれど、この様子だとどうやらそうではなさそうだ。試合後にわざわざ学内に戻って来た理由があるのだろう。
 ちょうど四限が始まった頃なので人はまばらだ。すっかり冬の装いの学生とすれ違いながら講義室のある棟に入っていく寿くん。この建物は教授らの研究室があるわけでもないし、学生課もない。体育館もちがう建物だ。普段、講義が始まる前は混みすぎて乗れないエレベーターにもこの時間帯だと難なく乗れた。彼は七階のボタンを押す。
 その棟の最上階である七階には大人数が入れる大講義室があった。そうだ、この部屋ははじめて顔を合わせた時の、あの講義の教室だ。

「よかった、ちょうど授業空きみてーだな」

 そう言った寿くんは「どこだったっけか」とひとりごとみたいに呟く。人が居ない講義室は暖房が入っておらず寒さを感じる。

「よし、じゃあ名前はそこに座れ。端っこだぞ、端っこ」

 入ってすぐの四人ほど座れる机の端。そこに座るように促され、私はわけがわからないままこくんと頷いて腰を掛ける。講義が行われておらず、彼と私以外に誰もいない講義室は余計に広く感じた。まるであの時とは違う部屋みたいだ。

「で、オレがその横から声掛けたんだったんだな。隣空いてますかって」

 そうだった。寿くんはボールペン忘れてきていたから受講票を書けなくて、私が適当なペンを一本あげたのだ。背が高くて、ちょっとだけ怖そうな人だなって思った。けれど、話してみればそんなことはなくて。あの時の私はまさかこの人のことをどうしようもなく好きになってしまうだなんて微塵も思っていなかった。

「初対面の時、おまえのことめちゃくちゃぼーっとしたヤツだなって思った」

 前向いて講義聞いてるように見えて心ここにあらずって感じでよ、と彼は続ける。もう周りからもさんざん言われていることだし、自分でも自覚はあるけれど、それでも少しだけムッとしたので「今は?」と問うてみる。

「今も変わんねえな」

 間髪入れず返ってきたその言葉。でも、その通りなのだから仕方ない。反論が出来ない悔しさに唇をぎゅっと結ぶ。

「でもそういうとこも好きだから一緒にいんだぞ」

 スネんなって、と笑う寿くんは私の頭を乱暴に撫でる。そうされるともう何も言い返せなくなってしまう。彼が座れるようにひとつ隣の席にずれる。あの時、私は席を立って奥の席に彼を通した。サンキュ、と言いながら寿くんが座った席はひとつぶん空けた隣の席だったけれど、今はこうして席をあけずに隣に座っている。

「オレが高校時代二年間バスケやらねーでフラフラしてた話、覚えてるか?」

 その話を聞いたのは確か去年のクリスマスあたりだった。インターカレッジが終わり、少し経ってから打ち明けられたその告白は彼にとってものすごく勇気を要するものであったらしい。確かに、寿くんがそのままだったなら私は彼に惹かれなかったかもしれない。そもそも出会ってすらいなかっただろう。
 寿くんがバスケットボールにもう一度向き合って、戻ってきてこうして大学でも続けているから、だから私と彼は出会えたのだと思う。

「あの二年間、思えばすげー長かったんだよ。けど、バスケ部戻ってから卒業するまでとか、大学入って今までの三年とちょっととか、名前と知り合って付き合い始めてから今日までとか、そういうのは驚くほどに早くてさ」

 有意義な時間ってめちゃくちゃ早く感じるんだな、と寿くんは続けた。
 彼がフラフラしていたという二年間を私は知らない。バスケ部に戻ってからの高校時代のことも、大学に入ってから出会うまでの彼のことも知らない。それでも、私は愚直なほど真っすぐで、どこまでも自分を高めていく彼のその姿を好きになった。本当にあっという間だった。

「また来年、この時期に二年経ったなって言うのもすぐなんだろうな」

 猫背になって頬杖を突きながら、誰もいない教卓の方を見つめて寿くんは言った。彼の横顔を眺めながら緩みそうになる唇にぎゅっと力をこめる。そうじゃなきゃ恥ずかしいくらいに口角が上がってしまいそうだったからだ。きっと何気なく零したであろう彼の言葉がうれしくてたまらない。はあ、と息を吐いて両手で顔を覆う。ああ、無意識ってすごくこわい。
 この寒い冬が終わると、私たちはお互いに新しい環境へと飛び込んでいくことになる。今まで十五年も学生だったのに、ある日突然社会人になる。顔を合わせる頻度は当たり前に減ってしまうだろう。今と変わらずにいることは難しいんじゃないかって思ってしまうことも実のところあった。でも、きっと大丈夫だ。わるい方向に物事を考えてしまう私のわるいクセ、早く何とかしなくちゃ。

「で、明後日の試合は観に来るんだよな?」
「もちろん。あ、今日ね卒論オッケーでたの」
「そういうことは早く言えっての! お疲れさん」

 ぽんぽんと私の頭の上に乗せられた彼の大きな手のひら。その手が、できるだけ長くボールに触れていられますように。
 また一年よろしくな、と優しく目を細めた寿くんに向かってこくんとひとつ頷いて「こちらこそ」と短く返事をした。


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