22.

(三井視点)

 むせ返るほど甘ったるい空気の中で、彼女の首筋に顔を埋めながら荒い呼吸と一緒に無意識に「ごめん」という言葉を幾度となく吐く自分がいた。
 それは気を遣わせたことと、こんなに衝動的な行為を受け入れてくれたこと、そしてそれでもそばにいてくれることに対してだ。オレが求めれば彼女が受け入れてくれるであろうことはわかっていた。そこに付け込んでいる自分はなんて子どもなんだろう。
 止まることができなくなるのは彼女の紅潮した肌と、困ったように歪んだ眉と熱に浮かされたようにぼんやりと開かれた瞳、それに時折漏れる小さな声がオレの情欲を煽るから、なんていうのは言い訳だ。ひんやりとした彼女の指先がオレの腕を弱々しく掴んで、それだけで腰のあたりがぞくりと疼いた。
 こいつはなんで怒らないのだろう。心の中で自嘲の様に吐きながら、横ですやすやと眠る彼女の頬をそっと撫でる。色素の薄いまつげの根元に宿る涙のあとに、どうしようもなく責められているような気分になる。否、彼女がオレを責めたてているわけではなく、なんとなくそう思っただけだ。
 いつもより乱暴に抱いてしまった自覚はちゃんとあって、終わったあとの解放感と脱力感に加えて今日は凄まじい罪悪感でしばらく動けなかった。
 そもそもそういうことをするつもりで部屋を訪れたわけではなかったし、普通に顔を見たかっただけだった。応援してくれていたことに感謝の気持ちを述べに来たつもりだったのだが、こいつの顔をみてたらいつの間にか止まらなくなってしまっていた。それが男の性なのだと言われたらそこまでだが、オレの中にはこいつのことを心底大事に思う気持ちも、愛しいと思う気持ちも、めちゃくちゃに抱きつぶしてしまいたいという衝動も存在している。我ながらどうしようもなく不安定だと呆れる。

「三井くん、泣いてる?」
「泣いてねーよ」

 いつから起きてたんだよと返すと、うつ伏せになったままこちらに顔だけを向けた彼女はふふ、とやわらかく笑った。いつもよりも余計にぼんやりとした雰囲気。薄く開かれた瞳はやはりまだうつらうつらと眠そうだ。
 何があったのかと探ってくることもなく、どうしたのか聞いてもこない。あえて聞かないようにしてくれていることはわかっていた。ぼーっとしているようでいて、意外とそういうところはオレなんかよりよっぽど大人だと思う。

「よしよし、がんばったね」

 そう言いながら小さい子をあやすようにオレの頭をぽんぽんと軽く撫でてくる。「三井くんはがんばりやさんだから私がよしよしってしてあげる」とかなんとか言いながら大きなあくびをしたかと思うと、電池が切れたように再びまた寝息を立て始める。

「無理さしてごめんな」

 その声はきっと、眠る彼女には届いていないだろう。
 穏やかな寝顔を眺めながら、その額にひとつキスを落としてからオレも布団に潜る。頭の中にあるモヤモヤのうち、試合に負けたことによる悔しさは少しだけ薄まってきた気がする。それに関しては気持ちを切り替えて進むしかない。うだうだしている間にも時間なんてものは素知らぬ顔でどんどん進んでいってしまうのだ。
 もうひとつのほうは、と考えたところで急激な眠気に瞼が重くなってきて、くあっと大きくあくびをした。その眠気に抗わずおとなしく屈服したら、次の瞬間にはおそらくもう意識を手放していた。


***


 インカレが終わって一週間。気づいたら年末に差し掛かろうとしている。なんやかんやで毎日練習はあるし毎日バスケづくしなのはいつもと変わらない。
 悔しくもベスト8で大会を終えたうちのバスケ部はオレの上の代が引退した。つまり、自分が大学でバスケをするのもいよいよあと一年だ。入学してからがむしゃらに走り続けてきたからか、時間の流れが早すぎて三年が経過しようとしている実感はあまり沸いてこない。
 オレの中には高校時代のあの二年間を取り戻さないと、という気持ちがずっと有ったのだと思う。気づきつつも目を逸らしてきた現実に向き合わないといけないと感じたのは、この間名前の部屋でリクルートスーツを見つけたことがきっかけだった。
 自分がこれから進む道。とてもじゃないが自分からバスケを切り離せるわけがない。あれだけ苦しんで、あれだけ求めてやっと戻ってこれた場所。ずっと関わっていたいと思う。
 そして、まだ誰にも言っていないもうひとつの道。まだ目の前のあるどちらかの未来を選べずにいるけれど、どっちつかずでいられる時間がそう長くはないことを自分でもわかっている。
 まっすぐ前見て努力のできる人、とオレを称した名前の言葉が、ここのところずっと頭の中を巡っている。
 彼女から見て今のオレがそう見えているのはうれしいことだ。それでも、吹っ切れたつもりでいても、いざ進路を選ばないといけない時期となると呪いのように思い出すのはあの二年間の事。見たくないものから遠ざかり、横道に逸れ、自暴自棄になって自堕落に過ごしていたあの頃の自分。
 高校時代の恩師の連絡先を携帯の画面に表示させながら、オレはひとつ息を吐いた。
 体育の教職課程をとろうと思ったのは安西先生のすすめだった。

「取れる資格は取ってみるのを勧めます、時間が有限なのは君が一番わかっているでしょう」

 そう言われたのは卒業式のあとだった。君は教えることが上手ですからね、なんて大尊敬する恩師から言われてしまったら、乗せられやすいオレはすっかりその気になってしまったのだ。
 正直、卒業単位に入らない講義を取らなきゃいけなかったり、講義の数が増えるのはしんどかったけれど、高校時代にサボってた分を今取り戻しているのだと思うことにした。
 教えることの楽しさは、地元のミニバスケットボールチームのサブコーチのバイトをやることで知った。ОBとして湘北を覗きに行った時、サブコーチのバイトに興味はないかと聞かれたのだ。人手が足りていないと聞いて、恩師の頼みだからとふたつ返事で請け負うことにした。
 それがやってみると難しくて、そしてものすごくやり甲斐があった。自分が勉強させてもらっているようなものなのにバイト代をもらっていいのだろうかと思うぐらい充実していて、それからは地元に戻るたびにコーチのバイトをさせてもらうことになった。
 バスケが楽しくて仕方ないという感じの子どもたちの表情を見ているのが楽しくて、まるでバスケを始めたころの自分を見ているようだった。高校時代の後輩のようにクソ生意気な奴がいたり、いつか見たようなホヤホヤのド素人だっている。そんな奴らの成長を見ているのが楽しくて、ついつい指導に熱が入ってしまうこともあった。三井先生、なんて呼ばれるのはムズ痒かったけれど、ものすごくうれしかった。
 もし、自分のように道を踏み外してしまいそうなヤツがいるとしたら正してやりたい。引きずってでも戻してやりたい。自分のような苦しみを、時間を無駄にする後悔を味わって欲しくはない。それは現に道を踏み外していたオレが言うにはあまりにもナンセンスだけど、苦しんで苦しんで足掻いたからこそ、よりその気持ちは強かった。
 自分からバスケを切り離して考えることはどうしても難しくて、いつも考えることを後回しにしていた。あいつは、名前は高校時代のオレがしょうもないヤツだったって知ったらどんな顔をするだろう。なんて言うだろうか。
 この間、試合に負けて少しだけ弱気になった時、吐き出しかけて押しとどめたそれを彼女に言うべきなのか否かずっと悩んでいた。そんなことを告白する必要などないのかもしれない。今更過ぎた事を話したってどうにもならない。そうは思っていても、荒んでいた自分のことを言わないでいる事が、彼女に対して嘘をついているようで苦しかった。
 まあ、とにもかくにも今いちばんに考えないといけないことは少し先の事よりも目の前に迫ったクリスマスのほうだ。息を吐いて雑念を払うように首を振る。

「クリスマスって何渡しゃあいいんだろうな」

 そんなオレのぼやきに対して「知らねッスよ、それは自分で考えなきゃダメっしょ」と不機嫌に目を細めている後輩。なんて薄情な奴なんだ、と漏れそうになる舌打ちをグッと堪える。なぜならば、今のオレはもうこいつの力を借りなければ手詰まり状態になりかけなのだ。
 来週に迫ったクリスマス。あいつと会うまでに何も経験してこなかったわけじゃないし、それなりにいろいろあったけど、そういえばこの時期に特定の相手がいたことはなかった。高校三年の春までは遊び歩いていたが、それ以降は今の今までサッパリだ。
 というわけで、恋人に対して渡すプレゼントとやらが全く思いつかない。しかし、自分から会おうなんて言っておいて何もありませんでした、というのは男としてあり得ない。
 本屋でそういう特集の載った雑誌を読んでみたり、ネットで検索してみたり、思いつく手は尽くしてはみたものの、自分の中でしっくりくるものは未だ見つかっていない。大体、女が使いそうだったり喜びそうな物を男が選ぶってのは、よくよく考えてみればものすごく難易度が高いことなのだ。

「名前さんはさ、三井くんが選んでくれたのならなんでもいいよぉ、ありがとぉって言ってくれるから大丈夫だよ」
「おい、おまえそれあいつの真似してんのか? 似てねーんだよ」

 いやあの人こんな感じでしょ、なんて軽い調子で言っている宮城にイラッとしたが、最早唯一といってもいい相談できる相手をここで失うわけにはいかない。彩子にも同じことを聞いてみたが「名前さんは三井さんがくれたものなら何でも喜んでくれますよ、頑張って!」と似たような事を言うだけだった。
 宮城の言うとおり、彼女はきっとオレが選んだものならば何でも喜んで受け取ってくれるに違いない。極端に言えば例えば手作りの肩たたき券とか、なんなら「今後ともよろしく」なんていうなんの変哲も無いつまらない言葉程度でも喜ぶだろう。
 だからこそ渡すプレゼントが思い浮かばないのだ。そもそも彼女からあれが欲しいとか、これが欲しいとか、こんなものが好きなんていう話を聞いたことがなかった。今になって思う、そういうリサーチはちゃんとしておくべきだったのだ。

「つーかマジでさみーな」
「今年は雪積もるらしいよ」

 マジかよ、と言いながら吐いた息は白く、思わずぶるっと身震いした。外気に晒されて冷たくなった手をジャケットのポケットに乱暴に突っ込む。何を食って帰ろうか、寒いし、いつもどおりの定番でラーメンか。
 そこでピンときた。いろんな場面が頭の中に蘇る。そうだ、これしかねえ。

「おい、ちょっと戻んぞ」

 何スか、オレもう腹ペコペコなんだけど、とぼやくヤツの言葉は聞こえていないふりをして、踵を返して通りすぎたばかりのファッションビルへと早足で戻る。今、もうこの勢いでいくしかないと思ったからだ。やっと思いついたそれを、彼女が喜んでくれるといい。


***


「あ、お母さん? ごめんね、電話いままで気づかなくて」

 今日は午前中の講義に出てから午後に二社の会社説明会に足を運んだ。就活用に新しく新調した履き慣れないパンプスのせいで二箇所もマメが出来てしまった。
 驚くほど疲れてしまい何もやる気が起きない。夕ごはんは昨日の残り物をあっためればいいや、と思ってコンビニで牛乳だけを買ってアパートへの道を歩きながら、私は着信履歴から実家の母親に電話をしている。
 大通りを行く人にぶつからないように歩きながら「最近寒くなってきたけど風邪引いたりなんかしてない?」と、久々に聞いた母の声にほっとする。娘を心配する優しい声を聞きながら、やっぱりあんな目にあったことは言えないなと思った。あの出来事があってから、街灯が少ない家まで最短距離の住宅街を抜けるのは控えている。

「お正月は帰ってくるんでしょ、年越しどうするの?」

 そんな母の言葉に「冬休みに入ったらすぐ帰るよ」といつも通りに返そうとしてはっとした。そういえば、三井くんは大晦日とかどうするんだろう。

「あ、あのねお母さん、私……ええと」

 実は彼氏ができたの、と伝えると、電話の向こう側の母はしばらく沈黙してしまった。が、すぐに「いつから!? お母さん聞いてないわよ、なんでもっと早く報告しないの!」とテンションが最高に上がっている声が私の鼓膜を大音量で揺さぶった。

「お父さんにはまだ秘密にしとくから。今度ちゃんと彼の写真みせなさいよ! あ、そういえばお野菜送っといたから」

 おそらくそれが本題だっただろうに、と苦笑いする。ありがとう、と返事をしながら、私はコンビニの小さいビニール袋と、先ほどファッションビルで購入した物の入った紙袋に目を落とす。悩んで悩んで、やっと決まった彼へのプレゼント。ふらりと入ったファッションビルで見つけたそれを、彼が気に入ってくれたらいいのだけど。
 また連絡するね、と言って通話を切りながら、肌を刺すような冷たい風にぶるっと身震いする。私は首に巻いたマフラーを直しながら、冷えた手のひらに息を吹きかけた。


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