17.

 ぐっすり眠れたかと聞かれたら、たぶんその真逆だ。たぶんというのは、寝たような寝てないような、気づいたら朝が来ていたという感じだったからだ。
 今日ぐらいは講義を休んじゃってもいいかな、という気持ちが頭を過ぎったりもしたけれど、これ以上違う罪悪感で心労を重ねたくはない。
 心の中で「がんばれがんばれ」と弱弱しく自分で自分を鼓舞しながら、ゆっくりと体を起こして顔を洗いに洗面所へ向かう。鏡に映った私の瞼は今までの人生において優勝できるぐらい腫れていて「うわあ」と思わず声に出してしまった。冷凍庫にあった小さい保冷材をつかみ、応急処置のつもりで瞼を冷やす。
 カーテンを開けると、私の気持ちとは裏腹に晴れた冬の空が広がっている。窓を開けたらピンと張りつめた澄んだ空気に背筋が伸びて、深呼吸をしてから小さい声で「よし」と呟いた。


***


 と、気合いを入れてはみたものの、やっぱり注意力が散漫でどうしようもなかった。講義を受けていてもモヤモヤは止まらないし、話や文字が全く頭に入ってこない。影響されすぎている自分にいよいよ嫌気がさしてくる。
 面と向かって話をしなくちゃと思う気持ちと、どう向き合えばいいのか、どう切り出せばいいのかと悩む自分。話をしてしまったらそれでこの関係は終わりだ。それがわかっているから此の期に及んで二の足を踏んでしまう。
 携帯を開いて、前に教えてもらった三井くんの連絡先を眺める。彼の連絡先を教えてもらってから、実はまだ連絡をしたことがなかった。週に一度は講義で顔を合わせていたし、一緒に夕食を食べていたし、家にいるなら直接会話をすることができていたからだ。
 意図せず深いため息がでる。ため息をついたらついただけしあわせが逃げていくなんていうけれど、あながちそれは間違いではないのかもしれない。

『三井くん、苗字です。お時間あるとき、直接お話したいです』

 彼のメールアドレス宛てにその文章だけを打ち込んで、最後に携帯の番号を記載する。送信ボタンをひとつ押すだけで、すぐにこのメールは飛んでいく。それなのに、私はまだそれを押す決心がつかないでいる。
 寒空の下、外にあるベンチに座っている学生はほとんどいない。静かな図書館に行きたい気分でもなければ、カフェスペースのガヤガヤした雰囲気の中に身を置いていたくもなかった。
 口元まで巻きつけたマフラーと、目の腫れを隠すためにかけてきた大きめの伊達眼鏡のせいで、傍から見たらちょっと怪しい人に見えてしまっているかもしれない。口をついて出る息は白い。自販機で買ったホットミルクティーの缶で手を温めながら空を見上げる。

「あ、やっぱり名前さんだ」

 突然視界に入ってきたのは、宮城くんの人懐こそうな顔だった。私はびっくりして手に持っていた缶を落としそうになったが、なんとか寸でところでそれを回避できた。
「ごめん驚かしちゃって。てか眼鏡かけてんだ、雰囲気違うね」
 頭良さそうじゃん、と言いながら隣に座る宮城くん。いったい普段の私はどんなふうに見えているのだろうか。でもまあいいや、それよりも今は三限の講義中のはずなんだけど。

「今は講義空き?」
「えーと……いや、なんつーか気分じゃなくて。友達に代返頼んじゃいました」

 要するに、サボってふらふらしていたらしい。でも今日の私は彼のことを責められない。病気でもないのに大学を休むのが嫌で来てみたものの、じーっと聞くだけの講義に出ていたら頭の中がモヤモヤして仕方なかった。二限には頑張って出てみたけれど、結局三限は自主休講という名目でサボってしてしまった。つまるところ、私も同じなのだ。

「名前さんもサボりっしょ。つーかなんでこんな寒いところでポツーンとしてんの?」

 朝練の時、三井さんが名前さんの具合がよくないみたいって心配してたし、こんな寒いとこにいたらだめじゃん、と宮城くんが言う。予期せず出てきた彼の名前に私は思わず目を泳がせてしまった。
 今は三井くんの話を聞きたくなかった。体調が悪いだなんて嘘だし、そもそもただの気持ちの問題だ。本当に心配してくれているらしい彼の事を考えながら、胸がまたぎゅっと軋む。ミルクティーの缶を両手で握ったら、金曜日に擦りむいた手のひらがピリッと痛んだ。

「あれ、っていうか目めっちゃ腫れてんじゃん、どうしたのそれ」

 だから眼鏡かけてんだ、と心配そうにこちらを覗き込んでくる宮城くんの言葉に、上手く返事を返すことも相槌を打つことも出来なくて、ただただ苦笑いするだけにとどまってしまう。宮城くんは「え、ちょっと」と漏らしてから、少し間を置いて口を開いた。

「もしかして、三井さんとなんかあった? あの人早速なんかやらかしたんかよ」
「違うの! なんていうか、私が舞い上がって勘違いしてたっていうか」
「どういうこと?」
「おんなじ気持ちなんだって思ってたけど、私が危なっかしいからほっとけなかっただけだったみたい。三井くんバスケで忙しいし、足引っ張りたくなかったのに結局引っ張っちゃった」
「えーと、ちょっと待った。ねえ、名前さん何言ってんの?」

 宮城くんの表情が変わる。 

「大学入ってからバスケ三昧で他に目もくれなかったあの人が、あれだけしあわせそうにしてんのオレ初めて見たんスよ」

 ちょっと気持ちワリいなって引くぐらいにさ、と宮城くんは続ける。私はこくんと息を飲んでから、下を向いて自分の膝に視線を移す。こんなに彼のことを好きで好きで仕方がなくても、それはダメなんだってやっと認められそうなのに。

「オレが勝手にこんなこと言ったら三井さん怒りそうだけどさ、あの人は間違いなく名前さんのことすげー好きだよ」

 めちゃくちゃ好きだと、そう言ってくれた三井くんの言葉が頭の中に蘇る。涙が出るほどうれしかったあの言葉は一生忘れられない気がした。だけどそれじゃあ、昨日彼が食堂で周りの人に言っていたあの言葉はどういうことなのだろう。

「……彼女とか、そういうの作ってる余裕もかまう時間もないって」
「え?」
「周りの友達に言ってるの、昨日たまたま聞いちゃったの」

 宮城くんは「はあ!?」と声を荒げた。たまたま聞いちゃっただけなの、聞くつもりもなくて、と言葉を続けたら、眉間に皺を寄せて空を見上げた宮城くんがひとつ息を吐いた。

「三井さん、本命童貞だからなあ……」
「ほんめいどうてい?」
「あー、いやコッチの話。あの人のこと擁護するわけじゃないし、これに関しては三井さんが全面的に悪いと思うんだけど、なんていうか」

 ちょっとだけ待ってやってくんねーかな、と宮城くんは続けた。

「とりあえず任しといてよ。オレさ、こう見えて実は結構アンタたちのこと応援してんスよ」

 宮城くんは軽くウインクしながらそう言った。任せて、とはいったいどういう意味だろう。応援してると言ってくれたのはうれしいけれど、三井くんの気持ちとこれからを考えたらつなぎとめたいわけでもないので戸惑ってしまう。

「それはさておき、名前さんマジであんまり顔色よくねーな。このあと講義は?」
「えっと、今日は三限で終わりだけど」
「じゃあ無理せず帰りなよ。本当に風邪引いたらヤバいし」

 あとはこの宮城リョータに任せて任せて、と宮城くんは私をベンチから立ち上がらせる。冷めたミルクティーの缶と携帯を握りながら、彼の勢いに負けて私はこくんと頷いた。
 なんだかよくわからないけれど、宮城くんと会話することでちょっとだけ頭の中が整理できて、まともになってきた思考回路で考えてみる。彼の言うとおり、こんな調子で風邪までひいてしまうのは避けたい。

「それとそのメール、まだ送っちゃダメッスよ」

 私が握っている携帯を指さしながらそう言った宮城くんは、たぶんきっと私なんかより遥かに大人なのかもしれない。


 ***


(宮城視点)

 名前さんと別れたオレは、目的地を真っ先に図書館とした。三年になってから、三井さんが空いた時間は図書館に通っていることを知っていたからだ。あの人が何をしてるのかとかはよく知らないけれど、結構真面目に勉強に励んでいるらしい。
 火曜日の体育館は、六限の体育の講義が終わるまで使えないので基本的に練習は休みだ。体育館を使えないので中で自主練をしている線はない。もし図書館にいなかったら外でも走っているのだろう。そんなわけで、たしかこの曜日は午前中しか講義を取っていないと言っていたあの人がさっさと帰ってなきゃ、たぶんまだ学内のどこかにいるだろうと推理したのだ。
 で、図書館で早速見つけた。何らかのテキストを開いてルーズリーフにペンを走らせている三井さん。うーんと眉根を寄せながら顎に手を当ててテキストの上にマーカーを引く。どうやら本当に、しかもめちゃくちゃ真面目に勉強をしているらしい。なんかすげえレアなもん見ちゃった気がする、今度赤木のダンナにでも報告しよう。

「三井さん、ちょっと話あんだけど」
「うおっ! なんだよ、ビビらせんな」

 発した言葉のとおり、あからさまにビクついてる三井さん。思っていた以上に集中していた様子だ。なんだ、という風に目を細めながらオレが隣に座るのを待っている。

「いや、ここじゃなくて外で」

 三井さんはしばらく訝しげにオレのことを見ていたが、重要な話であると察したのか、文句を垂れることもなく「ちょっと待ってろ」と言ってからテキストやら筆記具やらをドサドサと乱暴にリュックに詰め込んだ。

「おー、さっむ……」

 こないだまで夏だったのにな、と三井さんは震えながら独り言のように呟く。
 図書館を出ると、吹きつけてくる冷たい風にオレは体を縮めた。三井さんは寒さのせいか若干猫背気味で、羽織ったモッズコートのジッパーを上まで上げながら「で、何だよ話って」と口を開く。どうやら全く身に覚えがないらしい。そりゃそうだ、たぶんこの人は彼女が受け取った意味であの言葉を発したつもりがないのだから。

「アンタ昨日、食堂で彼女作っても構えないとか時間に余裕ないとかって話してたっしょ?」

 三井さんは「なんでおまえがそんなこと知ってんだよ」と低い声で探るように言った。やっぱり言ってたんだ。まあ、名前さんがそんな嘘つくわけないけど。オレが何も言わないでいると、三井さんは右手で顎のあたりを触りながら、落ち着かない様子でベンチに座った。

「あの時はそんな流れでよ。そうでも言わねえとあいつらしつこくて」
「それ、たまたま傍にいた名前さんが聞いてたって言ったら?」

 三井さんは「は!?」と声を上げてカッと目を見開いた。まあそういう反応になるだろうとは思っていたけれど、見る見るうちに目を泳がせながら動揺し始めている。女の子の扱いとかそういうことに全く慣れていない、バスケ以外の事となると途端に不器用を発揮させるこの人でも、今この状況が明らかに自分と彼女の関係にすれ違いを生じさせているのだということに気づいたらしい。

「……おい、マジかよ」
「冗談でこんなこと言わねえって」

 膝の上に肘をつき、頭を抱えながら深く息を吐く三井さん。

「なんだ、その……今までそういうの作らなかったのにいきなりカノジョ出来たなんて言ったらよ、周りの奴らがギャーギャー騒いでアイツも迷惑すんだろうと思ったんだよ」
「そんなことだろうと思ってた。けどさ、それ聞いた名前さんがどう思ったか、それぐらいわかんだろ?」
「……だからあいつ、昨日元気なかったのか」

 もしかしてこの人、昨日名前さんに会いに行ったのだろうか。三井さんに悪気はなくとも、名前さんはめちゃくちゃしんどかっただろうな。三井さんに悟られないように対応したであろう彼女のことを考えたらかわいそうで仕方なくなった。今度遊びに行くとき、またお土産でも持って行こう。

「男見せてくださいよ、三井さん」
「宮城、名前がどこにいるか知ってるか?」
「さっき帰ったよ。オレさ、名前さんに夢中で必死でいつも以上にポンコツ発揮しちゃってるアンタのこと、正直嫌いじゃないッスよ」

 だからちゃんと頑張ってきてよ、と背中を軽く拳で叩く。
 言いたい放題言いやがって、と三井さんは毒づいてきたが、その言葉に怒りは含まれていない。いつの間にか長くなっていた付き合いでそれぐらいはわかっていた。
 よし、と自らに喝を入れるかのように声を発して立ち上がった三井さんが「オメーには今度なんか奢らねーとな」といいながら駐輪場の方へと駆け出していく。その背中に「駅前のラーメン大盛でいいよ、トッピング全部盛りで!」と返す。返事をするように握った拳を上に掲げた三井さんの背中を眺めながら、とりあえずお膳立ては出来たことにほっとする。

「かー、さみぃ!」

 急に吹きつけてきた風に震えながら、ジャケットのポケットに両手を突っ込む。あとは二人でなんとかしてくれよな。全く、世話の焼けるカップルだ。
 ほんの少しだけ笑いながら、心のなかでそう呟いた。


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