7(side.A)


 なんで逃げ出しちゃったんだろう。あんな一言ぐらい、さらっと流せた筈なのに。ムキになって、子どもみたいに喚き散らしてしまった。正直もう、三井さんに合わせる顔がない。
 しかし、今となってはそれで良かったのかもしれない。だって、しばらくはこれで彼と関わらないで済む、心をざわつかせずに済むのだから。それにきっと、あの人も急にあんな態度を取った私に構いたいなんてもう思っていないだろう。
 しかし、返事をしないままというのはなんとなく気持ちがわるかったので、退勤する直前ギリギリに、意を決してチャットの返事を飛ばすことにした。

『夕方は申し訳ありませんでした、気を悪くさせてしまったと反省しています。来週ですが、やっぱりまだスケジュールが読めないので今回はお断りさせてください』

 また機会があればお声掛け頂けたらうれしいです、とそのままの流れで最後に付け足した文章はだけ、少し考えてから送らずに消した。
 たったこれだけの文章を考えるのにえらく時間がかかってしまった。最後の最後にものすごい疲れることを残しちゃったな、と腕を伸ばして伸びをする。首も肩もひどく凝っているのがわかる。
 腕時計に目をやると、時計の短針は二十時を回っていた。今日は退勤後に高校時代からの親友と約束があるのだが、今日中に崩さなくてはならない事務仕事が捗らず、約束の時刻である二十時には間に合わないであろうことを、夕方の時点で伝えていた。
 そして、予想通り間に合わなかった。先に遅れるって連絡しておいてよかったな、と息を吐いて携帯の画面に目をやると、私の送った『ごめん、三十分ぐらい遅れるかも』という文章に『一時間までなら許すわよ』という簡潔なレスポンスが返ってきていた。
 あの子らしいや、と苦笑いをしつつ、ようやくパソコンの電源を落とす。暗くなった画面に疲れ切った自分の顔が映って、思わず小さく首を振る。こんな顔で現れたんじゃ開口一番「ちょっと名前、アンタなによその顔」と目を細めながら言われてしまうに違いない。


***


「梅ちゃんごめん! お待たせ!」

 会社から電車で三十分ほどの場所にあるバーは、私たちが顔を合わせるのにいつも使ういきつけの店である。それは決まって金曜日で、大体一ヶ月に一度ぐらいはこうして顔を合わせ、他愛もない会話を交わしながらお酒を飲んで、ほろ酔い気分でじゃあまたね、と別れるのだ。
 でも、今回は少しばかり期間が空いてしまっていた。確か最後に梅ちゃんに会ったのは、ちょうど三井さんと出会う直前だったと思う。

「ちょっとアンタ、その顔どうしたのよ」

 疲れ切ってます、って顔中に書いてあるわよ、と言いながらトントン、と横の席を軽く叩いた梅ちゃんは、心配そうな表情で眉根を寄せている。一応駅のお手洗いでお化粧直したんだけどな。化粧を直すぐらいでは、この子の前で取り繕うことは出来ないみたいだ。
 梅ちゃんこと梅村源太郎は、こんな口調であるがれっきとした男性である。モデルみたいな長身と洗練されたクールな美しさで、ぱっと見は女性に見られることが多い。心はちゃんと男性なのだが、本人曰く「男も女もいける」らしい。
 梅ちゃんは色素の薄い長い髪を耳に掛け直しながら「で、何飲む?」と私に問うてくる。目の前でグラスを磨いているボーイさんに「じゃあ烏龍茶で」と言いながら席に着くと、彼は長いまつげで縁取られた切長の瞳をぱちくりとさせた。

「……あらら、ほんとに疲れてるんだ」
「ちょっと色々あって、今はお酒控えてるの」

 ふーん、と軽く流してくれたけれど、きっとこの親友には話す前から何かがあったのだとバレてしまっているに違いない。

「……あの、じゃあ吐き出したいことがあるんだけど、話聞いてくれる?」

 梅ちゃんは呆れたようなため息を漏らしたのち、眉尻を下げて困ったように目を細めながら「いちいち確認取るようなことじゃないでしょ」と私の頬を軽くつついた。同い年なのに、まるで姉のようだ。いや、兄かな、と考えてから、きっと梅ちゃんは「姉でも兄でもどっちでもいいけどね」と笑うに違いないな、と思った。
 私は要領が悪くて、自分の中のモヤモヤを晴らすのがへたくそで、燃費だって良くない。溜め込んで、溜め込みすぎて抜けなくなった毒をこうして抜いてくれる存在が居るっていうのは、これ以上ないぐらいに心強くて恵まれていると思う。

「こないだ梅ちゃんとここで会ったあとの日曜日ね、友達の結婚式に出たんだけど」

 そのあとにどうやら初対面の人と寝ちゃったっぽくて、と続ける。烏龍茶の入ったグラスを揺すると、カランと氷が鳴る音がした。ほんの少し驚いたように目を見開いた梅ちゃんの表情を確認しながら、ぽつぽつと言葉を紡いでいく。
 起きたらお互いに記憶が無かったこと。ホテルの前で別れて、急いで家に帰って身支度を整えたこと。ギリギリ始業前に会社に駆け込めたと思ったら、なんと始業して最初の面談相手がその彼だったこと。
 梅ちゃんは何故かその瞳を爛々と輝かせ、ワクワクしているのを隠すこともなく子どものような表情を浮かべている。これはもう、間違いなく「なにそれ面白すぎるじゃない」とか思っているに違いない。

「やだあ! なんかそれ、ドラマみたいな展開ね」
「うん、同僚の先輩にも言われた」
「でも夜九時台とかにやってるのじゃなくて、金曜とか土曜の日付変わる直前ぐらいから始まるようなやつ」

 言いたいことはなんとなく伝わってきたので、私は思わず苦笑いしていた。ドラマみたいなんて言いつつも、キラキラした出会いでも再会でもない。そしてそれは寧ろ、私にとっては苦悩の始まりだったのだし。
 頭の中に三井さんのぶっきらぼうな顔が浮かぶ。通常装備みたいに深く刻まれた眉間のシワのせいで、第一印象はまず「とっつきにくそうな人だな」と大半の人は思ってしまうに違いない。現に、私だってそうだった。
 あの朝、ホテルの前で三井さんと別れて、それからものの二時間も経たないうちに再会して。でも、あの時のことは気にするだけ無駄だって思ったから、お互い気にしないようにしましょう、という提案をしたのだ。二人とも記憶が無くてよかったと、心底思っていた。
 それなのにどうしてだろう。もう私になんて構わなければいいのに気にかけてくれるあの人と、それをすんなりと受け入れてしまった自分。間違いなく、彼といる時の私はサチ子さんや梅ちゃんといる時と同じく、取り繕わない素の自分だった。

「名前はなんていうか、完璧そうに見えてちょっと危なっかしいのよね」
「……それ、三井さんにも言われた」
「へえ、その人三井さんていうんだ?」

 きっと、三井さんの中にある私への後ろめたい気持ちは、まだ消え去っていないのだろう。普通なら、私なんかともう関わりたくないに決まっている。だけど、あの人は面倒見が良くてちょっとだけおせっかいで、そしてお人好しだから、そう上手く切り替えることが出来なかったのだとと思う。
 だから今日の出来事は、もしかしたらいいきっかけだったのかもしれない。私もあの人も、これでもう無駄に悩み続ける必要なんか無くなる。

「でも名前がそうやって緩んだところ見せられるのって、学生の時から変わらず気を許せる相手にだけよね」

 例えばアタシとかね、と梅ちゃんは笑う。

「たぶん、アンタは無意識なんだろうけど」
「梅ちゃんのことは大好きだし、それに親友だと思ってるもん」
「じゃあ、その三井さんは?」
「わかんない。……けど会社の人だし、出会い方だって最悪なのに、なんでか気を張らないでいられるの。ヘンだよね」

 開き直って全てを晒してしまったから、だから無理に自分を繕わなくてもいいんだって思っていた。ぐいぐいとこちらの領域に踏み込んでくるあの人を、どうしてか不愉快に思わなかった。会社の人との距離は、ある程度を保たないと業務に支障が出ると思っていたから一線を引くようにしていたのに、最初にランチに誘われたことだって、驚きはしたけどうれしかった。
 今日だって、またランチに行こうと誘われて複雑に思ったのは疑り深くて素直じゃなくて、かわいげのない自分が顔を出してしまっただけで、本当はすごくうれしかったのに。

「アタシへの好きと、その人への好き。言葉としては一緒だけど、本当は全然種類が違う好きなんじゃないの?」
「種類が違う好き……?」
「そ、恋してる方の好き、とかね」

 初めてランチに誘われてお蕎麦屋さんに行った時、思わず親への愚痴を零してしまった。またおすすめの店ってのに連れてってくれよ、と言った彼の眩しいほどに屈託のない笑顔は、今だってハッキリと思い出せる。
 執務室のフロア前で苦手な社員に絡まれていた時は、へたくそな演技で助けてくれた。あんま無理すんなよ、と私の顔を見ながら叩かれた肩。その後は、しばらくその場で立ち尽くしたまま呆けてしまった。
 運動会の時は、あの手のひらで頭を撫でられた。三井さんはきっとなんの気なしにそんなことをしたのだろうけれど、あの時の私は確かに動揺していた。ホラー映画を見ているときのドキドキでも、全力疾走して勢いよく電車に駆け込んだ時のドキドキでもない。あの時、トクンと確かに鳴ったいつもとちがう胸の音は、やっぱりそういうことだったんだ。
 本当はわかっていたのに。惹かれちゃいけないって、そうだって認めちゃダメなんだって、知らず知らずのうちに自分で自分の気持ちにブレーキをかけていた。だって、好きになっても報われなくて苦しいだけだってわかっていたからだ。あんな出会い方をした私たちの距離は近いようでとてつもなく遠くて、そしてこれ以上縮まることはない。
 だから、夕方のモヤモヤだってそういうことじゃないって思い込むようにしていた。受付の愛嬌のある女の子たちと比べられたことでムッとしてしまったのだって、どうしてなのかちゃんとわかっていたのに。
 出会ってからこれまでの三井さんとのやりとりとか、彼の表情なんかが頭の中に次々とぽんぽん浮かんで、私の脳みその容量を圧迫していく。この気持ちの存在、そしてその意味に、本当はとっくに気づいていた。
 人に言われて、決定打を打たれて、どうしても認めてあげなくちゃいけないギリギリの崖まで追い込まれて、そこでようやく頑固すぎる自分の気持ちを認めざるを得なくなるなんて。

「名前ってば赤くなっちゃって、かーわいい」

 冷やかすように言ってくる梅ちゃんに、何か言い返してやろうと勢いよく首を向けたけれど、言い返せる言葉なんてなにひとつ浮かんで来なかった。顔が熱くて、なんだか目の奥までじんわりと火照っているように感じる。だって、いま彼が指摘した私が抱く三井さんへの感情は、思いっきり図星だったのだから。

「やだなあ、今頃好きな人が出来ちゃうなんて……」

 両手でグラスを持ちながら、吐き出したため息はその中へと落ちてゆく。
 その出来事を忘れてしまっているとは言えど、うっかりワンナイトしてしまった相手を好きになってしまうなんて。それを認めたら、なんだかおなかの奥がむずむずとかゆいような、くすぐったいような気持ちになってきた。
 呆れちゃう。会社の人にそういう気持ちを抱くの、ぜったいいやだったのに。

「ねえ、名前はその三井さんとどうなりたいわけ?」

 三井さんとどうなりたいのかなんて、考えたこともなかった。
 とりあえず、今わかっていることはこれが実るはずもない片思いであるということだけだ。だって、私に対して後ろめたい気持ちを抱いている彼が、私をそういう対象として見るなんてあり得ないことからだ。
 お付き合いをしたいのか、想いをちゃんと伝えたいのか。どちらもまだしっくりとこない。

「わかんない。けど好きってちゃんと認めたら、吹っ切れてちょっとだけ楽しい気持ちになってきちゃったかも!」

 照れくさい気持ちを抱えながらも、それはまごうことのない本心だった。認めちゃったら苦しいだけだと思っていたけれど、そのモヤモヤに知らんぷりをして存在を無視している方がしんどかったみたいだ。
 梅ちゃんは目を細めて優しく笑うと、まるで下の妹にやるような手つきで私の頭を優しく撫でた。

「アンタ、そういう素直で屈託のないかわいいところもっと出してきなさいよ」
「私がそういうの出来ないって、梅ちゃんがさっき言ったんだよ」
「はいはい、そうでしたね」

 そうしたらきっとその三井さんだってイチコロなのに、なんて言う梅ちゃんに一瞥を投げたら、おなかがきゅう、と小さく鳴いた。そういえば、執務室でカップスープとサンドイッチという軽めの昼食を終えてから、その後はコーヒー以外はなにも胃に収めていないことを思い出した。
 軽食のメニュー手を伸ばし、それに目を通しながら「ぜんぶ吐き出したらおなかすいちゃった」とひとりごとみたいに呟くと、梅ちゃんが「いいわよ、今日は奢ったげる」とニヤニヤしながら言った。その表情にほんの少し物申したい気持ちを抱えつつも、今晩だけは親友のありがたい提案に甘えてさせてもらうことにしよう。



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