5.


 せっかくの土曜日なのに。
 体育座りをしながら膝を抱え、ひっそりと吐き出してしまった本日何度目かもわからない小さなため息は体育館の床に落ちて消えていく。
 首に引っ掛けた鮮やかなグリーンのハチマキを指で弾きながら「なんでオッケーしちゃったんだろう」と頭の中でこれまた何度目かわからないぐらいの後悔を繰り返す。都内のとある複合施設の中にある体育館の中で、いい大人が約百人ほど集まって社内運動会なんて、どうでもいい企画を一体誰が考えたのだろう。
 働きやすい会社ではあるが、面倒だなと感じることもある。それが五月の大型連休中に開催されるバーベキュー会、年末のボウリング大会、そして現在行われている秋の運動会である。
 現在進行形で開催中のこの社内運動会は、各部署で十人ほどが集まってチームを作り、企画された種目に挑んでポイントを競い合うという至極わかりやすいイベントである。
 この会社に入社して長いが、業務的に部署として括られることもなく悠々自適に過ごしてきていた私は、今まで「総務課チームに入らない?」と声を掛けられてもやんわりとスルーして事なきを得ていた。
 休日なのに、なんだって会社のイベントになんかに参加してるんだろう。そもそも、そんな話が私に回ってきたのは今週の火曜日のことだった。

「名前ちゃん、いきなりだけど今週の土曜日って空いてないかしら……?」

 昼休み、私の執務室に入ってきたサチ子さんは眉をハの字にしながら困ったような表情で言った。予定はなにもないですけど、と首を傾げながら素直に答えてしまったのが失敗だった。
 彼女の話によると、総務課でギックリ腰になってしまった人が居て、週末の運動会の人数が割れてしまったので一緒に参加してほしい、というものだった。
 正直、ものすごい怠い。ものすごい面倒くさい。そしてとんでもなく嫌だ。これ以上ないってぐらい参加したくない。そう思ったけれど、他でもないサチ子さんからのお願いである。しかも、一応は顔見知りが多い総務課チームで、そしてサチ子さんも居る。
 百歩譲って、いや千歩譲ってここは義理を通すつもりで我慢して、一回ぐらいは参加しておくべきなのかもしれない。それに、一度参加しておけばこれからは罪悪感を感じずにお断りしやすくなるのでは、と思った。
 でもまあ、今となってはそれがそもそもの間違いだった。すぐに思い直して「予定思い出しちゃいました」とでも言ってしまえばよかったのに、私って思いのほか人が良いのかもしれない。

「わかりました、でも出場する競技は簡単なの一種目だけでもいいですか……?」

 それぐらいはわがままを言ってもいいだろう、とお願いしてみたら、サチ子さんは顔をぱあっと明るくして「もちろんよ!」と私の手をぎゅっと握りしめながら言った。
 そんなわけで私は今、目の前で行われているバスケットボールの対抗戦を眺めながらぼんやりしゃがみこんでいる。
 行われているのは経営企画部と営業部の試合である。なかなか白熱しているようだが、得点板が更新されていくのは営業部ばかりだ。
 得点が決まり、ピーっと吹かれた笛の音のあとで拳を握って小さくガッツポーズをしているその人──もとい三井さんは、子どもみたいな笑顔を見せながらチームのメンバーとハイタッチを交わしている。
 真面目で律儀で世話焼きで、そんでもってスポーツまで出来ちゃうんだ。一見取っ付きにくそうで威圧感あるし、頑固で生きるの大変そうだなって思うところもあるけれど、欠点という欠点は今のところそれぐらいしか見当たらない。
 ラフなTシャツを肩口まで捲り上げ、鍛えられた二の腕を惜しげも無く露出している三井さんは、これぞまさしく八面六臂の大活躍である。
 ゴール近くで受けたボールをスムーズな動きで放ると、そのボールは魔法みたいにゴールリングへと吸い込まれていく。ディフェンスもドリブルもパスワークも、なんていうか素人のそれじゃない雰囲気がある。学生時代、バスケやってたのかな。
 いつの間にか見惚れてしまっていたことにハッとして、急に恥ずかしくなってきた。いや、見惚れてたっていうか、目立つから自然と目で追っちゃってただけだもん。どのスポーツでもそうだ、その時に活躍している人物に注目してしまうのは自然なことに違いない。
 そんな言い訳みたいな言葉を頭の中で繰り返しながら、またひとつ息を吐いて膝に顔を埋める。サチ子さんによると、毎年全部ひっくるめた総得点で総合優勝しているのは営業部チームらしい。さすが外回りのプロたち、体育会系である。
 実際のバスケの試合よりは全然短い十分間の試合が終わり、二倍以上得点の差をつけて営業部チームが勝利してしまった。
 バスケはたぶんこのまま営業部チームが優勝してしまうのだろう。だって、この営業部チームと決勝戦で優勝を争うのは、三十代後半から五十代で構成された我が総務課チームだからだ。どうあってもこてんぱんにされるのを、じっくり見ていたいとは思わない。
 悔しいけど認めます、バスケをやっている三井さんはものすごくかっこよかったです。私が中学生とか高校生だったなら見事にときめいてしまっていたに違いない。元来女子というものは、スポーツで活躍しているキラキラした異性に弱い生き物なのだ。
 あーあ、はやく帰りたい。私は先ほど唯一出場したパン食い競争で獲得したあんバターフランスの袋を握りながら、でもこれはいい戦利品だったな、とこっそり笑みをこぼす。
 会社近くにあるカフェの中に併設されているパン屋さん。知る人ぞ知るその店のパンは、シンプルで飾り気のない物ばかり。バリエーションも当たり障りがない感じだが、何を食べても外れないので私のお気に入りの店のひとつだ。認知度の高い店ではないはずなので、パン食い競争のパンを手配した人はきっとグルメだと思う。仲良くなれそうな気がする。

「三井さん、すごかったですー!」

 そんな黄色い声に落としていた視線を上げると、タオルで汗を拭う三井さんが何人かの女子に群がられているのが視界に入ってきた。ピンク色のハチマキを首から下げたり、カチューシャのようにかわいらしく巻いている彼女らは、間違いなく受付担当の女子チームだ。
 あの人のあの見てくれであれだけ大活躍をすれば、そりゃ囲まれもするよね。その様子を横目で眺めながら、私には彼女たちのような愛嬌もなければかわいげだってないのだ、と卑屈な気持ちになってきた。やっぱり来なきゃよかった。来年は何が何でも断ろう。
 ちょっとだけ困ったような、ぎこちない笑顔のようなものを浮かべつつ満更でもなさそうな三井さんと、相変わらず彼を囲んで盛り上がる営業部メンバーと受付チームの女子たち。原因不明のモヤモヤした気持ちと、不愉快な胸のつかえに顔をしかめながら、立ち上がって体育館の外へと足を向ける。

「はやく帰りたい……」

 体育館を出て、少し離れた場所にあるベンチに座りながら、思わず漏れ出た言葉と自分の声は思った以上に疲れ切っていた。こんなの、まるで業務とおんなじだ。寧ろ、手当も出ないのだから業務よりひどい。明日は泥のように寝て過ごしてやる。
 なるべくつまらなそうな振りはしないようにしようと、頑張っていつもどおりににこにこと対応していたけれど、流石に疲れ果ててしまった。サチ子さんには申し訳ないけれど「体調悪いので」とか言ったら、結果発表と閉会式まで残っていなくても許されるだろうか。
 手に持ったままだったあんバターフランスの封を破り、手でちぎって口に放り込む。こしあんの甘さとバターの塩っけが混ざり合い、程よいかみごたえのあるフランスパンが疲弊した体にじんわりと染み渡る。すごい、甘いもの食べただけでびっくりするほど回復しちゃった。

「それ、隠れて食うぐらい好きなのか?」

 そう声を掛けられるまで、その人が私の横に座ったことにすら気づいていなかった。
 びっくりして目をパチパチさせながら横を見ると、スポーツタオルを首に引っ掛けて目を細めながら、ニヤリとした笑みを浮かべている三井さんが居た。

「なんで!? なんでいるんですか!?」
「苗字さんがフラフラ出てくの見えたからよ。なんか今日、ずっと調子悪そうだったし」

 なんで見てるんですか、というかわいげのない言葉を寸でのところで押し留め、私は首を振りながら「なんでもないです、大丈夫です」と小さな声で返事をする。これはただのイヤイヤ病なんですなんて、大人としてあるまじき理由を正直に白状できるわけがない。

「私、業務外のこういうイベントあんまり得意じゃなくて。でもお願いされちゃったので来たんですけど」

 やっぱりちょっと疲れちゃいました、と精一杯オブラートに包んで伝えながら、もう一口パンをちぎって口に含む。
 なんでこの人に愚痴なんかを吐いているのだろう。っていうか、なんでこの人はわざわざ私なんかを追いかけてきたのだろう。あの輪の中でわいわいしてる方がよっぽどいいだろうに。

「まあ確かにめんどくせーよな、大体本来は今日って休みなわけだし」
「えー? 受付の子に鼻の下伸ばしてたのに?」

 思わずそんな言葉を返してしまってから「あれ、なんで私こんなこと言ってるんだろう」と頭の中がちょっぴり混乱した。三井さんはというと、瞬く間に眉間に皺を寄せ、カッと目を見開くと「鼻の下なんか伸ばしてねーよ!」とそこそこのボリュームで即座に反論してきた。

「むしろ困ってたんだよ!」

 だから別に喜んじゃいねーぞ! と必死になって弁解しようとしている三井さん。それが不思議で、そして無性に可笑しくて、私は思わず噴き出すように笑ってしまっていた。
 無理やりに作った笑顔じゃなくて、今日はじめて心の底から溢れてきた愉快な気持ち。込み上げてくる愉快な気持ちを我慢していたらたちまちおなかの奥が引き攣って、我慢しきれずにとうとう声を上げて笑ってしまっていた。
 笑いすぎて涙が滲み始めた視界の中で、驚いたように目を丸くしながら呆気にとられている三井さんの顔がうっすらと歪んで見える。

「なんだよ、元気じゃねえか」

 まだどこか訝しげな視線を私に向けながら、三井さんは唇と尖らせてごちるようにモゴモゴと言った。

「三井さんのお陰で憂鬱だったのがどうでもよくなりました、ありがとうございます」
「……なんか釈然としねえけど、スッキリしたならよかった」

 苗字さんて、ほんとオンオフで違うっつかめちゃくちゃ燃費悪ィのな、と続けながら、三井さんは目を細めてその大きな手を私の方に伸ばしてきた。え、と声を上げる間も無く、その大きな手でよしよしと頭を撫でられる。男の人にそんなふうにされたのはいつぶりだろう。
 どうしようもなく泣きたい気持ちなのに、おなじぐらい胸の奥がじんわりと熱い。頭を撫でられることって、たしかセラピーみたいな効果があったような気がする。まあ、さすがに私が業務で社員相手に取り入れることは出来ない方法だけど。

「よし、じゃあお疲れ様会でもしに行くか」
「いや、でもこのあと全体で飲み会があるって聞いてますけど……。そっち出なくて平気なんですか?」
「そんなんめんどいの、出ねえに決まってんだろ」

 気ィ使うだけの社内飲みなんて年末年始と暑気払いだけで充分だ、とさらりと言ってのけた三井さんは「終わったらさっさと抜けてここ集合な」と続けて立ち上がり、ポカンとしたままの私を見下ろす。

「なんだその顔、嫌なのかよ」
「あ、えっと、なんかびっくりして」
「予定でもあんのか?」

 ふるふると首を横に振って否定する。本当はもう帰っちゃおうかなって思ってたし、全体打ち上げなんて絶対出ないつもりだった。さっさと家に帰って、お風呂にお湯を張って、入浴剤を入れて半身浴をしながらゆっくり体と心の疲れを癒そう。頭の中で粛々とそんな計画を立てていた筈だったのに。

「行く! 三井さんとお疲れ様会します!」

 私って、なんて現金な女なんだろう。心配されて、構ってもらえたことがうれしいだなんて幼稚にも程がある。
 しばらく眉間に皺を寄せていた三井さんは、私の返事を聞くとニッと歯を見せて「じゃあ決まりだな」とまるで少年みたいな笑顔を浮かべた。どことなくあどけなくて、自然で屈託のないその表情をかわいらしいと思ってしまったなんて、とても口には出せそうにない。


***


 閉会式が終わってから飲み会には出ないことを伝え、脱兎のごとく抜け出した私たちは、急いで合流すると見つからないうちに体育祭の会場であった施設を出た。会社の人の目につくと角が立つので、今はこうして会場から三駅ほど離れた大衆居酒屋に腰を落ち着けている。

「で、こんな居酒屋でいいのかよ」
「いいんです、静かなところよりガヤガヤしてる居酒屋の方が好きなので」

 ラミネートされたドリンクメニューを眺めながらそう返すと、三井さんは小さく笑って「苗字さんて、やっぱ会社にいる時と全然イメージ違うよな」と言った。
 もちろん、静かなところで美味しいごはんを食べるのも好きだけど、人と飲みに行くのなら自分たちの会話なんか誰も気にしないような賑やかな場所の方が好きだったりする。それに、もう今日は気なんかこれっぽっちも使いたくないのだ。

「アルコールは最初のビールだけにしましょうね、あとは烏龍茶ってことで」
「いや、飲むのかよ。オレと苗字さんの組み合わせでアルコールは……なんつーかその……」
「三井さんが飲まないならそれでいいですけど、私は一杯だけ飲みます。今日ばかりは飲まないとやってられないので」
「なに言ってんだ、オレも飲むわ」

 そう言うと、三井さんはさっさと手を上げて「生二つ!」と自棄になったような声音で注文してしまった。それと一緒にスピードメニューやら細々したものを適当に頼む。
 早々にやってきた生ビールで乾杯しながら、お互い久しぶりに摂取するアルコールににんまりと笑顔が溢れてしまう。

「運動後のビール、最高すぎるな」
「パン食い競争しか参加してないけど、すごくわかります」

 三井さんの話によると、やはり小学生の頃から大学時代までずっとバスケットボールをやっていたらしい。どうりであれだけ飛び抜けて上手いわけだ、と納得した。悔しいが、不覚にもちょっぴりグラリときてしまうほど、あの時の彼は格好良かった。

「まあ、高校ン時は二年ぐらいバスケ離れてたんだけどな」
「えっ? なんでですか? 高校でスポ根卒業しようと思ったんですか?」
「イキって悪ぶってた時もあったってこと」

 確かにぶっきらぼうで強面なところはいかめしくも見えるし、そういえば口調も荒っぽいけれど、それでもこの人が不良?
 軽い冗談かなにかだろうと思って「いやいや、なに言ってるんですか」と返すと、三井さんは表情を変えずに「こんなウソつく利点ねえっつの」とボソリと吐き出した。
 この言い方、どうやらその告白は事実らしい。そして、自分から話し始めたくせにあまり深掘りされたくない話題なのだということが、目の前のその人の様子から見て取れた。

「頑固で真面目で心配性で世話焼きの三井さんが不良……」
「思春期のガキってのはな、唐突にグレたくなる時もあんだよ」

 私にはちょっとわからないです、の意味を込めて首を傾げると、三井さんは噴き出すように笑ってから「もう過ぎた過去だけどな」と私のおでこを人差し指で弾いてきた。思わず「いたい!」と額をおさえて睨み付けてみたけれど、私の威嚇なんか全く相手にせず彼は楽しそうに笑っている。

「一緒に昼メシ行った時も思ったけどよ、苗字さんはそうやって笑ったり怒ったりしてるほうがいいと思うぜ、オレは」

 手加減知らずのデコピンは本当に痛かった。その容赦の無さにムッとしているのに、何故か私はそんな三井さんの言葉と笑顔で自分の心の中がむずむずしているのを感じていた。どうしてだろう、この人の笑っているところを見ていると、うれしいような楽しいような、それでいてちょっぴり苦しいような妙な気持ちになってくる。
 なんだろう、これ。それにおでこまだ痛いし。額をおさえたまま顔を顰める。心はぽかぽかしているのに、それが何故なのかわからなくてきもちがわるい。

「おい、そんな痛くしたつもりねーぞ」

 急に黙りこくった私を覗き込み、少しだけ心配そうに言った三井さんに「めっちゃ痛かったです、おでこ割れました」と大げさに返しながら、よりとくんとくんと静かに鳴り続ける胸の音には気づいていないフリをした。


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