2.


 たぶんもう、会うこともないだろうし。
 そんなことを思いながらお互いに背を向けて歩き出して、経過した時間はたった二時間と少し。今朝のことはもう過去の失敗談として笑い話にしちゃおうって、忘れようって決めたところだったのに。
 だめ、だめよ。私の名前は苗字名前、この会社の産業カウンセラーである。落ち着いて、対面した相手の話をしっかりと聞くことが私の仕事である。そう、まずは呼吸を整えなきゃ。ひっひっふー、ひっひっふー……ってこれ産まれるやつじゃん!
 心の中で己に盛大なツッコミを入れる。しかし、こうなってしまったものはもう仕方がない、どうしようもない。今朝から仕方がないとかどうしようもないとか、そんなようなことを心の中で何回思っただろう。最早数え切れないほどである、ということしかわからない。
 運命の女神様とやらがもし存在するのならば、昨日から今日にかけて私と彼に相当ご執心な様子である。困ったなあ、ものすごく好かれてしまっているようだ。
 脳内でこんな妄想を繰り広げてしまうぐらい、私は明確に動揺していた。けれど、受け入れるしかない。彼がこの会社の社員で、これは現実なのだということを。胸に手を当て、すう、と息を吸いこむ。それをゆっくりと吐き出して、意を決してから真っ直ぐに彼を見据えた。
 まだ硬直したままの彼に、精一杯取り繕うようににっこりと微笑みかけながら「どうぞこちらへお座りください」とソファーへ誘導する。彼は相も変わらず信じられないものでも見るかのように、それこそ穴の開くほど私の事を凝視している。その声が自分に掛けられたものだとようやく理解したのか、ハッとした様子で「あ、ああ、はい」と魂の抜けたような声音で言うと、ようやく扉を閉めて室内に入ってきた。
 おっかなびっくりした動きで促されるままソファーに座った彼は、あからさまな動揺を隠すことすらせずに視線だけを泳がせ、意思の強そうな眉を顰めてぎゅっと口を結んでいる。
 目の前にいるこの人がここまでガッチガチだと、逆に自分は冷静になってくる。なんてわかりやすい人だろう、考えていることが手に取るようにわかる。テーブルを挟んで彼に向き合うように座り、抱えているファイルを横に置く。

「改めまして、産業カウンセラーの苗字名前と申します」

 そう言いながら名刺を差し出すと、彼はそれを受け取り「どうも」と小さく言って私の顔と名刺とを交互に見遣る。

「……そうか、オレたち名前も知らなかったんだよな」
「ですね」

 っていうか、そもそもお互いに自己紹介をしたのかすらわからない。なぜならば、昨晩の記憶がすっぽり抜けてしまっているのだから。
 横に置いたファイルを開くと、彼の名前は三井寿。歳は私より三つ上で、配属先は営業部。今までは神奈川支社の方でバリバリ活躍していたらしいが、この度本社に異動となったようだ。

「当ビルにはカウンセラーが私含め二名おりますので、ご相談があればお気軽にどうぞ。時間は十五分区切りで六十分まで、空いていればスケジュールから直接会議依頼を入れて頂いても、メールやチャットでご相談の上ご予約頂いても構いません」

 この時期に言うセリフは決まっていて、誰に対しても大体これの繰り返しである。
 産業カウンセラーの仕事は、社員から業務環境についての意見などを吸い上げ、経営会議で改善案について提案することが主である。また、メンタルヘルスの管理なども含まれる。端的にいえば、仕事についての相談に乗ることが私の業務なのだ。

「三井さんは、十月の頭にこちらに異動されてきたんですよね。ってことは二週間ぐらい経ってますけど、何かお困りごとはありますか?」
「あ、いや特には……。同期とか、一緒に仕事したことある人も割とこっちにいるんで」

 三井さんはそれだけ言うと、急に口籠って再び視線を泳がせ始めた。仕事とか会社なんかよりも困っていることがあります、という言葉が彼の顔に思いっきり浮かんでいる。それはもう、ハッキリと文字で見えてしまうほどに。

「……その、今朝っつーか昨日は本当に、」

 ようやく口を開いた彼の言葉が耳に届いた瞬間、思わず持っているボールペンを力いっぱいに握りしめてしまっていた。自分も相手も気にしないように極めて事務的に、尚且つ知らない振りをして対応してるっていうのに、それを自ら掘り返してくるなんて。

「ああもう、その話は終わり!」

 バン! と目の前のテーブルを勢いよく手で叩きつけてしまった上、完全にプライベートな言葉遣いで言い放ってしまった。けれど、もう止まらなかった。せっかく忘れちゃえばいいやって思い始めていたところだったのに。
 この人が最初に感じた通りの誠実な人なんだってことはよーくわかった。けれど、どうしてこんなにも頑なに流すことが出来ないのだろう。なかったことにして、さらっと忘れちゃえば楽になれるのに。
 これはもう、真面目だとか誠実だとかを通り越してただただ極まった頑固者というだけのような気がしてきた。ちょっと、いやかなり悪い言葉を使わせてもらえるならば、頭の固いバカ正直というやつだと思う。

「もう済んじゃったんです、終わっちゃったことなんです! なんとかうまく昇華するしかないんです!」

 そうやって気を使いすぎて腫れ物に触れるみたいに扱われるほうがキツいです、と仕事用ではなく、ほとんど素のトーンで吐き出すように言い切る。思わず語気を荒げてしまった私の勢いに驚いた様子で目をぱちくりさせた三井さんは「お、おう」とたじろぎながら言った。

「私も飲みすぎて反省してるし、自己嫌悪だってすっごいありますけど、時間が戻るわけじゃないですし。お互い都合よくそこら辺の記憶すっぽり抜けちゃってるんだから、もう気にするのやめましょう」

 私が誘惑してしまったのかもしれないし、彼が誘ってきたのかもしれない。それでも事実、それを了承して受け入れたのはお互いで、そして自分自身だ。
 目の前の彼──もとい三井さんはまだ何か言いたげに口を開こうとしたが、すぐにぐっと唇を結び、心の中で葛藤するかのようにぎゅっと目を瞑って腕を組んだ。しばらくして、ようやく開かれた彼の瞳には、何かを決意したような色が浮かんでいた。

「……わかった。けど、朝も言ったけどオレはなんか有ればぜってー責任は取るぞ。……っていう感じですので」
「ぶっ、なんですかその語尾。大丈夫ですよ、畏まらずにお話してください」

 ここはカウンセリングルームですから、と付け足すと、三井さんは「そうだな」と困ったような笑顔を浮かべて見せた。真面目すぎて頭硬いくせにあんな失敗しちゃったり、生き辛そうなほど真っ直ぐだったり、なんだか不思議な人だと思う。

「えーと苗字さん、は……その、彼氏とかは大丈夫なのか?」
「え? ……ああ、私いま特定の相手いませんから。どうぞご安心ください」

 彼からの質問に、あっけらかんと返事をした後で思った。どうして今までそこに思い至らなかったのだろう。私も動揺で頭がうまく回っていないらしい。三井さんこそ、パートナーがいるのではないか?
 一見強面でぶっきらぼうだが、まじまじと観察してみるといかにも女の子受けしそうな男らしい見てくれをしているし、上背だってある。そこそこどころかなかなかにモテそうな彼に、そういう相手がいないとは考えにくい。
 急に背筋がひんやりとしてくる。浮気、不倫、パートナーがいる相手とのワンナイト、子どもだっているのかも。不吉な単語や文章がものすごいスピードで脳内をぐるぐると巡る。そんな不安と焦りを悟られないように「あの……そちらは?」と問い返す。
 私の答えを聞いてから、どこかホッとした表情を見せていた三井さんが「いや、オレもいない」とハッキリ言い切った。そっちこそてっきり相手が居るもんだと思い込んでた、と続けた三井さん。彼は私のどこをどう見てそう思ったのだろう。
 とりあえず、今のところはお互いに大失敗した、という事実だけで済みそうだ。当事者である私がそんなにダメージを受けていないのは、目の前にいるこの人が引いてしまうほど責任を感じすぎているせいかもしれない。
 確かに朝は動揺したし、絶望感みたいなものだってあったけれど、よく考えてみればどちらかに記憶があればもっと厄介なことになっていただろう。お互い都合よく記憶を飛ばしてしまっていたことが、逆に良かったような気さえしてくる。

「いろいろありましたけど、これからは同じ会社で働く者同士よろしくお願いします」
「オレもアンタも覚えてねえんだけどな、その……いろいろってやつ」

 まるでひとりごとみたいに、そして相変わらず自嘲気味に吐き出された三井さんの言葉は聞こえなかったフリをして「ご相談があればいつでもご連絡ください」と定形通りの言葉を返す。彼はこくんと頷いてから「こうなっちまったら逆になんでも言いやすくていいな」と吹っ切れたような、ほんの少しやけくそなニュアンスを含んで言った。
 朧げだけど、ほんの少しだけ覚えている二次会と三次会の記憶。この人との会話が楽しくて、そして盛り上がったからアルコールが進んでしまったのだ。
 ひとつだけ言えることは、なかなか面倒くさそうな人だけど、決して悪い人ではないということである。職業柄さまざまな人間と会話してきているせいか、そういうことはすぐにわかる。
 それじゃあ、と立ちあがった三井さんは、軽く頭を下げてから部屋を出て行った。会釈を返して、その背中が扉の向こうに消えていくのを見送る。
 再びひとりになった部屋の中、それでもボーッとしている暇はない。今は繁忙期で、尚且つスケジュールは分刻み。次の予約の時間だって迫っている。慌てて次の人のファイルを探すべく立ち上がり、デスクの方へと戻る。
 無意識に吐き出したため息の中に、少しばかりの緊張が混じっていたということは、悔しいので認めないことにする。


***


「あら、名前ちゃんってば若いわねえ」

 そう言って笑うサチ子さんと向き合っている私は、眉根を寄せながらフォークにパスタを巻きつける。和食か洋食、悩んだ末に選んだのはパスタ屋さんだった。明太子パスタを注文することにより、どちらの欲も満たされるような気がしたからだ。

「しかもその彼が異動者で今日予約入ってた人なんて、なんかもう運命感じちゃうわね。おばさんドキドキしちゃう」
「私はドキドキどころかハラハラかつイライラですよ……。こんなことってあるんですね」

 現実逃避をするように、わざと他人事のように言いながら「まあ悪い人ではないみたいでしたけど」と小さく低い声で付け足し、巻きつけたパスタを口に運ぶ。
 友人の結婚式に出たのち、調子に乗ってはしご酒で泥酔、朝目が覚めたら素っ裸で知らない男性とホテルでした、なんてとてもとても親には報告できない。しかし、サチ子さんに暴露することでほんの少しだけ気持ちが楽になった気がする。
 友人のしあわせな様子に心が暖かくなってほっこりしたのは本当だ。それなのに、まるで棘みたいに突き刺さっていたあの言葉が、チクチクとその感情の邪魔をしてきた。
 ちょっと頑張ってみますか、と婚活に精を出してみた時期だってあったけれど、結局しっくり来ないことばかりだった。そこでわかった、そういうことは焦ったり適当に決めていいようなものじゃないんだって。無理やり頑張ることじゃない、なんなら今だって特にひとりでいて困ることなんてないんだし。そう気持ちを切り替えて、私の毎日を私らしく一生懸命に過ごしていたっていうのに。
 あんな言葉、気にしなければいいだけ。そう思っていたのに、実際のところはかなりのダメージであったことが悔しくて仕方ない。
 しかし、傷ついていたとはいえ、やらかしてしまったのは自分自身である。それを母親の言葉のせいにして、表向きは強がっているくせに心の中でこっそりしくしく泣いていたことがどうしようもなく情けない。
 ああ、また少し自分のことが嫌いになってしまいそうだ。

「名前ちゃんみたいなしっかりさんでも、そんな風に羽目外しちゃうことあるのねえ」

 私はしっかり者なんかじゃないし、真面目でもない。何かについて悩んだり、考えすぎて立ち止まったりすることがいやだから、そちらに気が向かないようにいつだって無我夢中になって何かをこなしていたいだけなんです。そう吐き出してしまいたいのをなんとか堪える。だめだ、気持ちがとんでもなく後ろ向きになってしまっている。
 彼──もとい三井さんとのあの出来事だって、ホテルを出て別れたその瞬間、もう済んだ話になる予定だったのに。あんな最低なシチュエーションじゃなく、もっと違う形で出会えていたら良かったな。
 そんな思考を巡らせながら、私は無意識のうちに顔を顰めていた。
 いやいや、何を考えてるの。たしかにあの人、ちょっと男前だったし悪い人でもないみたいだけど、でもだからってそんな。
 ああヤダヤダ、今日はさっさと家に帰って眠りたい。絶対に定時で上がりたい。

「まだまだ若いんだからいろんな失敗したらいいのよ、でもお酒はしばらくやめないとね」

 そこはもちろん痛いほど肝に銘じておきます、と頭を垂れたら、サチ子さんは「でもやっぱりドラマみたいな話だわ!」と楽しそうに笑うのだった。



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