勉強も部活も、それに恋だって、自分で努力しなきゃいい方向に進めるわけがないし、道だって開けるわけがない。一応競技スポーツに身を置いているのに、打ちのめされてから改めてそんなことに気づかされるなんて。頑張らなきゃ結果は出ない、そんなの当たり前のことだ。
 というわけで、今更ついでに私はようやく思った方向に進もうと思う。


FRIDAY.



 金曜日。私のとんでもない1週間はやっと今日で終わるけど、このしつこく暑い毎日はもうしばらく続いていくだろう。
 こんな炎天下で運動なんかしてることを、いつものことながらアホらしく感じてくる。水分補給とか休憩するのを忘れたら一発で熱中症になってしまうだろう。
 それでも私たち陸上部はそんな炎天下のもと、それぞれが走ったり跳んだり重い鉄球を投げたりしなきゃいけない運命なのだ。
 でもまあ結局、校庭で太陽に焼かれるか、体育館で蒸されるか、中も外も暑さに攻められるという点では大して変わらない気がする。
 夏の総大は近い。出来るだけ走りこんでおかないと、と肌を日に焼かれながら私は今日も走っている。

「休憩してくれば?」

 1500メートルのタイムを計り終えて、しゃがみこんだ私の頭の上に冷んやりとしたタオルがぽんと置かれる。ナッちゃんの声だった。
 置かれたタオルから染み出した冷気が、湯気が出そうな頭のてっぺんに蓋をしているみたいだ。それを掴んで顔面に当てたら「うわあ」と声が出てしまうぐらい気持ちよかった。
 整わない呼吸で胸が上下して、こめかみから流れた汗が顎を伝って地面に落ちる。ふらつく自分の身体を半ば支えるように立ち上がり、よろめきながら水道のある方向に歩いていく。
 ずっと炎天下にいたせいだろうか、日陰に入るだけで少し体力が回復していく。塩分が足りていない気がするから、少し休んだら戻ってスポーツドリンクでも飲まなきゃ。
 ふらつく足で校舎裏を通り、ゆらゆらと揺れる木陰を見上げる。いろんな意味で本当に濃い1週間だった。お陰で部活も授業も全然身が入らなかった。
 でも、これも今日まで。来週からの私はいつもどおりの私で、むしろ色々吹っ切れて新しい私になるのだ。うん、やる気出てきた。
 傍を通るだけでやっぱり賑やかで熱気の伝わってくる第1体育館では、今日も男子バスケットボール部が練習に励んでいるのだろう。私たちのように太陽に焼かれてはいないけれど、蒸し風呂の中できっと滝のような汗を流しているのだ。
 お互い頑張ろうね、と心の中で知り合い程度にはなれたかもしれない有名人のキャプテンに向かって言ってみる。
 牧くんがいなかったら、あの事がなかったら、私はきっともっと長く凹んだまま、傷を引きずってめそめそしくしくしていたに違いない。
 体育館を通り過ぎたその先の日陰に、井戸水の出る水道がある。運動部の面々は決まってこの場所が大好きなはずだけど、この時ばかりは私しかいないみたいだ。やった、今だけこのラッキーを楽しもう。
 蛇口を開いてばしゃ、と手のひらに水を引っ掛けてみると身体の芯に響くような心地の良い冷たさを感じる。
 両手で掬った水を少しずつ飲んで喉を潤して、口の端からこぼれた水を手の甲で拭う。もう一度掬った水を顔にかけるとなんとも言えない気持ちよさで、今まで熱をもっていた自分の身体が急激に冷やされていく感じがした。地面に映った木陰が風でゆらゆらと揺れる。
 去年まで、大会が終わって先輩が引退していくのを見ていた。そして今度は私の番だ。
 練習をする毎日が、スタートする瞬間が、そして今この時も、全部が全部もう二度やってこない。私に『来年』はもう無いのだ。
 なんとなく、こうしたいな、とかああなりたいなという将来への展望がある。この夏が終われば私の陸上競技生活は一応終わりだ。このまま海南大に進学できるように、推薦をもらえるように、今とはまた違う忙しない日常が始まっていく。これで最後って思うと、途端に今のこの時間が惜しくなってくる。
 なんだろう、やっぱり頭がぼーっとする。私の脳みそ、ふやけちゃったのかな。
 水道に腕を付いて目を閉じていた私の頬に、突如ぱしゃ、と水が降りかかる。冷んやりとして気持ちがいい。そう思ったのも束の間、私はその勢いのままばっと横を見た。

「そんなに驚くと思わなくて……すまん」

 いつの間にか牧くんがいた。驚いてぽかんとしたままの私を差し置いて、彼は蛇口を捻るとその水を顔にかけ始めた。
 牧くんの首筋を伝う汗なのか水なのかをじっと見つめながら、肩に乗せたままだったタオルで自分のびしょびしょの顔面を拭う。
 牧くんに水かけられちゃった。真面目で厳格そうで、じゃれあったりなんか全くしそうにない牧くんに。
 やっぱり、人っていうのは実際に関わってみないとわからないものだと思う。そうじゃないと、牧くんが意外とお茶目な人だったってことを私は知らないままだったに違いない。
 牧くんはしたたる汗と水を首にかけたタオルでグイっと拭って顔を上げた。

「練習中だよね、お疲れさま」
「ああ、苗字さんも」
「うん、あのね、久々に気張ってタイム測ったらちょっとだけバテちゃった」
「最近はイヤになるほど暑いからな」

 私たちはどちらともなくしゃがみこみ、水道を背にして揺れる木陰を見上げた。
 「ええと、なんだ、その」と、牧くんが何かを言いたげに口を開く。そちらを向いてそのあとの言葉を待つように軽く首を傾げてみる。彼は私をちらりと見やると、突然頭をがしがしと掻きはじめた。いきなりどうしたの、とぎょっとしつつ「だ、大丈夫?」と声を掛けてみる。

「もうずっと、苗字さんに謝ろうとおもっていて、オレは」
「え? ……いや、でも私、牧くんに何かされたことなんかないよ、だって話をしたのだってついこないだで」
「いや、その、なんだ……告白の」
「告白?」
「現場を見てしまったんだ」

 告白の現場。そう言われて思い出すのは月曜日のあの時、あの場所での出来事。
 なるべく思い出したくない、脳裏をちらつくたびに恥ずかしさでジタバタしたくなる。寝る前、不意に思い出してベッドの上で「もー!」と言いながら大暴れしたら、お母さんに「うるさい!」と怒られた。
 あの時、牧くんが近くにいたなんて。あんまり人の通らない部室棟へ続く裏の道。誰かに見られていたなんて思いもしなかった。
 でも、これで全ての辻褄が合った気がする。

「……あ、あー、そ、そうなんだ」

 動揺と恥ずかしさで声がどもってしまう。
 あの場面、牧くんだけには見られたくなかったな、なんて思っちゃうこの気持ちは一体なんなんだろう。
 牧くんは「すまん」ともう一度言ってから、私に向かってぺこりと頭を下げた。気にしないでいいんだよ、と私は言う。
 だって牧くんは悪くない、むしろあんな場面に立ち会わせてしまって申し訳ないと思うのは私の方で、そんなモヤモヤを抱えさせて気まで遣わせてごめんねって謝るのも私の方なのだ。
 ああもう、それなのになんで私はこんなにショックを受けてるんだろう。あんな惨めなシーン、覚えているのは自分だけでよかったのに。気にしないでいいんだよなんて、自分で自分に言い聞かせているだけじゃないか。

「……苗字さんのことは、綺麗なフォームで走る人だなと入学したすぐ後ぐらいから思っていた」
「も、もーやだなあ! ……面と向かって言われると照れるじゃんか」
「よく学校の周りを走ってるだろ? うちの部活も外周メニューがあるんだが、どこまで着いていけるか試したみたこともあるんだ」
「え……!? そんなの知らないよ!?」
「ああ、気づいてなさそうだったな」

 流石に速すぎてずっとは追えなかった、と微笑む牧くんの横顔を見ていられず、思わず顔を逸らす。
 走る時、余計なことは考えないようにしている。だってそれだといい記録が出ないから。だから気づくはずなんかなかった。牧くんがそんなに前から私のことを知ってたなんて。しかも、天上の人のように感じていた相手に褒めてもらえるなんて。
 どうしよう、すごくうれしい。それにすごくむずむずする。もう横向けなくなっちゃった。

「……こんなこと言われても困るよな」
「あ、えっと、違うの! すごく嬉しいんだよ、私、その、牧くんみたいなすごい人に褒めてもらえて、どれぐらい嬉しいかって言うと」

 私は立ち上がり、牧くんの方に向き直ると「もう、これぐらい!」と腕を大きく回して円を描いてみせる。
 ううん、本当はこんなもんじゃ足りないぐらいだ。頑張っていたのを見てくれていた人が居て、そしてそれが牧くんだった。ここ最近の自己肯定感がどん底だったせいだろうか、もう例えられないほどに嬉しかった。
 と、我に返ると自分の幼稚すぎる行いが急に恥ずかしくなってきた。この暑さのせいではなく、自分の頬がかあっと熱くなっていくのを感じる。
 慌ててすとんと座り込み、牧くんの様子をちらりと伺ってみたら、彼は眉を下げてくしゃ、と笑っていた。初めてその笑顔を見たときから、牧くんの素が見える柔らかい笑顔が好きだった。
 一緒に走っていることに気づけていたら、もう少し早く知り合えていたのかな。
 この夏が終わったらあっという間に冬がきて、そうしたらもう、私たちはただ少し会話をしたことがある同級生として卒業するだけなのに。

「……タオルを渡して慰める事ぐらいしか出来ないのが歯がゆかった。オレはその、つまり、」

 風に靡いて木陰の揺れる音。日陰に吹いたひとときの風が私の前髪を靡かせる。
 ぼうっとしながら何かを言おうとしている牧くんの言葉を待つと、彼の視線がゆっくりと動いてこちらに向けられた。

「そんな事でしか好きな子を慰められない自分が情けなかった」
「私だって、実らせようって何も努力してないのに告白したって実るはずなかったから! 牧くんが自分を責める理由なんて……って、え……?」

 ちょっと待って、と私の口から飛び出してきた言葉のあと、私たちの間を流れたのは少しの沈黙であった。
 牧くんがはっとしたように自分の口を覆う。それを信じられないという気持ちで眺めながら、私は暑さで既にやられていた脳みそを必死にフル回転させる。でも、うそ、この反応って。
 牧くんの頬が赤かった。それを視界に入れてしまったが最後、途端に私にまで伝染してきた。
 熱い、暑いんじゃなくて熱いのだ。顔も、手も、全部全部熱くて、胸がどきどきした。昨日、保健室で牧くんと会話したときもそうだった。どうしよう、私これが何のどきどきなのかもう知ってる。
 こんな場所で2人して頬を赤くしているなんておかしいったらないだろう。もし誰かに目撃されたら一瞬で噂になってしまうに違いない。
 心臓の鼓動を落ち着かせる為にTシャツの胸の辺りをぎゅっと握り締める。

「……言い訳みたいで格好悪いんだが、言うつもりはなかったんだ。何度も言うが困らせたいわけじゃなくて」
「牧くん、ちょっと聞いて」

 私も、彼に伝えなくちゃいけない気持ちがある気がする。
 あの優しさに救われたこと、余計なお世話だなんて全く思っていないこと、彼と知り合って会話をすることで自分の認識を改められたこと、意識をして彼を知ることで、自分の心がどんどん癒されていっていたこと。そうだ、おなじ間違いを2回も重ねるわけにはいかない。
 だってもう、タオルを渡されたその瞬間に、私のバキバキでグラグラの心はとっくに彼の存在に寄りかかってしまっていたのだから。

「私、牧くんがタオルを貸してくれた時本当に救われて、失恋した気持ちも紛れて、タオルの人誰だろう、いい人だなあって思ってて、牧くんだって知ったとき凄く驚いて、そりゃあもうさっき水かけられたときの比にならないぐらいで!」

 そこまで言うと牧くんはぷっと噴出してはちきれた様に笑った。そんな彼の様子を見ながら自分の言ったことが恥ずかしくなってきた。

「……苗字さんを困らせるつもりは無かったんだ、忘れてほしい」

 え? と思わず小さく声を漏らす。
 忘れてほしい、その言葉がぐわんぐわんと脳内で響く。忘れてほしい、何を? 彼が今言った言葉を?
 見たことのない、どこか憂いを帯びた牧くんの表情を見ながら思った。きっと、あの時の私と同じだ。気持ちが溢れて、留めておけないそれが飛び出してしまった。私にはその気持ちがよくわかる、だって、同じことしちゃったんだもん。

「ばか! 忘れられるわけないよ!」

 立ち上がってこの場を去ろうとする牧くんのTシャツの裾を慌てて引っ掴み「まだおわってないからちゃんときいてください」と必死に声を絞り出す。驚いた様子で眉根を顰め、何とも言えない居心地の悪そうな表情をしている彼の顔を真正面から見つめていたら、思わずごくんと喉を鳴らしてしまった。
 だめだ、改めて面と向かうと恥ずかしくて爆発しそうになる。目の奥が熱くて痛くて、喉が詰まりそうだ。でも、ここで言わなかったら次の機会なんてきっと来ない。

「だってもう、私の頭の中牧くんでいっぱいだもん……」

 牧くんは信じられない物でも見るかのように目を見開くと、小さく「な……」と声を漏らした。
 彼は私の顔をじっと見据えてから、よろりとよろめいて崩れるように地面にしゃがみ込んだ。慌てて「大丈夫!? 私が変なこといったからだよね!? ごめんね!」と声を掛けると、牧くんは下を向いたまま力なく小さく首を横に振った。

「嬉しすぎて力が抜けたみたいだ」

 静かな声でそう言った牧くんが、ゆっくりともたげていた首を上げて真正面から私をじっと見つめてくる。

「それは、そういう意味だと捉えていいか?」

 オレが伝えた気持ちと、同じだと思っていいのか?
 彼は確かめるようにそう言った。唇がわなわなと震えて、思わずぎゅうっと拳を握りしめる。牧くんの視線が私のことを射抜くように向けられているから、私は金縛りにあったみたいに硬直していたけれど、もう沸騰しそうな気持ちを抑えられずにこくんとひとつ頷いてみせた。
 私の反応を見た牧くんが、私の大好きな笑顔で眉根を寄せながら笑んだ。暑くて、熱い。ちらちら揺れる木陰の下、人気のない水道の脇、夏の日の夕方。

「嬉しすぎて、頭がぼうっとしてきた」
「もう、熱中症とか怖いんだからあんまりそういう冗談よくないよ」
「いや、冗談じゃないんだが……」

 そう言われてみると、そういえば私もなんだかふらふらしてきた気がする。そもそも、グラウンドを離れてこの場所に涼みにきた時点でちょっとバテ気味だったことを思い出した。
 
「……そうだ、さっきのは男らしくなかったからやり直させてくれ」
「やり直すって……? えっ、な、なにを」

 ゴホン、と咳払いをすると、牧くんは私の肩をガシッと掴んだ。その威圧感とオーラに圧倒されて、思わず肩をビクつかせてしまう。

「オレは、苗字さんが好きだ」

 やり直しが「もう一度告白させてくれ」って意味だったなんて。
 わかったからもうやめて、と心の中で叫ぶ。肩に感じる牧くんの熱い手のひらの温度を感じながら、私はこくこくと何度も何度も頷いた。
 彼のどこまでもまっすぐな視線は、ジリジリと私たちを焼き尽くそうとしている太陽なんかよりも遥かに熱くて、私は一瞬で溶かされてしまいそうになる。
 どうしよう、この人素でやってるならとんでもないぞ。血が沸騰してどうにかなりそうだ。

「……と、そろそろ戻らないとだな。また改めて、ちゃんと話をさせてほしい」

 これって、そういう関係になったって事なのかな。
 それじゃあまた、と小さく手を振って別れる。去って行く牧くんの大きな背中が、なんだかふらふらしているように見えた。
 そんな彼の足がピタリと止まる。ぐるりとこちらを振り返ると、何かを思い出したかのように戻ってきた。

「もうひとつあった」

 もうひとつでもふたつでもどうぞ、という気持ちで頷くと、牧くんは意を決した様子で言葉を発した。

「これからは、名前で呼んでもいいか?」

 名前って、苗字さんらしくていい名前だっていつも思っていたんだ、と彼は言うと、私の返事を待つようにこちらを伺うような視線を向けてくる。
 呆気にとられながら、呼ばれたそれが私の名前だと気づいた時にうれしいのと恥ずかしいのとでぐちゃぐちゃになりそうだった。

「いいに決まってるよ……」

 私の言葉を聞くと、ほっとしたように牧くんが目を細める。私、最初から最後までこの人の真っ直ぐさにドキドキさせられてばっかりだ。
 よかった、と笑んだ牧くんは「それじゃあお互い練習頑張ろうな」と踵を返した。
 今度こそ去っていくその背中を見送りながら、たった数分の出来事を頭の中で反芻させてみた。途端に耐えられなくなってぶんぶんと首を振る。
 だめだだめだだめだ、ただでさえ暑くてどうにかなりそうなのにこれ以上体に熱を溜め込んだら逆上せて本当に具合悪くなっちゃいそう。
 私もそろそろ戻らなきゃ。握りしめていたタオルをもう一度水で冷やして、ぎゅっと絞る。手に力が入らなくて困ってしまった。きっと、戻ったら「遅い!」と部長に怒声を浴びるに違いない。
 よっしゃ、やってやるぞ、という気持ちでふらつく足を動かしながら駆け足でグラウンドへと戻る。
 折角きれいだと誉めてもらえたフォームを保って、一心不乱に走る。前だけ見て、思う方向に真っ直ぐ進んだ。

(end.)


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