16.

(仙道視点)

 試合前日ということで、練習は軽く汗を流す程度のメニューで終わった。
 そのあとのミーティングを終えてから帰宅し、シャワーを浴びてカバンの中に入れっぱなしにしていた携帯を取り出したら、名前さんから彼女らしいメールが入っていた。

『お疲れ様です。明日の試合、表立って応援してますとは言えないのでメールで言わせてください。彰くんが、皆さんのチームが優勝する姿を見られることを祈っています。今日はなるべく早めに休んでくださいね。お返事はお気遣いなく。』

 時刻は夜の二十一時。なるべく早く休んでくださいね、なんて言う名前さんこそ、仕事を終えて帰宅できているのだろうか。
 なんやかんやで一週間以上顔を合わせないなんてことは割とあった。それでも明日の試合が終わればシーズンが終わるし、あっちこっちと遠征で飛び回ることはなくなるので、少しはゆっくりできるはずだ。
 右手に携帯を持ち、濡れた頭を左手に持ったタオルで適当に拭いながら、風を入れるため網戸にしていたベランダに出た。外に置きっぱなしのサンダルをつっかけながら柵を背に上を見上げてみる。部屋の灯りが漏れてやしないかな、と思ったけれどそこまでは確認出来なかった。
 ふう、とひとつ息を吐く。近頃、日中は歩いていると汗ばむぐらいの陽気だが、まだすぐに夏が来るわけではない。ジメジメの梅雨がきて、それをじっと我慢のしたら暑い暑い夏が来る。
 そうか、その季節が来たらここに住みはじめて一年が経過したことになる。たしか今ぐらいの時期にトライアウト受けたんだっけ。やっぱりどこにいても、何をしていても自分からバスケは切り離せないものなのだな、と改めて思う。
 もともと緊張なんかはほとんどしない方で、明日の事を考えても変なプレッシャーのようなものは無い。
 周りからは直接対決だとか下克上なるかとかいろいろ言われているけれど、ここ何ヶ月かでこなしてきた何試合もの試合の中のひとつであることに変わりはないのだ。より多くボールをゴールに突っ込んだ方が勝ちで、少なかった方が負ける。それは細かいルールがいくつか変わったとしても、絶対に揺るがず変わらないたったひとつのことである。
 目指してみるとテッペンってのは思いのほか遠くて、今まであと何歩、あと数センチってところで登りきれずに終わってきた。試合中がものすごく楽しくても、結局勝てなきゃ意味がない。今だって緊張はない。けれど、いつだってこんな感じのタイミングになると自分の奥底からふつふつと沸いてくるものが確かにあった。今この時も、ジワジワとそれを感じている。
 彼女からのメールをもう一度読み返してから上階のベランダを見上げ、きっとオレなんかよりよっぽど緊張してそうな彼女に向かって呼びかけてみる。
 名前さんのほうこそ、今晩ちゃんと眠れるといいんだけど。


***


 カーテンの隙間から差し込む朝日で目を覚ました。起き上がって伸びをして、大あくびをひとつ。肩を回してみる。うん、いい感じだ。
 普段から滅多なことがない限り考えすぎたり悩んだりしない性格だからだろうか。バスケをすることに関しては、あまり不調というものを感じたことはない。エンジンが掛かるまでに時間が掛かったりすることはあるけれど、なんとなく今日は初っ端から飛ばして行ける気がする。っていうか、そうじゃなきゃダメな相手で、そういう試合なんだけど。
 試合前の今だって気負いはほとんどない。考えて、構築して、周りを見て動く。いつもやってるのと同じことだ。
 自分が楽しいからやってたはずのバスケ。今は、それを見て喜んでくれる人たちがいる。チームメイトとか、スタッフとか、応援してくれるファンとか。
 それに、今日は自分の中でちょっとした賭けをしている。ここまで来て負けるってのは、やっぱり気持ち良くない。何度か経験してきたけれど、そろそろもう勘弁かなって感じだ。
 手配されたチームのバスを降り、今日の会場であるホームアリーナに到着したら、試合を観戦に来たブースターの姿が既にちらほら見えた。
 アリーナの外に立てられた旗が心地よい風でヒラヒラと靡いていて、なんだか背中を押されているような気分になった。優勝が決まるかもしれない試合がホームでの開催。これ以上ないってぐらい追い風だと思う。
 いつもより少し熱の入ったミーティングを終えて、アップの為にロッカールームを出ると、遠目に名前さんの姿を見つけた。プレスの腕章を付けた彼女はもう最初の頃のように不安げな表情を浮かべてはいない。やっぱりちょっと緊張はしてそうだけど。こりゃやっぱり眠れてなさそうだ。
 そういえば、名前さんと知り合ってからもう一年以上が経つことになる。
 まだシーズンが始まる前、彼女的にはきっと忘れたいハプニングで初めて顔を合わせてから、まさか仕事でも顔を合わせることになるなんて思わなかった。らしくないことをいうと、こういうのを縁っていうのかな、なんて思ったりしている。
 こちらの視線に気づいたのか、名前さんは目が合うと一瞬だけ驚いたような表情した。ひらひらと小さく手を振ってみたら、思いっきり仕事モードのキリッとした表情でぺこりと軽く会釈をされた。久々に会ったというのにとんでもなくサッパリした反応である。まあ、そんなところが彼女らしいなんて思えてしまうのだが。
 仙道、と名前を呼ばれたのはそんな時だった。振り返ると、今シーズン何度も顔を合わせた高校時代からの知り合いがそこに立っていた。
 お疲れ様です、と返事をすると、今日の対戦相手であるその人、牧紳一は小さく頷いてオレの胸を拳でトンと軽く叩いた。

「なんか、思えばこういう局面でよく会いますよね」
「確かにそうだな」
「最初はオレが高一んとき、それから高二の夏とインカレのトーナメント、それで今日」

 陵南に入って最初の県大会。神奈川の王者こと海南大付属高校。そのチームに所属していて、一学年上のその人は二年にして既にその名を知らしめていた。
 一試合丸々マークに付かれて、何度も一対一で向き合って。思えば、それから何度も繰り返した牧さんとの対戦はいつだって楽しかった。
 一年の頃に勝ち逃げされて、大学に入ってからも何度か対戦して、試合に勝つことはあれど、最終的にいつもこちらより高い順位にいるのがその人だった。だから今日こそは。自分の中でふつふつと何かが沸き上がっていく。

「今までもそうだったけど、今日も負けるつもりはねーんで」
「ああ、知ってる。臨むところだ」

 よし、試合始まる前からエンジンかかってきた。胸を借りるとか、そんなことを思ったことは今までだって一度もない。これ以上ないってぐらいの相手、これ以上ないってぐらいの大舞台。
 そろそろ勝たせてもらいますよ。なんてったって、今日はたぶんオレが人生で初めてカッコつけたい、なんて思ってしまっている日なのだから。


***


 口から心臓がまろび出そうとは、まさに今の私の状態である。自分が試合に出場するわけでもないのに、どうしてこんなに緊張してるんだろう。
 彰くんに『早めに休んでくださいね』なんてえらそうなことを言ったくせに、私は昨日自分が眠れたのか眠れていないんだか、それさえもよくわかっていないレベルである。うとうとしてきたと思ったら目が覚めて、それを繰り返してやっと眠れたと思ったら朝だった。
 ベッドに横たわったまま、起きるのが辛いという感覚を久々に味わった。起きなきゃいけないのに起きられない。まぶたが重くて、ただ目を開けるだけのことが億劫で。寝不足の体に鞭打って、なんとか身体を奮い立たせて出勤して今に至る、というわけである。
 試合開始は昼過ぎなので、会社に出社してから到着したアリーナはいつも以上に活気があった。それもそうだ。ほぼ確実に、今日この場で今シーズンのリーグ優勝が決まるからだ。現在一位と二位のチームの勝ち点差は今日の結果でひっくり返る。勝った方が優勝するのだ。スポーツの試合に絶対は無い。だから何が起こるかわからないし、どちらが勝ってもおかしくない。
 今日は観客席も記者席もほとんど空きはない。この終盤にこんなカードが見られるなんて。
 しかし、そんなワクワクよりもはるかに優っているのが緊張の方なわけで。

「相田くんだけに白状させてほしいんだけど、だめだってわかってるのに心がすごくこっちのチームに寄ってっちゃう……」

 そう、こっそり相田くんにだけ耳打ちしてみる。チーム付きのライターではないのだから、中立の立場でいなくちゃいけないことは痛いほどわかっているのに。悲しきかな、私は感情を持った人間なのでそれがなかなかに難しい。
 目の前で行われているアップを血走った目で凝視している相田くんは、試合前だというのにもう爆発しそうなほど昂っていることがわかる。

「わかりますよ、ボクもダメだダメだって思ってるのに仙道さん応援してしまいますもん、この気持ちには抗えへんのや……!」

 しかも相手はあの牧さんがおるチームですからね、と続けた相田くんにこくりと頷く。
 牧紳一という選手も、それこそ彰くんや流川さんのように「わかりやすく凄い」選手の一人だ。威圧感たっぷりで貫禄のある見た目に反して、取材に伺ったりするといつだって腰が低くて物腰が柔らかい人物である。それでもって、彼も普段の様子と試合中ではまるで人が違ったようになる。真面目で紳士的な普段の様子は引っ込んで、熱くて気迫溢れた圧倒されそうなプレーをするのだ。
 聞くところによると、どうやら彰くんと牧さんは高校時代から大学リーグまで何度も対戦してきており、彰くんの方が負け越しているらしい。こういうの、ライバルっていうのかな。
 目の前で行われているアップをぼーっと眺めながら、キリキリ痛むおなかをさする。こんなに緊張したの、いつぶりだっけ。大学受験の時、それとも入社の最終面接の時?
 私、ちゃんと見届けられるのかな。試合前に試合とは全く関係ないそんな不安を抱えながら、じわじわと迫るその時に向けて上がっていく会場のボルテージ。それと比例するみたいに私のヒヤヒヤしたドキドキも高まっていく。
 仕事なんだから、と何度も自分に言い聞かせてみても今日ばっかりはいつも以上にダメかもしれない。


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