10.

「あの、お、おかえりなさい!」

 仙道さんは驚いたような表情を見せたあと、視線をゆらりと逡巡させて「なんでここに」と小さく声を漏らした。

「すみません、お部屋にいらっしゃらないみたいだったから……。あと検査、何事もなかったみたいで良かったです」
「ありがとうございます、いやそうじゃなくて、えーと……」
「その、お聞きしたいことがあって、だから待たせてもらってました」

 驚いた表情のまま、仙道さんは困ったように眉根を寄せながら後頭部を掻いた。
 私がどんなに思考を巡らせて、どんなに悩んで彼の真意を探ろうとしたって、そんなことはわかるはずもなかった。それがわかるのはそう、仙道さん本人だけ。そんな単純なことにどうして気づけなかったんだろう。
 本人に聞けばわかる、これでスッキリできる。自分の中にあるこのわけのわからないモヤモヤぐるぐるとした感情も、これで綺麗さっぱり片が付く。

「こないだのことですよね、本当にすみませんでした」
「あ、あの」
「何度でも謝ります」

 目の前で深々と頭を下げる仙道さん。その姿を凝視しながら、私はただただ慌てた。謝ってほしいわけじゃない。そんなことの為に彼が帰ってくるのを待っていたわけではない。彼の気持ちを聞きたかった。どうしてあの時キスをしたんですかって、そう問うだけで済むはずだった。衝動的でも気の迷いでも、どっちでもいいからハッキリ言ってほしかった。
 私たちの距離は1メートルもないのに、彼をとても遠く感じる。もう何も言えないと、そう思った。私が間違っていた。何もなかったことにして、あれっきりで終わらせてしまうのが正解だったんだ。彼に問うて答えを得て、それでただただ自分の気持ちに整理をつけたかっただけ。なんて自己中心的な行動を起こしてしまったんだろう。

「……謝るのは、私の方です」

 顔を上げた仙道さんが「え?」と小さく声を漏らす。

「無かったことにするべきでした、ごめんなさい。もう大丈夫です」
「ちがうよ名前さん、あれは完全にオレが悪い。だから謝らないで」

 いつも飄々としていて穏やかな彼の顔に貼り付いているのは明らかに私への後ろめたさと困惑。そんな彼らしくない表情をさせたいわけじゃないのに、その表情をさせているのは紛れもなく私なのだ。

「仙道さんは、その、気の迷いだったかもしれないし、だから」

 ああ、なんてバカなことをしちゃったんだろう。このモヤモヤは時間の流れが消し去ってくれるようなものだったかもしれないのに。気にしてないふり、すればいいだけだったのに。
 自分の声がどうしようもないほどに震えて、ぐらぐらと目の前の視界が歪む。いい大人の癖に、自分の感情さえろくにコントロール出来ないことが情けなくて、恥ずかしくて悔しい。

「ちがうよ」
「え……?」
「気の迷いなんかじゃない」

 そう言った仙道さんの表情は、試合の時に見せるそれに似ていた。いま彼から私に向けられている視線は、呼吸を忘れるほど真っ直ぐだった。
 あの時、私の中に「いやだ」という気持ちはおかしなことにこれっぽっちも、それこそ微塵もなかった。どうして抵抗しなかったのだろう。やろうと思えば力を込めて彼の胸を叩けたし、足をバタつかせることも、声を上げることだって出来たはずなのに。それでも、私はそれをしなかった。

「名前さんのこと好きすぎて、いろいろすっ飛ばしちゃいました」

 ホントにごめんなさい、と仙道さんは続けた。
 あのあと、信じられないぐらいドキドキして顔が熱かった。しばらくあの場を動けなかった。あれからずっと仙道さんのことばかり考えてしまっていた。
 何でだろう、どうしてかなって悩んで、でもいま仙道さん本人と話をして、鈍感な私はそこでやっと結論にたどり着いた。
 自分で自分のことさえもわからないなんて。呆れてどうしようもない気持ちとは裏腹に、喉から胸にかけて詰まっていた大きな何かがすっと融けていくような感じがした。

「……どうしてこんなにモヤモヤして苦しかったのか、いまやっとわかりました」

 彼が怪我をした時、自分でも驚くほど動揺して何事もないとわかるまで気が気ではなかった。
 キスをされた時に抵抗しなかったのも、インタビューのボイスレコーダーを聞きながらモヤモヤしたのだって、私がいつの間にか仙道彰というバスケットボール選手だけじゃなく、彼自身に惹かれていたからだったんだ。

「キスされてから、ずっと頭の中が仙道さんでいっぱいなんです、ドキドキしちゃってなにも考えられなくなっちゃって、くるしくてつらかった」

 思っていることが口からぼろぼろとこぼれ出る。言葉にしてみてやっとわかった。私は、彼のことが好きなんだ。

「名前さん、そういうのダメだって」

 仙道さんはやっぱり困ったような表情だったけれど、いつもの優しくて穏やかな眼差しを私に向けながら少しだけ腰をかがめた。
 同じ高さで視線が重なる。ひく、と喉が痙攣しそうになったのを必死に抑えようとして口をぎゅっと結んだら、今度は涙が滲んで視界がどんどん歪んでいく。

「泣かないで」

 ゆっくりと伸びてきた大きな掌が、小さい子をあやすみたいに私の頭を優しく撫でた。
 仙道さんが「名前さん」と私の名前をゆっくりと呼んだら、それが合図だったみたいに私の瞳からぼろっと涙が零れ出る。

「でも私、仙道さんの好みのタイプじゃないです、だってインタビューしたの私だもん」

 一瞬きょとんとした表情をした仙道さんは「ああ、あれは年上ってとこ以外真逆のこと適当に言っただけです」としれっと答えた。
 彼の言っている意味がわからなくて、私は相も変わらず溢れてくる涙をぼろぼろと零しながら、目なんか乾いていないのにぱちばちとまばたきを繰り返す。その涙を「あーあー、大変大変」とか言いながら指で拭ってくれる仙道さん。

「オレがあの時思いつくのって名前さんのことばっかりだったからさ」
「え、ど、どういう……?」
「名前さんにだけホントのこと教えます」

 オレが好きなのは、表情豊かで頑張り屋で、自分のキャパ越えても止まれなくて、隙だらけで簡単に男にキスされちゃうような人です。そう言い終えた仙道さんは、人差し指を立てながら「オフレコですよ」と付け足してニッコリと笑った。

「わたし、あてはまる……?」
「そうだよ、名前さんのことが好きって言ったの」

 私は、目の前にいる仙道さんの困ったように笑う優しい表情が好きだった。心を落ち着かせてくれるような穏やかな声音が好きだった。バスケをする彼の姿が好きだった。気さくな人柄が好きだった。いつの間にかこの人のこと、こんなに好きになっちゃってたなんて。

「だからオレのことで頭いっぱいなんてかわいいこと言われたら、また強引にチューしちゃいますよ。それに今度はもっとがっついちまうかも」

 顔が発火するんじゃないかってぐらい熱い。彼が言葉をひとつひとつ発するたび、それが聞こえるたびにどくんどくんと心臓が鳴る。

「……し、していいです」
「へ? ……いや、何言って」
「そうしてほしいって、思っちゃったから」

 私の言葉を聞いた後の仙道さんの顔にはそう、例えるならばあの時の、あのキスの後の動揺した表情に近いものが浮かんでいた。
 自分が何を言ったのか、ちゃんとわかっていた。いつの間にか涙は止まっていたけれど、恥ずかしさのせいで熱を持った目尻が灼けるみたいにジリジリとひりついた。

「……ダメでしょ、そんなこと言っちゃ」

 仙道さんが吐き出すように言ったその言葉は、私をたしなめるような意味を持っているのに、どこか彼のひとりごとのように聞こえた。下ろしていた手首を優しく掴まれて、私の心臓は一際大きく鼓動する。
 どこからかガチャ、という音が聞こえて「私の心臓の音って、こんな鍵が開くみたいな音だったっけ?」なんて間抜けなことを考えながら、私は手首を引かれるがまま、仙道さんの広い胸にダイブしていた。
 やべ、という声が頭の上から聞こえて、私は頭の上にクエスチョンマークを浮かべる。その鍵の開くような音が、仙道さんの隣の部屋から聞こえてきたものだとやっと気づいた時には、いつの間にか視界から廊下の風景は消え去っていた。

「……こういう時、なんか隠れなきゃって思っちゃいますよね」
「わかります」

 悪いことしてるわけじゃないのにな、と笑う仙道さんにつられて笑いながら、私はふと思い出した。なんだろう、この感じ。つい最近、同じような体勢になった気がする。
 このあいだ、私の後ろにあったのはマンションの廊下の壁だった。足元に目をやると、ここはどうやら玄関で、見上げると仙道さんのいつも通りに整った顔があって、彼はその視線を私に向けながら「ごめんなさい、咄嗟に連れ込んじゃって」と言った。
 いま私が背中をぴったりとくっつけているのは、仙道さんの部屋の玄関の扉らしい。扉と仙道さんに挟まれている私。それって、あの時とおんなじだ。すこしだけ冷めていた体の熱が一気に戻ってくる。全身の毛がブワッと逆立つ。急に恥ずかしくなって大げさに目をそらすと、仙道さんは小さく笑った。

「ねえ名前さん、オレに近づかれてドキドキする?」
「へ、あ、し、します、すごく」

 もう今にも心臓が破れちゃうんじゃないかって思うほどドキドキしてます、それに間違いなく心拍数がおかしなことになってます。
 そんな言葉をぐっと飲み込む。だけど体がぴったり密着しているせいで、私の爆発しそうなほど脈打つ心臓の鼓動はとっくに彼にバレてしまっているに違いない。人間の心臓が鼓動する回数は最初から決まっているというけれど、きっとこの瞬間にも私の寿命は軽く二、三年ほどぶっ飛んだとみて間違いない。

「真っ赤んなってんの、すげーかわいい」

 胸がキュンて、ほんとに鳴っちゃうものなんだな、と他人事みたいに思った。もうすっかり思考回路が麻痺した脳みそでは、そんな間抜けなことばかり考えてしまう。
 こういう時、何て言えばいいんだろう。うれしいです、かな。それとも、ありがとうございますだろうか。どっちもなにか違う気がする。そして、そんな言葉を発する余裕なんてどこにもなかった。

「名前さん、オレだけのものになって」

 惹かれていたことをやっと自覚したばかりだというのに、このセリフはいささか破壊力が強すぎる。硬直したままの私は仙道さんから視線を逸らすことができず、こくんとひとつ頷くのが精一杯だった。
 降りてきた彼の唇が私の額に触れて、思わずびくりと身を震わせた。ぎゅっと目を瞑ると、額から目蓋へ、そして鼻と頬に小さくキスを落とされる。触れられた部分が熱くて、じわじわと焦らされているような気分になった。閉じていた目を開いたら、ぱちんと視線がかち合って、彼の目が柔らかく細められるだけで胸がとくんと鳴る。
 このまま食べられちゃうんだ、と思った瞬間、唇が重なった。この間とおんなじはずなのに、感じることは全く違う。ぐい、と顎を持ち上げられて、ちゅ、と小さいリップ音。唇が離れたと思ったら、またすぐに触れ合う。角度を変えて、幾度となくそれを繰り返される。
 うまく呼吸ができなくて苦しいはずなのに、なぜだか心がぽかぽかして、暖かいもので満たされていく。さっきまで苦しかった胸の詰まりは消えたはずなのに、またすぐに胸がいっぱいになる。それでも今度は、その窮屈さをくるしいとは感じなかった。
 私の下唇を彼の舌がちろりとなぞった瞬間、背筋がぞくりとした。ぱくり、と食まれるとどんどん力が抜けていく。
 行き場のない呼気が鼻から抜けると、私の中からくぐもった声が漏れる。それを聞くたびに仙道さんが嬉しそうにゆっくりと瞬きをするのが恥ずかしくて、見ていられずにまたぎゅっと目を瞑る。脳みそが現在進行系でドロドロに溶けていっていると、そんな風に本気で思った。
 どのくらいそうしていただろう。気づいた頃には、私は仙道さんに支えられながらなんとか立っている状態だった。

「だから言ったのに、すげーがっついちゃうって」

 もう思考もままならなくなっていた私は、満足そうな仙道さんの笑顔をボーッと眺めながら心の中でちいさな白旗をぱたぱたと振った。
 どうやら私は、もうすっかり彼に骨抜きにされてしまっている自分がいるということを認めざるを得ないみたいだ。


[*前] | [次#]

- ナノ -