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心臓が大きく跳ね上がる。驚きに目を剥いたまま、鯱は反射的に振り向いた。が、その目は更に開かれることになる。そこにいたのは幼い少年で、なおかつ鯱がよく知る人物であった。


「…ドクター?」


グッと喉がつまる。眉を潜め、警戒と恐怖を込めた瞳を向けてくるのは、間違いなく、六道骸本人だった。

なんと声をかければいいのかわからない。自分は目の前の少年と言葉を交わす術を持ち合わせていない。そう考えて、すぐに鯱はハッとした。自分は何を思っているのか。目の前の少年は境遇こそ異質であるものの、一人の幼子には代わりないのである。センチメンタルな母性愛とエゴイズムによる同情が波となって一気に自分の中を満たしていく。目頭が熱くなる。嗚呼、ああ、私はなんて愚かで小さい人間なのだろう、次に来たのは後悔と罪悪感だった。自己嫌悪は自分の悪い癖の一つだ。しかし、今回ばかりは止められそうにもない。顔にも出ていたのだろう、六道骸は困惑した表示を見せた。自分がボロボロと涙を流す理由がわからないのだろう。


「ああ、最近色々あってな…気にしないでくれ」


たぶん今、自分は笑えていない。仕舞いには少年までつらそうな顔をしている。その表情に余計に胸が痛んだ。困惑や警戒の色は全く消えていないが、恐怖は少し薄れたようだ。
何時間経ったのだろうか。感情の波もだいぶ収まって、少し恥ずかしくなりながら鼻を啜っていると、今まで一定の距離を保っていた少年はゆっくり、恐る恐る踏み出した。


「あ…」


ゆっくり、ゆっくり。戸惑いと困惑と一緒に。少しの期待を抱いて。涙腺が緩んだままなので、また涙が溢れてきた…小さい子どもには弱いのだ。時間をかけて、ついに少年は鯱の目の前にやって来た。


「いたい?」
「…ううん、痛くない」
「ないちゃダメだよ」
「あぁ…ありがとう」



もう一度微笑むと、ぎこちない、けれど純粋な笑みを返してくれた。涙で視界がぼやけているのがとても惜しかった。


「ドクターじゃないの?」
「あぁ」


自分の言葉に、目の前の少年はあからさまにホッとしてみせた。まだ完全に警戒が解けたわけではないが、あれからまた少しずつ話してくれるようになった。四、五歳ほどの少年には、まだ他人に期待を抱く余地があったようだ。


「そういえば、何故泣いてはいけないんだ?」
「泣いたらドクターに怒られるもん」


ここはホームじゃないから大丈夫だと思うけど…。そう言ってみせる目の前の少年に、鯱は唖然とした。怒られるという単語には、恐らく自分の想像を遥かに絶する苦痛が込められているに違いない。それが然も当たり前である少年の環境に、己の無力さを感じた。


「あぁ、ここはホームじゃない。」
「え?」
「私はドクターじゃないし、ここには私たち以外誰もいない。だからここには、君を怒る人も、痛いことをする人もいない」
「…」
「もちろん、泣いたって構わないんだ」


今度は自然に頬が緩んだ。自分の気持ちが、言わんとしていることが伝わったのだろう。その無垢な少年の、純粋に染められた綺麗な藍色はみるみるうちに塩辛い雫に包まれた。キラキラと光を反射して落ちていくそれを拭ってやる。触れた瞬間体が強張るのがよくわかったが、それもほんの僅かのことだった。
自分は特別な人間ではないことは重々承知している。原作を変えようなどと、無謀で自惚れたことは塵も考えていない。しかし、ただ目の前の無力な少年に、何かしらの普通という温もりを与えてやりたかった。私が開いていた道場に通っていた子らと同じ安心と笑顔を抱いて欲しかった。それくらいはどうか許してください。鯱は誰にというわけでもなく、心のなかで強く願った。



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