main のコピー | ナノ
36





「こりゃ、首領に怒られるなー」

おどけて言った少女が、先手を打った凪の剣を踏んで跳ねた。天井を蹴って大きく跳躍をする。後ろだ、と気付いたのと、郁人が身体を翻したのはほぼ同時だったといっていい。

「凪っ!」

天井を蹴ったのと同時に身を捻り、予想通り少女はナイフを投擲する体勢をしていた。言うまでもなく狙いは凪である。
これに気付けたのはシオンをみていたおかげだろうか、となんとなく郁人は頭の隅で思う。そして考える間もなく半身を凪の前に投げ出し、細剣を振るった。細い刀身でまともに弾けるかと郁人は不安だったのだが、運がよかったのだろう、ナイフが金属とぶつかる甲高い音がする。

そして少女はすぐに、先ほど二刀流の男が逃げていったのとは反対の方向に風のような速さで消えていく。真琴が追ったが、とても常人に追いつける速さではなかった。

「郁人、お前―――ッ!」

洸の殆ど掠れ切った声が耳朶をうつ。目を逸らしていた現実と向き合うために郁人はゆっくりと腹部に目をやり、それから困ったように笑った。

「…、やっぱりおれじゃ、カッコよく、とはいかないな」

投擲されたナイフは三本だった。一本はレイピアで弾き、もう一本は手前で床に突き刺さっている。捌き切れずに腹部に突き立った一本のナイフを見て、郁人は苦笑いをするしかない。ただひたすらに熱い。
ゆっくりと膝をついて、滲む血が赤い絨毯にぽたぽたと落ちるのを、どこか他人事のように見ていた。痛みよりも、熱さと情けなさでいっぱいだ。激痛にもんどりうつさまを晒さずに済んでいるのはアドレナリンのおかげだろうと考えるほどには落ち着いている。

名前を呼ぶ声と、駆け寄ってきた良く知る熱が自分の身体を引き寄せるのを感じたが、郁人はただただひたすらに考えごとをしていた。やっぱり、おれは探偵なのであって、こういう荒事には向いていないようだ、とか。そういや地下の施設はどうなったんだろう、とか、色々。

こういうときってナイフは抜くんだっけ、それとも刺さったままにしておくんだっけ。聞こうと思って洸を振り仰ぎ、その顔が霞むのを自覚する。痛みがじわじわと郁人の脳を侵食し出した。怪我をするのには、慣れていないのだ。

「洸、後、たのむぞ」
「…郁人ッ」
「ばか、おれはまだ死なない。それよりも―――…」

滲み出る血が、傍らに膝をついた洸の服に沁み込んでいくのを、郁人は焦点が近付いたり遠ざかったりする目で見ている。ようやっと激痛が襲ってくるのに合わせて、顔面を蒼白にした凪を見上げた。思わず膝をついた凪の腕を掴み、郁人はうまく笑えているだろうか、と思いながら、わらう。いつも通り、根拠のない自信と余裕に溢れた笑顔で。

「全面開戦は、免れそうだな」

郁人、とかれの名を呼びかけた凪の唇がきゅっと引き結ばれて戦慄いた。ごぽりと郁人の唇から血が溢れる。まずい、と頭の冷静な部分が警鐘を鳴らした。腹を刺されて血を吐くということは、なんらかの器官が傷ついたということだ。だが郁人にはほかにもまだ、まだ凪に伝えておかねばならないことがある。郁人は親友を、壊したくない。

だから残った全てのちからを込めて、ぎゅっとかれの腕を握りしめた。国を支える、その腕を。郁人を眩しいと言ってくれた、親友の腕を。

「…きみを、親友を助けることに、理由なんかいらないだろう?」

凪の紫水晶いろをした瞳が見開かれる。それと同時に郁人がいやな咳をして、喀血の飛沫が凪の頬を汚した。それを見て耐えかねたように洸が叫ぶ。

「もう喋るな!」

咳をしたのと同時に腹部からの出血がひどくなった。洸の腕が身体を引き起こし、どうやら運ばれるらしいと郁人が悟るのと、意識が遠のくのは殆ど同時だった。ふっと笑って、自ら進んで瞼を閉じる。やっぱりさあ、おれ、推理とか、そういうのがやりたいんだけど。次に言うことは決まっていた。洸は笑うだろうか。怒るだろうか。

「…ッ」

弛緩した郁人の身体を、出来る限り傷口に負担がかからないように洸が抱え上げる。帝都には病院がいくつもあるが、その中でも一番信頼出来るのは―――深く考えるよりもさきに、洸は駆け出していた。目指す先は決まっている。じわじわと手に触れるあたたかい液体にわななく唇を感じながら、それでも洸は駆け出すしか、なかった。

血だまりのほかには、廊下は驚くほど静かだった。地下での戦闘の喧騒もここまでは届かない。あの身のこなしはただ者ではないだろうし、きっと彼女はすでにこの城にはいないだろう。軍部の反乱と一連の謀反は、事実上海の国の完全勝利に終わった。すべて、凪の狙い通りに事が運んでいる。

だが、凪はまだ立ち上がれずにいる。あたたかい血だまりに膝をついて、手のかたちに血の痕が残った自らの礼服の袖を押さえて硬直をしたままだ。

「凪様」
「…」
「…ご指示を」

しかし真琴には、そう言うしか術がない。酷だと分かっていながら、今凪がどんな思いをしているか分かっていながら、かれを叱咤せねばならなかった。と同時に、郁人に感謝もしている。今の投擲術に抜き合わせられるのは、軽いレイピアを扱う郁人しかいなかった。そしてかれが凪を庇わなければ、少なくとも二本のナイフを浴びていた凪の命はなかっただろう。凪もきっと、それはわかっている。わかっているからこそ、辛いのだ。

「…亡命者をひとりたりとも逃がすな。生死は問わない」

立ち上がる。既に洸の背中は見えなくなっていた。拳を握りしめる。白く震えるそこが、皮膚を破り、かれの手を血が伝うのを、真琴は見ていることしか出来なかった。拳を右胸にあて、真琴は頭を下げる。

真琴が、今頃は鎮圧に向かっているだろう地下へ向かってから、凪は行き場のない感情のままに壁を殴ることしか出来なかった。手のひらが熱い。郁人の命の熱が、まだ残っている。

――――俺はきみに、嘘をついた。

かれの笑顔をこいねがうだけでこうふくでいられるほどに、凪は大人ではなかった。あのまま郁人の命が尽きたら、と思うと、凪は耐えかねたように壁に爪を立てた。

かれに、嘘をついた。なにひとつ思いを伝えられぬまま、守ると、守りたいと思った相手に守られて、息をしている。狂おしいほどに恋慕している相手に何も言えず、その熱を失いそうになっている状況ですら何も出来ないで、無事でいる。それがもどかしく無様で、苦しくてたまらなかった。




top main
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -