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なんとか第二音楽室の前まで戻ると、僅かに旋律が漏れ聞こえてくることに気がついた。恐らく雅臣に猫ふんじゃったすら上手く弾けない悠里の話を聞いていなければ気付かなかったその懐かしいメロディに目を細め、柊は鍵を開けることを少しためらう。しかし一時限目ももうすぐ終わりだ。休み時間になればこの教室の前も教科棟の端にあるとはいえ、もしかしたら一般生徒が通るかもしれない。

そして結局、躊躇った末に鍵を開けて音楽室のなかに足を踏み入れた。

「あ」

すると鍵盤から顔を上げた悠里と目があった。鍵を閉め、その傍まで歩み寄る。つたない猫ふんじゃったが中断された。

「おう、おかえり。どうだった?」

読書に飽きてピアノに触れていたのだろうか、悠里は眼鏡をかけている。長い間調律もされていないであろうピアノが奏でていた音は決して飛びぬけて美しいようなものではなかった。だがやけにスローテンポなあの曲はどこか悠里らしい感じがして、雅臣に言われた言葉のせいで固かった表情がすっと崩れる。

「どんな選曲なんだよ、それ」
「これしか弾けないんだって!…妹がちっちゃいころ、教えてくれたんだよな」
「シスコンめ」

シスコン呼ばわりされてもどうやら図星らしく悠里が反論してくることはなかった。どうやら傷心は未だ引きずっているようで、タイミングよく鳴った一時限目が終わった合図の鐘にも教室を出ていく気配は見せない。悠里が授業を二日連続でサボることなど、あの男の真面目さを考えると相当なことだ。案外ガラスのハートなのかもしれない。

「もう弾かねえの?」
「弾かない。…で、どうだったんだ?土下座のムービー撮ってきた?」

白い鍵盤の上から長い指を退かし、悠里は身体ごと定位置に腰掛けた柊を振り向いた。いつのまにそんな話に、と思いながら柊は首を振る。フラグを立てるどころか丸めこまれて帰ってきたなどといえるわけもなかった。

「そうか…、もう明日の校内新聞のこと考えるだけで腹が痛い…」
「ま、まあまあ…」

ショックを受けていることに安心をする自分に辟易をしながら、柊はぼろろんと歪んだ音を立てて鍵盤に突っ伏した悠里のつむじあたりを眺める。いつからだろう、この氷のような笑みとやわらかくてあたたかい微笑みをころころと使い分ける頭のネジのズレた男に惹かれていたのは。生徒会室、最近はこの音楽室で一緒に過ごしてきた時間のことを思い出せば、ひどく最初からのような、それとも今日ようやっと自覚したような、そんな不思議な気分になる。

「ピアノ。よく弾くのか」
「ああ、うん。…混乱してる時に触ると落ち着くんだよな」

成程それで、おそらくは初めて人前で俺様になりきったであろう入学式の日に音楽室に忍び込んだわけか。なんとなく納得したような気分になった。かれがピアノの前の椅子を好むのも、きっとそのせいなのだろう。

「…入学式とか?」
「げ。…雅臣に何か聞いたのか?」

そりゃ、色々と。と顔を上げたかれの不安そうな眼差しに見られて言えるわけもなく、柊はそれを軽く受け流す。悠里は肩を竦めて眼鏡をかたりとピアノの上に乗せ、今度こそピアノの上に突っ伏した。ぼろろん、不協和音が鳴る。

「そういや、あいつに音楽室に居る所みられたんだよな…」
「見られただけなのか」
「そう。目が合ったらスルーしてくれたからな」

たぶんそれはスルーしたんじゃなくて、萌え…!とか言って忙しかっただけだと思うぞ。などということは勿論せず、柊は立ち上がった。すこしだけ胸がすっとする。
つまり、あれだ。どうして悠里がピアノを弾くのか、それを知っているのは柊だけということになる。それに僅かに雅臣へのもやもやの溜飲を降ろしながら、柊は悠里の頭にぽんと手を乗せた。そのまま両手で頭を挟むようにして、わしわしと撫でまわす。悠里のほうが柊より背が高いせいで、こうして悠里の頭を撫でるような機会はめったになかった。

「ちょっとどけ」
「えー」

ぐいぐいとピアノの前の椅子から悠里を追いだして、柊は白い鍵盤に指を乗せた。傍に座り込んだ悠里が、何が始まるのかとこちらを見上げている。ぽろん。

「…出た。王道転校生の必須スキル、意外な特技」

その物言いに噴き出してしまってから、柊は調律のきいていないピアノのドの鍵盤を人差し指で押し込んだ。その音が消えてから、長く、それでいて節ばっていないきれいな指が鍵盤の上を滑り出す。

魔法のようだ、と評してくれたのは、椋だったろうか。兄さんのピアノは、魔法みたいだ。旋律がそのままなにかの力を持っているような、そんな気さえするのだと。

「…」

居住まいを正した悠里が正座になっていた。なんとなくそれをみて、笑う。この学園に来て以来ピアノを弾くのは初めてだったけれど、年季が入っているとはいえ音のいいピアノだった。八十八鍵のうち五つの和音が歪んでいるピアノが奏でるのは、悠里には聞き覚えのない、それでいて耳馴染みのよいクラシックの音曲である。

「小さいころからやってたんだ。…乱暴者だった俺が、少しでも大人しくなるようにってな」

なんということのない、というふうに、鍵盤を叩きながら柊は口にする。その口元が僅かにほころんでいることに、悠里は気付いただろうか。

「似合わねぇだろ?…笑わないんだな」
「……」

ぽん、と最後に軽く和音を叩いて柊は短い曲目を終えた。悠里がようやっと、その唇を震わせる。

「…お前って、すごいな」

あんまりに間抜けな言葉だったので、柊は思わず噴き出していた。実のところ家族以外の人間にピアノを聞かせるのは初めてだ。似合わない、笑われる、と、柊はそう思っていたから。

それでも悠里が弾いたあの下手くそな猫ふんじゃったを聞いてピアノに触れたいと思ってしまった。柊が悠里のピアノを弾く理由を知ったように、悠里に柊のピアノのことを知ってほしいと思ったのだ。


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