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「…五年ぶりか」

まるで、ちょっと旅行に出かけていましたというふうな口ぶりで、郁人はそんなことをいった。長い階段を上がって凪の部屋へと続く扉の前まで無事に進み、最早合図の音を鳴らすだけとなっている。

感慨深く顎に手を当て、それから郁人はちいさく笑った。どうやらまだ、軍は凪の部屋に入っていないらしい。静かなものだった。

「…」

二度、扉を叩く。少し待って、次は三度。最後に、一回。少し弱めに、ノックをした。ずっと昔に凪と郁人の間で交わされた、子供同士のひみつの暗号である。

静かだった部屋に、慌てて立ち上がり駆け寄ってくるような足音が聞こえる。なんとなくむずがゆくて頬を掻きながら、郁人は扉が開くのを待った。なんて言おうか、そういやだいぶ髪を切ったのだけど、気付いてもらえるだろうか、とか。

「…郁人ッ!」

しかし、それはまさしく杞憂に終わる。勢いよく扉が開き、そこに立っていたのは、紛れもなく。

豪奢な礼服に身を包み、アメジストのいろをした瞳を驚愕に見開いている、皇子殿下・凪に相違なかった。

かれの唇が戦慄いて、なにもいえずに、ただ郁人の擽ったそうな笑みを見据えている。だいぶ髪が伸びたんだな、とか、こちらも言いたいことがたくさんあったが声にはならなかった。それよりも今、なさねばならぬことがある。

「久しぶり、凪。きみを助けにきた」

以前、凪がかれと別れたときよりも、ずいぶんと身軽そうに郁人は笑っている。腰の細剣をひとつ叩き、そして、そういって人差し指を立てた。

「話したいことがたくさんあるんだ。…訊きたいことも。だけど、それはあと。逃げるぞ」

郁人はいつもそうだった。春風のように、凪の伸ばした腕をすり抜けていく。…凪にはない、たおやかに広がる翼で。自分のことを自由だと、そう信じている、翼で。

「…ここは危険だ。帝都から出る門と城の下階はすでに軍部に掌握されている」

だから凪はひとつ息を吐き、動揺を悟られぬよう、そう答えた。すこしも変わらぬ亜麻色の輝きが、悪戯っぽく凪を見る。そうして、やさしく細められた。とろけそうな、笑みだ。

「ひとつ、読みが外れた」

秘密の通路の入り口を閉じ、凪は郁人を部屋のなかに招き入れる。新しく買った旅装の外套をふわふわと揺らしながら、郁人は凪がいつも眺めている大きな窓の傍へと寄っていった。

皇子殿下である凪の自室は広い。壁に掛けられた宝剣を手に取り、凪は窓のそとで波打つ海に目線をやった。海は遠いが、この部屋からは見ることが出来る。同じように、山の国の火山や、森の国にある魔の森も。

「策を考える。…そういや凪、元気そうでなによりだよ」

窓枠に背中を預け、郁人はじつと凪を見据えた。僅かに表情を崩し、笑う。それを真正面から見返して、凪は僅かに躊躇うような素振りを見せる。

「きみも元気そうだな、郁人」

おのれのこころの奥深くを、吐露していいものか。それを迷っているのだ。ほんとうはずっと、不安だった。これが正しいのか、もしくは間違っているのか。ならばどうすればいいのか、どうしなければならないのか。凪はそれらすべてを、たったひとりで判断しなければならなかったから。

「…俺は、」

そして、凪は吐き出すのだ。それはかれの、全てであった。たったひとつのよりどころであり、もっとも奥深くにある心情である。それを、自分でも分かっていながら、凪は偽り口にする。ほんとうに伝えたいことを口にすることは、今、どうしても凪には出来なかったのだ。かれのまえではいつも、胸を張っていたい。そんな子供じみた、それでも純粋な思いから。

「きみが何処かで笑っているのなら、それでよかった」

僅かに面喰ったように目を見開いた郁人が、それから困ったように首を傾げてくすぐったそうに笑みを見せる。立ちつくしている凪に歩み寄り、ぽん、とその肩に手を乗せた。

「…おれはずっと、心配していたよ」

凪の瞳が見開かれるのを見ることなく、郁人はそのままかれの傍らをすり抜け、壁にかかっているこの大陸の略図に歩み寄る。そして鋭く目を細め、暫しの間瞑目をした。

ひとつだけ、要素が足りない。すべての糸を繋ぎ、凪の命よりも優先すべき事象が、郁人の脳には思い浮かばなかったのだ。

軍部が先にこの城の下階を掌握したということは、そちらのほうが重要であるということだ。郁人の読みが外れるのも当然である。かれはまだ、それだけ重要な何かが存在しているということを知らないのだ。

「…郁人」

俺はきみに、嘘をついた。口にすることが出来ないままに、凪は祈るようにその髪に触れる。昔よりもすこし短くなった亜麻色の髪が、指さきからさらさらとこぼれおちた。

「軍部上層の半数近くが山の国からのスパイか、それに買収された輩だ。どの程度の兵力を持っているのか、想像もしたくない。…騎士団の兵力を東の国に集中させている。一網打尽にするつもりだ」

かれの顔を見ていないから、凪はそう素直に口にすることが出来た。嘘偽りのないことだけを探すと、それはただの情報になってしまう。この五年間、どれだけ郁人のことを案じていたのか、そんなこと、言えるわけもなかった。

「…父は西の大公のところに落ち延びている。文官は南の街で待機をさせた。この城には、今俺と、俺の騎士団しかいない」

凪はこの城を枕に、死んでもいいような気持ちでいたのだ。なんとしてでもスパイたちは自分を殺しておかなければならないだろう。指示を出す人間がいれば、再び魔石の研究は続く。しかし、凪が謹慎処分を受けてから外に漏れないように指示を出すのはとても容易かった。なにせ、いつもなら凪の動向を厳しく見張っている軍の幹部たちは襲撃の準備で大わらわだったから。

「魔導砲は失敗だったが、山の国や軍部が恐れているのはそれだけじゃない。他の場所に構ってはいられないだろうしな」

郁人の指が、緩慢な動作で髪を梳く凪のそれを捉えて引いた。振り向いた郁人の瞳が、真剣そのものの光を帯びて凪を射抜く。

「…魔導砲だけじゃなかった?」

事象をとく鍵を見つけたその瞳に気圧され、そして凪は話し出す。郁人の指先が額に触れ、そして何かを考え出したかのようにその表情が輝くまで、時間はかからなかった。





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