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水溜りを蹴って、郁人は疾走をしていた。ずっと先をいくミシェルの手を引いたケイには、このままでは追い付けそうにない。相当の負傷をしているとはいえ、ケイはやはり人間離れをした体力をしていた。

「郁人、お前身体は!」

もっと加速できるはずなのに、おそらくはそのことが頭に引っかかっているからそれをできないでいる洸が、郁人に怒鳴る。それを知っているから、郁人は返事を返せなくなった。

薬はとうに切れている。おそらくはこれ以上無理をすれば、これ以上の烈しい痛みに襲われることは簡単に想像がついた。塞がった傷口が開くことだってあり得る。

けれど郁人は追いたかった。この事件は、郁人に託されたものだったから。郁人はまだ、その奥底に横たわる謎を、なにも理解できていない。

「…ッ」

右腕を、痛いくらいの力で掴まれた。足が止まる。悲痛な表情で振り向いた郁人を見て、洸は黙って首を振った。

「…追っても無駄だ。…追い付けねえよ」
「洸!」
「……無駄だって言ってんだろ。覚悟決めてんだよ、あいつも」
「だが、かれのしたことは、許されることではない!ミシェルのことはどうする。かれは親と兄弟、それに無関係の人間まで殺した男だぞ!?」

腕の力を緩めないままに、洸は静かな瞳で郁人を見た。つま先から雨水がしみ込んでくる。雨の音は激しくなり、怒鳴り声でもなければ聞こえないほどにふたりの聴覚を支配していた。

「…確かに、許されることじゃねえさ。…でも、許すんだろう」

目を見開いた郁人の表情に、洸は少しばかりの罪悪感が胸を浸すのを感じた。今、すこしでもケイの胸にこの感覚があることを祈りながら、洸は息を吐いて言葉を続ける。

「……許すんだろ、お前だったら」

その言葉はどうやら、雨の音に紛れて郁人には聞こえないようだった。なにかいったのか、というふうにすこし身体を寄せた郁人の息が上がっているのを知った洸は、呆れたように肩を竦める。

「もう、腹いてえくせに」
「……」
「…戻るぞ」

力づくで郁人の腕を引き、洸は踵を返した。この雨では足跡も水に流れてすぐに消えるだろう。追い付けないのは、明らかだった。洸ひとり、全力で追っても追えるかどうか。ケイが森の道を抜けるつもりなら、不可能だろう。

「薬は」
「…切れた」
「……言わんこっちゃねえ」

洸は濡れて雨を滴らせる髪を乱雑に掻き上げて、鬱蒼と繁る大樹の下に郁人の手を引いていく。肩にかかる雨が少しましになったところで、郁人に渡された分とは別に医師から預かってある丸薬を、ポケットから取り出した。

「ほら」

見慣れただろうそれが洸のポケットから出てきたことに驚いた顔を、郁人はした。けれどもう雨に濡れて体に張り付いたワイシャツの下の傷口の痛みはかれの額に脂汗を滲ませているから、かれはそれについて言及することなく、包装を破いてそれを飲み下す。じきに効いてくるだろう。

「少し休んでから、戻るぞ」

雨も強くなってきている。洸は大樹の幹に凭れた郁人がなにか言いたそうにするその視線を黙殺して、泣き出しそうな郁人の瞳をじっと眺めた。

許すだろう。
泣いて、喚いて、どうしてだと詰って、それでも。それでもその理由を悟ってしまえば、かれは、許すのだろう。血の惨劇の原因が自分にあるという苦痛に呻きながらも、それでも、悪びれもなく清々しい顔をした男をきっと、ミシェルは許す。それがいつになるのかは、無論洸にはわからなかったけれど。

「…山の国の傭兵団の、特殊部隊、ねぇ」

かわりにかれと、そして今ごろどうしているか、とちょうど郁人が考えていた、シオンの過去を透かし見てみた。借りがある。他でもない、郁人の命を奪われかけた、大きな借りだ。

「身寄りのないこどもを集めて暗殺者として育てているというわけか。あまりにも非人道的すぎる」
「…傭兵団のやりそうなことだろ」

洸の身の裡に宿るのは、そんな、郁人らしい憤りの念ではなかった。一時は無力だったおのれに向けられていた怒りは、まだ、少しも形を変えずに洸のなかに燻っている。いま、二人もその犠牲者を目にして、かれらがしてきただろうことを考えて、唇を噛んでいる郁人とは違う。

「…洸。おれには、わからない。謎がひとつだけ、残っている」

郁人はそれから、そう吐き出した。かれらしくもない、『謎』の存在を認める言葉。けれどそれは、まもなく紐解かれようとしているらしい。雨がふたりの頭上を覆うたくさんの葉に当たる音の合間に、たしかに洸の耳にそれは届いた。聞こえないふりをして、洸は雨の跳ね返る地面を見る。水たまりは雲の向こうの鈍い太陽を寸の間映し出し、また曇天を描いた。雨はまだ止みそうにない。

「ケイが老人を殺した理由だ。…かれはミシェルのことを、自分と同じように、天涯孤独にしたかったのか?」

いいや、違う。郁人はすぐに、自分の言葉を自分で打ち消した。

「不自然すぎる。老人のときだけは、ケイはほかと違った。使ったナイフ。犯行を外部と見せかけようとした工作。ほかとは、違う」

それを聞いて、洸は少しだけ顎を上げる。それも、そうだ。老人を殺したのは、ケイの持つあのナイフではなかった。どこにでもあるナイフで一突き。どこにでもある殺人事件。けれどそのあとの事件、崖下の三兄弟の事件でも、探偵を刺し殺したときにも、かれは自身の得物を使い、ナイフの形状を隠していた。

「洸。おまえは言ったな、老人に抵抗した様子はなかった、と」

郁人は洸が聞こえないふりをしていることなどとっくにお見通しだったらしい。有無を言わせぬ口調でそういうと、観念して静かに自分を振り向いた洸をじっと見上げる。

「不自然だ。ケイは遺言書のありかを知らなかった。ケイにはあの暗号は、解けなかったようだから。それならばかれは、老人の机のなかを探してしかるべきだった。…なにかが、なければ」

郁人の瞳は少しだけ苦しそうに歪み、洸の目にはそれはこの暗澹たる洋館の家族に起こった惨劇を紐解く探偵のそれに見えたのだけれど、その瞳はそのまま雨が跳ねる水溜りに向けられたようだった。その細く長い指が額に添えられる。いつもの郁人の、考えごとをする仕草だ。

「…―――ああ」

郁人はほとんど吐息のように吐きだすと、おとがいを上げてふたたび洸の瞳をじっと見据えた。何の疑いもなく、曇りもない、いつもの郁人の前だけを見据える瞳。洸はそれに気付き、内心で一つ感嘆のため息をつく。

…事件の『謎』に、かれの理解が、及んだらしい。

「…洸。思い出せるか。老人の死体と、部屋の様子を」
「……少しなら、多分」
「老人が倒れていたのは、部屋の中央だったな?」
「ああ。動かした様子はなかったよ」
「…どこにでもあるナイフで胸をひと突き。開けられ、そして閉められた窓。荒らさせた様子のない机。閉じられた鍵。密室を破れるのは、窓から飛翔できるケイだけだ。ただ」

郁人は洸に与えられた情報を、そうして列挙していく。だがその口は、洸の思っていた筋書きをなぞりはしなかった。

「もう一人、その状況を作り出せる人物がいる」

そういうとかれは、詰めていた息を吐き今しがた駆けてきた道を振り向いた。もう燃え盛る洋館は雨に煙られて少しも見えない。燃え落ちたか、火は消えただろうか。

「だが、もう確かめる手段はない。すべて灰燼と化した。…だから、これは、おれの想像に過ぎない」

言い淀む郁人の顔を、洸は見た。そして、そのもう一人とやらを考えてみようとして、挙げようと思った人物をひとりずつ打ち消している。ミシェルにも、老執事にも、探偵にも、無理だ。窓からの飛翔。どこにでもあるナイフでの一突き。そのままの、遺言状。

「誰だよ」

憮然とした表情で吐き出した洸に、ほんの少しだけ、郁人は微笑んだようだった。そして、その唇は吐き出す。すべての始まりの名前を。

「決まっているだろう。老人そのひとだよ」









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