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「神よ」

水の音だけがする神殿の祈りの間で、神子は今日も祈りを捧げていた。石はふわりと光っている。篝火が神子の横顔を照らす。

「どうして、ですか」

預言が外れたのは初めてだった。神子は外というものを見て、歴代の神子の慣習を破った。すなわち、民の前に姿を現したのである。王の部下である軍部が神子を殺めようとしたということは、衆目の元に明らかになった。民たちは団結した。団結し、王を追放し、国の形は変わった。王を失った国は教団を戴き、民たちが自ら針路を決めるのだという。民がそう望むのなら、神子であるかれに、異存は一つもなかった。神殿の指導者も、神子の意に従った。

しかしそんな神殿を支える神の預言が外れたことは、神子しか知らないでいる。

「私はあの日死ぬはずでした。なのに、生きている」

石は答えを返さない。かわりに街の東に運河を作るとよいといった。ますます国は栄えるであろう。それっきり、答えてくれなくなった。毎日なぜかと尋ねても、神は返事をしてくれなかった。神子は諦めて立ち上がる。冷たい水の滴る階段を上がる。

明るい世界が、神子を待っている。幾重にも覆われ様々なものから守られていた神子の部屋は姿を変えていた。窓がある。緩衝材を挟んで、陽光が差し込む。直射日光を注視するようなことがなければ、急に失明するようなことはないと医者は言った。目が痛むなら、部屋を暗くして休むとよろしい。渋い顔をした神官長も、神子の確固たる意志に負けた。

神の預言が外れた理由を、ほんとうは、かれは、わかっている。神子であるのに、じぶんが神の預言に背いたからだ。あの時、かれに生きてくれ、と言われて、神子は外を見せるというかれの言葉を諦められなくて、生きたがった。すると不思議なもので、この身体は神の預言を裏切ったのだ。だのに神子は理由を神に求めている。苦笑いが漏れた。あまり真面目な神子でなくなったのは、かれのせいだろうか。

「ライナス」

祈りの間のそばで控えるかれの名を呼ぶ。その瞳が笑う。ようやくこうして護衛に復帰したかれもまた、神の預言を覆した男だった。かれは神子に宛てられた手紙が山のように積まれた籠を腕に抱き、神子の祈りが終わるのを待っていてくれた。

嘗て。
その男は必ずお前を裏切る。軍部に寝返り、神殿を破壊するだろう。と、神は言った。

初めてかれに会ったとき、ああこの男が呪われた己を殺してくれるのか、と神子は安堵をした。血で血を洗う教団と軍部の争いが、ひとまずは終わるのだ。己の死という形で終わることは、またこの国が戦火に包まれることは厭だったが、神の御言葉を疑うことなど、神子には出来なかった。だからかれの手にかかり死ぬのなら、それもいいかと思っていた。

神子は成人の儀にじぶんが死ぬことを知っていたし、ほんとうならあの日、ライナスはじぶんをこの祈りの間に連れて来るはずだと思っていた。だからかれが大聖堂に向けてかけ出した時、そこにずらりと明らかな殺意を持ったものたちが居た時、かれがじぶんを振り向いた時、神は正しいと思った。けれど違った。かれは神子に微笑みかけ、そして神の預言に背いたのだ。

かれの手は再び神子のそれを掴んだし、かれは約束通り神子に外の世界を見せてくれた。街は美しかった。いまでは自由に見ることが出来る場所を思う。民はしあわせそうだった。じぶんを慕ってくれていた。隣国との和平交渉は、民の代表が纏めてくれた。この国は平和だった。とても。神子はじぶんの願いが叶っていたことと、神が必ずしも正しくないことを知った。

「身体はほんとうにもういいのか?」
「…はい、すっかり」
「無理は、するなよ」

あれだけの人数をひとりで相手にしたライナスが負った怪我は相当なものだった。ただ、深手がそれほどなかったせいで、出血量のわりに回復は早かったようだ。無論あのあと成人の儀は中止され、教団兵によって王は神殿を追放された。血塗れた護衛を抱えて悲しげに声を震わす神子を目にした民は黙ってはいなかった。神殿と王家の対立は、民にもすべて明らかになった。

神子が民の間に姿を現したのはほんの少しの間。ほかの護衛が駆けつけて、ライナスを抱えて途方に暮れる神子を見つけてくれた。そしてライナスが医者の元へと運ばれるのと同時に神子であるかれは事後処理に追われたのである。

民からの王侯追放の嘆願書のことを神に尋ねたり、民の代表と会ったり、前例のないことばかりだった。いろいろなことを神に祈る必要もあり、教団のなかで意見を纏め、怪我をした教団兵に祈り、神官長に指示を出していたら、神子がライナスを見舞えたのは数日たってからだった。

無論、かれの命が無事だったことは聞いていたけれど、神子は早くライナスに会いたかった。神の預言を二つも破った相手に、神子に世界を見せてくれた相手に、伝えたいことがたくさんあった。やっと笑ってくれたな、と、言いたかった。思えば初めて見た時から、この男がじぶんを殺すのだろうと、ずっと神子は思っていたのだけれど。そんなかれに守られたのだから、悪かった、とも言いたかった。

ちょうど神子が見舞いに行った時、ライナスは意識を取り戻した。王侯が追放されたことや国の形が変わることを知らせると、しばらく呆然としていたっけ。それから、かれは神子にただ一言尋ねた。

「街は、美しかったか」

すこしだけ、不安そうに見えた。

「ああ、とても。次は、昼に見たい」

するとかれは、ほんの少し泣き出しそうな顔をして、わかった、と言った。まだそんな暇は出来ていないが、もう少ししたら、日傘でも、眼鏡でもして、外に行こうと思っている。きっとかれはついてきてくれるだろう。ほかの護衛を撒くくらいのことはして。

「今日も、たくさん届いていた」

そう言って、ライナスは静かに微笑んだ。腕の中の手紙の山を神子に見せ、それから神子を見て、笑みをやさしく深くする。
設けた神子宛てのポストには、たくさんの手紙が届いた。成人の儀への祝辞が遠くの村や町からたくさん届いた。復興の指揮への感謝も。祈りに救われたという声も。久しぶりに兵士の父が家に戻った、という子どもの喜びの声も。神子はうれしかった。ひとつひとつライナスに語って聞かせると、かれは目を細めて笑った。

神子にとっても、国の形が変わったことで大きな変化が訪れた。
民は変わらず神子を愛し、そして神子が民の前に現れることを望んだが、それに加えて、もう一つ。
民は名前を欲しがった。これまでは神子として生き、神子として死んだその名前を呼びたがった。民は神子に、この国のひとりになってほしいと言った。名前を持ち、そうして時折は神殿を出て、けれどこれからもずっと神子でいてほしいと望んでくれた。

そうすると、神子にも欲というものが出た。名前が欲しい。呼んで欲しい相手がいる。神子が名前を呼べば、嬉しそうに返事をしてくれる相手がいる。

「…名前、決まったのか」

二人になると、ライナスは普段の堅苦しいしゃべり方をやめるようになった。その度に、神子はあの夜を思い出す。熱に浮かされ、神に仕える身にあるまじきわがままを言った時のこと。たぶん、神の預言が外れた時のこと。

「まだだ。とても悩んでいるらしい」

神子の名前は、育ての親でもある神官長がつけてくれることになっていた。かれはたいへん困っていたが、ここしばらくは忙しい合間を縫って良い名を探してくれているようだ。神子はそれが、素直に楽しみだった。

民に請われるままに、あの日中止になった成人の儀をやり直すことを神子は決めていた。今度は民の前で。民と共に。そしてその時神子の、この国のひとりとしての名が公表される。そうなることになっていた。

神子以外のものになる。神子であるほかに、じぶんの存在ができる。すこし前まで、考えもつかなかったことだった。神によろしいですかと尋ねると、勝手にしろと、笑ったようだった。

「…そうか」

そうしてライナスは、そうやって笑った神子を見て、静かに微笑んだ。きれいな笑みだった。

「楽しみだな」

呼んでくれるだろう、と思う。きっとかれは、神子に付けられた名前を呼んでくれる。そして神子ではないじぶんのことを、きっと連れて行ってくれるのだと思う。この神殿の外へ。美しいここよりも、もっと美しい場所へ。

神子は生きていた。そのそばでかれも生きていく。それは神の預言とはかけ離れていたが、神子には上々なことであるように思われる。自然と笑顔になった。あと少しで死ぬのだと思っていた頃には考えつかなかったほど自然に。話したいこともたくさん出来た。聞いてくれる人もたくさんいる。しあわせだった。









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