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翌日には、神子の熱は嘘のように下がっていた。握っていた手は俺の力のせいで白んでいて、慌てて手を離してそれを摩った。そこに昨日のような熱は残っていなかった。それにまた泣いてしまいそうなほど動揺をして、俺はそれを悟られないように、眠る神子のそばを離れてほかの護衛にお偉いさんへの伝達を頼んだ。すぐに医者が飛んできて、神子を注意深く揺り起こし、その身体に昨日のような劇症がないことを丹念に確かめた。お偉いさんは涙しながら神子を押し拝み、護衛の幾人かは男泣きに泣いていた。俺はもう泣かなかった。その代わり、まるで昨日の俺の苦し紛れの口約束をしっかりと覚えていますという顔をして俺を見る神子の、輝きを取り戻した真紅の瞳を見つめていた。

神子はといえば馬鹿なもので、その日からまた祈りを再開するようだった。護衛に休みが出来る。病み上がりの身体に、好きな桃でも買ってきてやろうと思っていた。ほかの護衛も思い思いに散っていく。空が青く、街は平和で、民はそれを謳歌していた。

俺は思考を放棄していたのだと思う。神子が生きている、死なずに済んだ、それで頭がいっぱいだった。なにもかも忘れていた。こうふくだった。神子に未来があると思っただけで、俺のこころは軽かった。

やけに賑やかな街。いつもより安い桃。祝賀の文字も、目に入ったけれど思考には結びつかなかった。

桃のカゴを抱え、街を通って神殿に戻る。途中で誰かにぶつかったが、文句をいう気持ちもなかった。だから、俺がそれに気付いたのは神殿に入る手前、門を守る教団兵が俺に直立不動の敬礼をするのに軽く会釈を返したときだった。

桃のカゴの中に、見覚えのある紙が挟まっている。

神子の快復で驚くほど浮かれていた気持ちが冷水を浴びたように静まり返った。神子の祈りが終わるまでまだすこし時間がある。先ほど誰かにぶつかったのを思い出す。そのときだ。

遠い記憶になっていた、軍部の紋章が入った密書だった。

強張る指でそれを開く。心臓が早鐘を打つ。頭がなにも考えられなくなる。神子のもとに仕えるようになってから、俺は自分を制御出来ずにいた。

「決行は今日の式典。お前は神子を大聖堂まで誘導しろ」

文字が目に入って来る。自分がなんだったのかを思い出す。叩き込まれた訓練も、ここに来るまでにしてきたことも、俺の役目も。俺は敬虔な教団兵などではなく、血まみれた暗殺者でしかないことも。俺は神子の護衛などではなかった。俺はその咽喉を貫くためにいたことを思い出す。

今日は神子の成人の儀だ。神子が死にかけていたことを知っているのは神殿のお偉いさんと、医者と、護衛だけ。街の浮かれ様も軍部の動きも、ようやく理解が出来るようになる。

カゴの中の桃を見つめた。良く熟れたそれをひとを殺せないナイフで剥いて、熱の下がらない神子の口元に運んだこと。いつもはすぐに平らげるそれも、ひとかけら食べただけで精一杯だったこと。思い出す、神子と過ごした日々のことを。神子の祈りを。神子の願いを。

俺はこの日のためにここに来たのだ、ということを思い出す。今日の襲撃は苛烈なものになるだろう。軍部、ひいては王家にとっては最後のチャンスだ。そして俺が神子を連れて混戦の間を抜ける。脱出に向いた大聖堂のほうに走る。当然の筋書きだ。

あの安全な祈りの間でなく、大聖堂に神子の腕を引いて走る。そこには軍の用意した精鋭が待っていることだろう。神子は不運にも、原因不明の高熱で、成人の儀その日に死んだ。そんな知らせが民を慟哭させるのだろう。まとまりかけた隣国との和平交渉を白紙に戻し、次の神子が産まれるまで神殿は無力に等しくなる。十八年間の神子の祈りが無駄になる。

「ライナスさん?」

護衛のひとりが、俺と同じように何処からか戻ってきたらしい。立ち尽くす俺に声を掛ける。思考が途切れ、俺は緩慢にそいつを振り向いた。

「夜通し看病されてお疲れでしょう。でも、神子がお元気になられて本当に良かった。成人の儀にも間に合いましたしね」

嬉しそうな笑顔を浮かべ、かれはそろそろですね、といって俺に先立って神子の部屋へ向かうようだった。そろそろ、というのは、神子の祈りが終わることをいう。それに気づき、自分が結構な間立ち尽くしていたことに気付いて驚いた。

動揺している。

ここに来る前の俺なら、やっとこの時が来たと喜んでいただろう密書を握り潰し、なにも考えられずにいる。

神子に生きて欲しかった。笑って欲しかった。外の世界を見て、祈りではなく神子がした指示が、民への思い遣りが、すこしずつこの国を変えつつあると知って欲しかった。神などはいなかったが、神子の祈りは神子の願いを叶えている。

約束をした。今晩外の世界を見せにいくと、約束をした。神子は生き延びてくれた。熱を下げ、元気になって、夜を待っている。俺がかれを殺す、夜を待っている。









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